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輪廻  作者: 代田さん
第三章 兄弟
131/203

5月31日 1

5月31日(金)


 この日は、梅雨が間近に迫っていることを感じさせる、どんよりと重苦しい空が町を覆っていた。

 そんな空模様に影響されたのか、職員室で昼食をとっていた佐久間は大きなため息をついた。


「どうしたんですか? 佐久間さん」


 筋向かいの席からパンをかじりながら三島が声をかけると、佐久間は力なく笑い返した。


「何か、責任感じちゃって……」


「優ちゃんのことですか?」


 三島は、疲れたような表情でうなずく。


「佐久間さんのせいじゃありませんよ。そういう体の状態だったんです。気にすることはないですよ」


「そうは言ってもね……」


 佐久間は食べていたお握りを右手に持ったまま、また一つ、大きなため息をついた。


「あの散歩のあとからでしょ。優ちゃんの具合が悪くなっちゃったの。熱も出ていたし、様子もおかしかったし……体調の変化に、もっと早く気づいてあげればよかった」


「佐久間さんのせいじゃないっすよ。それに、あのときはあれでよかったんですよ。優ちゃんがあの学校を出た直後でしょ。学校がたいへんなことになったのって」


 佐久間は表情を曇らせてうなずいた。


「そうらしいわね。保健室でガス爆発があって、そのガスのせいかはわからないけど、先生方とか保護者の方がたくさん倒れたって……けが人はいなかったとは聞いてるけど」


「どうだったんでしょうね。よくわかんないです。あの時、一時だけものすごく騒がれてましたけど、そのあとは何の報道もないですから」


「報道がないってことは、たいしたことじゃなかったんじゃない?」


「……ですかね」


 そう言って首をかしげた三島は、何を思いだしたのか急にぽんと手を打った。


「そうそう、あの高校といえば、そろそろあの季節ですよね。ボランティア体験」


 それを聞いて、佐久間はぱっと表情を輝かせた。


「そうだ、もうすぐね。あの高校の生徒さんが来てくれると、みんな喜ぶのよね」


「そうそう。あの時は、優ちゃんもすごく機嫌がよくて。去年は確か、眼鏡の男の子にべったりでしたよね」


「そうだった。男の人がだめな優ちゃんが珍しいって、しばらく話題になって……」


 佐久間は元気を取り戻してきたらしく、明るい表情を浮かべていた。


「あれが始まれば、優ちゃんもきっと元気になってくれるわ。よかった。早くその日がくるといいんだけど」


 ウキウキとそう語る佐久間の様子に、三島もほっとしたように笑った。



☆☆☆ 

     


「沙羅くん、ちょっと聞きたいんだけど」


 亨也が話しかけると、沙羅はびくりと肩を震わせ、何やら操作していた携帯を伏せた。


「な、何でしょうか」


 亨也はくすっと笑って沙羅の手元の携帯に目をやる。


「何? 勤務中に秘密のメール?」


「え、いえ、別に、秘密のメールなんて……」


 沙羅は慌てたように携帯をバッグの中に放り込んだ。


「それより、何でしょうか?」


「いやね、八〇八号室の仁科さんなんだけど……」


 沙羅はうなずきながら、動悸どうきをおさめるのに必死だった。返信メールの内容を亨也に見られていないか、そのことばかりが気になって、享也に話しかけられても上の空になってしまう。


「だからその点滴を続行することにしたんだけど、それで大丈夫かな」


「は、はい。総代のご判断で大丈夫だと思います」


 沙羅は慌てて最後だけ辻褄つじつまを合わせる。と、亨也はいたずらっぽくほほ笑みながら沙羅の顔をのぞき込んだ。


「ちゃんと聞いてた?」


「は、はい。もちろんです」


「ならいいんだけど」


 必死でうなずく沙羅の様子に、亨也は首をかしげて笑ったが、軽く手を挙げて立ち去っていった。

 沙羅はほっと息をつくと、携帯をバッグから取り出し、再び返信の続きを打ち始める。亨也は部屋を出て行きながら、そんな沙羅の様子にチラリと目線を流した。


  

☆☆☆



 結局この日も、何の襲撃もなく一日が終わろうとしていた。


「あーあ、このところ平和だな」


 校門に向かう道すがら、寺崎はのびをしながらのんきなセリフを吐いた。が、隣を歩いている紺野は、小さくうなずいただけで何も言わない。


「何だよ紺野。嬉しくねえの?」


「あ、いえ、嬉しいです」


 そのとってつけたような言葉と、嬉しいとはほど遠い表情に、寺崎は苦笑した。


「最近おまえ、顔に出るようになったなあ」


「え?」


 寺崎は紺野の頭を手のひらでぽんぽんと軽くたたく。


「考えてることがだよ。前は無表情で、何考えてるのかさっぱり分かんなかったけど、今はだいたい分かるもんな、おまえの考えてること」


 そう言うと、優しい目で紺野を見つめる。


「……心配なんだろ」


 紺野は驚いたように立ち止まったが、やがておずおずとうなずいた。


「すみません。そんなことを言ってはいけないと分かっているんですけど……」


 寺崎は、いつものように遠慮会釈もなくぐしゃぐしゃと紺野の頭をなで回した。


「ほんと優しいな、おまえって」


「え……」


 ボサボサ頭の紺野の頬に、かすかに赤みがさす。寺崎は笑うと、足を速めて先に校門を出た。紺野も慌ててそれに続いたが、すぐに「あ」とつぶやて足を止めた。


「自転車、忘れました」


 寺崎は振り返って苦笑した。


「先に行ってください。追いかけますから」


「分かった」


 寺崎は歩みを止めず、軽く右手を挙げた。紺野はきびすを返し、自転車置き場の方に消えていく。

 寺崎は鼻歌なんか歌いながら歩いていた。本当に、すぐに追いついてくると思っていたのだ。まさかあんなことになるとは、夢にも思わなかったから……。



☆☆☆



 紺野は自転車のかごにカバンを入れると、鍵を開けてスタンドを外した。

 ハンドルを持って自転車を出すと、そのまま押して歩き始める。自転車置き場の隣は、百三十階段。先日、寺崎が三須を抱えて一番下まで飛び降りたところだ。横目でそちらを見て、感心したようにその目を見張る。

 その時、ふと前方にあるゴミ置き場の脇に、見知らぬ男が立っているのに気がついた。きちんとしたスーツ姿の、学校関係者とは思えない雰囲気の男だ。


――誰だろう?


 紺野はいぶかしげに男に目線を送ったが、特に怪しみもせずその脇を抜けようとした。赤い気が感じられなければ、紺野にとっては特に注意する理由がないのだ。

 だが、紺野が男の前を通り過ぎた、瞬間。

 男は、俊敏な身のこなしで紺野の鼻と口に白いガーゼを押し当てた。


「……!」


 ツンと鼻をつく、薬品のにおい。一呼吸した途端、紺野は目の前が暗くなった。力が抜け、知らずハンドルから手が離れる。派手な音をたてて横倒しになった自転車のかごから、リュックが勢いよく飛び出した。

 スーツの男は気を失ってぐったりとした紺野を軽々と右肩に担ぎ上げると、その重みを毛ほども感じさせない軽やかな足取りで百三十階段に歩み寄った。階段の頂上に立つと、ほんの少しだけかがんで勢いをつける。

 男は紺野を担いだまま、軽々と跳躍すると、百三十階段をひらりと飛び降りた。



☆☆☆ 

 


 寺崎は鼻歌をやめ、目線を後ろに流した。

 数人の女生徒の集団が寺崎を追い越していったが、その後ろには誰もおらず、紺野が追いついてくる気配はない。寺崎は考え込むように立ち止まっていたが、やがてきびすを返すと、学校に戻り始めた。


「……ったく、何やってんだか」


 おおかた、忘れ物でも取りに行ったのだろうと思っていた寺崎は、途中で会えることを期待しながら歩いていた。だが、とうとう紺野に出会うこともなく学校まで戻ってきてしまったときには、さすがに違和感を覚えて眉をひそめた。

 それでもしばらくは校門の前に立って紺野を待っていたのだが、寺崎はふいに何を思ったか、ハッとしたように顔を上げると、早足で歩き始めた。

 走るに等しい速さで自転車置き場に向かった寺崎は、その目を大きく見開いた。自転車置き場の端に自転車が一台、横倒しになっているのが見えたのだ。

 見覚えのあるシティサイクルのかごからは、黒いリュックが飛び出して転がっている。寺崎は早まってくる胸の鼓動を感じつつ、自転車を起こしてリュックを拾い上げる。確かに、紺野のリュックだ。

 その時、犬並みの嗅覚を持つ寺崎は、ツンとした薬品か何かの刺激臭を感じた。


――これは、麻酔?


 寺崎は薬品の臭いをたどって振り返った。そこにあるのは、百三十階段。

 寺崎はリュックを肩に担ぎ上げると、やおら走り出し、勢いのままひらりと跳躍して百三十階段を一気に飛び降りた。猫のように着地すると、すぐさまあたりを見回す。

 開けっ放しの裏門に続く、人気のない薄暗い通り。寺崎はふと、その下草だらけのひび割れた路面に、急発進したようなタイヤの痕がついているのに気づいた。

 しゃがみ込んで確認すると、それは確かにタイヤ痕だった。薬品の臭いは、そこでぷっつりと途切れている。

 寺崎は、リュックを持つ手がわなわなと震え出すのを感じた。

 紺野は確かに、ここから何者かに連れ去られたのだ。いったい誰が、なんのために? 油の切れた頭を必死で回転させようとするも、寺崎にはまるで思い当たらない。どうしたらいいのかも分からない。ただひたすら混乱したまま、寺崎はぼうぜんとその場に立ちつくすしかなかった。

 寺崎の周りで、ぽつぽつと雨音が響き始めた。アスファルトに点々と水滴の水玉模様ができはじめ、土臭いような独特の匂いがたちこめる。雨が降り始めたらしい。

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