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輪廻  作者: 代田さん
第三章 兄弟
128/203

5月28日

 5月28日(火)


 沙羅は、久しぶりに見る横長な風景に、目を細めた。

 駅前のロータリーにはバスが一台と、暇そうなタクシーが一台、夏を思わせる日差しに照りつけられながらアスファルトの路面に濃い影を落としているだけで、人の姿はほとんど見えない。小さなコンビニエンスストアとクリーニング店の入っている背の低いビルの後ろには里山の緑が顔をのぞかせ、吹く風にはかすかに森の匂いがする。

 ここは、沙羅の実家がある郊外の駅だ。彼女が住んでいるマンションから、電車で約一時間ほど離れた場所にある。そう遠いわけでもないのだが、このところ勤務が忙しく、一年以上帰っていなかった。

 だが、今日はかなり無理をして休みをとった。沙羅は実家に帰って確かめたいことがあった。先日の、一族の会合……紺野秀明の今後を話し合ったあの会合以来、母である啓子の様子が何となくおかしかったことが、彼女はずっと気になっていたのだ。

 沙羅は駅からの道を歩きながら、あの会合の後に母がつぶやいた言葉を思い出す。


『今回は黙っていてあげたけど、はっきりさせなきゃね……いつかは』


 黙っていてあげた? 何を、誰のために黙っていたのだろう? はっきりさせる? 何をはっきりさせるのか? それらの答えを、母の口から直接聞きたかった。なかなか休みが取れずにあれから一カ月近くたってしまったが、沙羅は今日、そのために実家に帰ってきたのだ。

 十分くらい緩い坂道を上ると、小高い丘の上にある大きな邸宅の門が見えてきた。沙羅の母、神代啓子は某宗教団体の会長を務めている。夫である神代劉生を亡くした後、高い伝達能力テレパシーを生かして、占いで生計をたてていたが、その人柄と占いの正確さが話題を集め、今では二万人を越える信者を抱える宗教法人に発展している。

 玄関までの長いアプローチを歩いていると、庭掃除をしていた初老の男性が目を丸くして声をかけてきた。


「お嬢様⁉ ご連絡いただければ、駅までお迎えに上がりましたのに……」


 ほうきを投げ捨て、慌てた様子で駆け寄ってくる男性の姿に、沙羅は苦笑しながら懐かしそうに目を細めた。


「小川さん、お久しぶりです」


 小川と呼ばれた老人は居住まいを正すと、深々と頭を下げた。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


「元気そうですね、変わりなく。お母様はいますか?」


 その言葉に、小川は不安そうに目線を泳がせた。


「はい、いらっしゃいますが……」


「どうかしたの?」


 沙羅に問われて、小川は目線を泳がせて口ごもっていたが、言いにくそうに口を開いた。


「それが、奥さま、おとといから何だか様子がおかしいんです」


「様子がおかしい?」


「ええ。私が話しかけても生返事で……。お食事はきちんとなさっているし、ご病気という感じではないのですが、ぼうっとなさって、……」


 そう言って、心配そうに邸宅の方を見やった。


「昨日は役員の方との会合が予定されていたんですが、それもキャンセルなさって、……ずっと自室にこもられたきりなんです」


 沙羅はハッとすると、小川にこんなことを尋ねた。


「小川さん、おととい、お母様はどこかへでかけませんでしたか?」


 すると小川は頷いて、こう答えた。


「ええ。京子さんの……神代総帥のところへお出かけになりましたが」



☆☆☆


                

 ノックをしたが、返事はない。

 沙羅はそっと、啓子の自室の扉を開けた。

 啓子は、沙羅が室内に入ってきたことにも気づかない様子だった。ソファの背もたれに体重を預けたきり、体を動かす気配はない。窓の方を向いているので、沙羅からは表情が見えない。薄いブラウスに包まれたふくよかなその肩が、心なしかやつれて見える。


「お母様、ただ今帰りました」


 取りあえず声をかけてみるが、やはり反応はない。沙羅はある程度予測していたのか、それ以上は何も言わずに啓子に歩み寄ると、心持ち右に傾いている彼女の顔をのぞき込んだ。

 啓子は沙羅の顔が目の前に来ても、視線すら動かさなかった。虚ろな瞳をぼうぜんと中空に投げ、その焦点はどこにも合ってはいない。それがいったい何を意味するのかは、神代一族随一の伝達能力者テレパスである沙羅にはすぐに分かった。

 沙羅は啓子の前にひざまずくと、啓子の右手を取って静かに目を閉じた。


  

☆☆☆



「おっはよー、寺崎、紺野くん!」


 クラスの前扉を開けると、三須のやけに明るい声が響いてきた。

 朝練がないので、久しぶりに定刻に登校してきた寺崎と紺野は、校舎や校庭がある程度きちんと片付けられ、最低限活動できる状態になっていることに驚いた。恐らく教員をはじめとしたいろいろな人たちが、休み返上で片付けに奔走したのだろう。生徒たちもあんな事件があったにもかかわらず、ほとんどが休みなく登校してきているようだ。たくさんの人たちの努力に、何だか頭の下がる思いのする二人だった。


「おはよ、三須ちゃん。相変わらず元気だな」


「元気元気。たいへんだったけど、あたしはケガとかしてないし。お二人は?」


 すると、寺崎は紺野の側頭部をツンと小突いた。


「こいつ、熱出しやがってさ」


「え、マジで?」


 紺野は恥ずかしそうに笑ってみせる。


「かぜひいたんです」


「えー。たいへんだったね。もう大丈夫?」


 リュックを背からおろしながら紺野がうなずくと、三須は「そっか」と言ってほっとしたように笑ったが、すぐに残念そうな表情をうかkべた。


「でもさ、リレーなくなっちゃって残念だったよね。せっかく紺野くんの勇姿が見られると思って楽しみにしてたのに」


 寺崎も自分の席にリュックを置くと、肩をすくめて苦笑する。


「仕方ねえよ。あんなことになっちゃったんだから」


「いつかこの続きってやんのかな」


「無理なんじゃね? だってこの後は、ボランティア体験控えてっだろ、そのあとはテストやって、夏休み突入して……高校は行事重視の中学とは違うからな」


 寺崎の言葉に、紺野は教科書をしまう手を止めた。


「ボランティア体験?」


「ああ、何か、地域の障害者施設とか老人ホーム、保育園なんかに行って、ボランティアする授業があんだ。三年生はないけど、二年までは継続でやるらしい。この学校が特色だそうとして力入れてることの一つとか聞いたな」


 紺野は手を止めて、じっと何か考え続けているようだ。寺崎ははじめ、紺野の様子の意味が分からなかったが、やがてハッとしたようにその目を見開いた。


「障害者施設……そっか!」


 紺野は寺崎をちらっと見ると、小さくうなずいた。


「ええ。もしかしたら、その中に……」


 寺崎は緊張した表情で、ごくりとつばを飲み込んだ。

 三須は二人の会話の意味がさっぱり分からず、きょとんとした顔で首をかしげていた。



☆☆☆



 沙羅は、啓子の意識世界に入り込んでいた。

 白濁したもやに包まれた啓子の意識世界は、混沌こんとんとしていてとらえどころがない。何者かの操作によって攪拌かくはんされ、具象性を失ってしまったのだろう。この状態は、ある程度時間がたてば改善することを沙羅は知っている。ただ、攪拌かくはんされる前に抱いていた意志や思考の一部が消し去られてしまうことを除いては。

 高位能力者である啓子の意識を操作できる人間は、神代一族の中にもほとんどいない。どう考えても、操作したのは神代総帥で間違いないだろう。だが、総帥は一体、啓子の何を消し去ろうとしたのか。沙羅はそれを確かめたかった。啓子の意識世界のどこかに、その痕跡が存在するはずだ。沙羅は足元をすくわれないように注意しながら、意識世界のさらに奥へと進んでいった。

 と、混沌こんとんとした霧の向こうに、何かきらりと光るものが落ちているのに気がついた。伸ばした手の指先すら霞んでしまうほど濃い霧の中を、沙羅はその光の方向に向かってまるで平泳ぎでもするようにゆっくりと進んでいった。

 そこにあったのは、割れた手鏡だった。

 粉々になって四方に散らばった鏡の欠片が、霧の中で何を反射しているのか、時折きらりと光を放つ。沙羅はかけらをひとつ手に取ると、光のもとを捜すように指先で動かした。ふとした拍子に、きらりと鋭い光を放つ破片。その光が、ふいに沙羅の目に飛び込んできた。

 その射貫くような光に、沙羅が思わず目を閉じた、刹那。

 脳裏に、鋭い声が響き渡った。


「神代総帥、……いえ、京子さん」


 啓子の声だった。上ずったその声は、微かに震えているようだった。


「もう、教えてくださってもよろしいでしょう。あの男は一体、何者なんですか?」


 そこは病院の院長室だろうか、薄いもやのようなものに包まれて微妙に霞んだ室内にある大きな紫檀したんのデスクの上に、書類が山積みにされているのが見える。その机の前に座る神代総帥は、手元の書類に目を落としていた。啓子はいらいらと歩き回っているのか、その視界は先ほどから忙しく左右に揺れている。


「何者もなにも、あの男の出自は不明です」


 抑揚のないその声に、啓子は足を止めたようだった。総帥の姿が、ぴたりと正面で静止する。


「私はあの後、独自に調査を進めました」


 カバンからがさがさと何枚かの紙片を取り出すと、神代総帥の前にそれを置く。


「この女に、見覚えはありますか」


 紙には、五十代くらいの女性の写真が印刷されていた。


「城崎梓……名前を聞けば、思い出せますか。京子さんが不妊治療に通っていた藤代産婦人科で、同時期に妊娠されていた女性です」


 京子の表情は先ほどと全く変わらなかったが、じっと、書類の女性に目を落としているようだ。


「驚いたことに、彼女は魁然側から派遣された護衛に手厚く守られていましてね。なかなかチャンスを得ることができなかったんですが、やっと先日、話を聞くことができました。まあ、正確には、聞いたわけではありませんでしたけれど」


 神代総帥は目線を上げると、おもむろに口を開いた。


「記憶をのぞいたのですか」


 啓子はうなずいたようで、視界が上下に揺れた。


「ご安心ください。殺してはいません。ただ、きついガードを強引にこじ開けたので、彼女はもうその記憶を思い出すことはできないでしょう。彼女自身に記憶をいじられた自覚はないけれど、他の能力者が決して記憶をのぞくことができないガードなんて、私は初めて見ました。あれを施したのはよほどの高位能力者でしょうけれど、記憶自体を残してしまった甘さに足をとられましたね。見られて困る記憶なら、消してしまえばよかったんです。そうすれば、彼女の存在を魁然側に嗅ぎつけられることもなかったでしょう」


 京子は啓子を刺すような目で見据えた。


「本人の了承のない記憶の閲覧は人権侵害の恐れがあり、固く禁じられているはずです。ましてや記憶の操作や消去は、医療行為として認められるもの以外は犯罪行為です」


「その犯罪行為に、あなたは既に十六年前、手を染めてしまっているのではないですか?」


 啓子の言葉に、京子は言葉を飲み込んだ。


「……ガードの隙間から、見えたんですよ、少しだけでしたけど。よほど衝撃的な記憶だったんでしょうね。映像が飛び込んできた感じでした」


 啓子はそこで言葉を切って、じっと神代総帥を見つめているようだ。斜め下に目線を落としたその姿が、視界の中央で静止する。


「あの、胎児の超音波画像。あれは京子さんのものですよね」


「……何のことだか。梓さんのお子さんの映像じゃないですか?」


「城崎梓は、双子は妊娠していません」


「私も妊娠していません」


「京子さん」


 啓子は口を閉じると、総帥の前に座ったのだろう、視線が下がり、うつむき加減の総帥の顔がよく見えるようになった。


「私にだけは、話してくださってもいいでしょう? 私は、京子さんを助けたい。魁然側が城崎梓の護衛をしていたということは、あちらはこの可能性に気づいているということです。このまま、あの紺野とかいう男を生かしておくのは危険すぎます。へたをすれば、京子さんが組織の裏切り者として粛正される恐れがある」


 京子は、初めて顔を上げて視線を啓子に合わせた。その表情は、意外なほど穏やかだった。


「それなら、それでいいじゃありませんか」


 啓子の息をのむ気配が伝わってくる。


「あなたは何も知らなくていい。全て私の独断でやっていることです。責めを負うのは、私一人で十分です」


 京子は、どこか遠くを見つめながら、つぶやくように言葉を継いだ。


「あの時、私が望んでしまったことが、こんな結果を招いているのだとしたら、責めを負うのは私一人で十分なのです。……だから、啓子さん」


 神代総帥はそう言って、静かに席を立った。ゆっくりと机の外周を周り、啓子の目の前に立つ。いつから放出されていたのだろう? その体から流れ出す黄金色の気は、既に啓子の周囲にじんわりと満ち、啓子の動作も、能力発動も、完全に封じ込めているようだった。


「本当に申し訳ないけれど、忘れてください。あなたが知ってしまったこと、全て」


 静かに差し出される黄金色の両手が、啓子の頭をそっと包む。同時に、目を開けていられないほどの金色の輝きが、視界いっぱいに満ちる。悲し気な京子のまなざしが、その輝きに包み込まれて消えていく。

 次の瞬間、鏡に反射した黄金色の光が、啓子の意識世界に立つ沙羅の全身を包みこんだ。


「……!」


 思わず息をのみ、目をつむって顔をそむける。

 まぶたの向こうにある輝きが次第に失われ、やがて先ほどの暗さと静けさを取り戻し、沙羅が再び目を開いた時にはすでに、そこは先ほどの啓子の自室だった。目の前では、ソファに座る啓子が、背もたれに頭を預けてすやすやと寝息をたてている。曇り空から差し込む薄い光が、啓子のたるんだ頬を血色よく照らし出している。

 その顔をみつめながら、沙羅はたった今知った恐るべき事実に、頭の中が真っ白になっていた。


――やはり、あの男は。


 とにかく動揺を落ち着けるために、一度この場を離れた方がいい。沙羅は意を決すると、立ち上がった。だが、歩き出そうとして初めて、自分のひざががくがくと震えていることに気付く。やっとのことで出入り口にたどり着いたが、ノブにかけた手もやはり震えていて、まわそうとしてもうまく力が入らない。沙羅は諦めたように息をつくと、その手を下ろした。


「総代、私はどうしたらいいんでしょう? どうしたら……」


 沙羅は震える両手で顔を覆うと、消え入りそうな声でつぶやいた。

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