5月27日 2
寺崎が部屋の戸を開けると、紺野は起き上がって新聞を読んでいた。寺崎もベッドに腰掛けると、身を乗り出してその新聞をのぞき込む。
「おまえってほんと、新聞とか好きだよな」
紺野は顔を上げると、恥ずかしそうに笑ってみせる。
「前は読みたくても、お金がなくてとれなかったので……読めて嬉しいんです」
寺崎は苦笑すると、手にしていた封筒を差し出した。
「ほら。嬉しいこと、もうひとつ」
紺野は首をかしげて封筒を受け取ると、封を開けた。中には、明細書のようなものが入っている。
「これは?」
「今月分の給料明細。金はもう口座に振り込まれてるはずだ」
そう言って、指折り数える。
「おまえが仕事を始めたの十三日だったよな。土日は勤務にみなされないから、二十五日までの実働日数は、この間の体育祭を含めて……十一日、か? とすると手取りは、七万天引きすると……」
「四万ですね」
紺野は明細書を見やりながら、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「よかった。これで、食費や光熱費を多少はお支払いできる」
寺崎は目を丸くして紺野を見た。
「何言ってんだよ。そんなんいれたら、おまえ、自分の取り分ゼロになっちまうじゃねえか」
「仕方がありません。食べた分はお支払いしないと。それに、初期投資のお金もお返ししなければなりませんし」
「全く……律義だなあ、おまえ」
寺崎はそう言うと、紺野の頭をぐしゃぐしゃなで回した。
「今月はなしにしとけ。来月から……そうだな、月三万入れてくれりゃいいって。そんくらいしかかかってねえよ、多分」
「でしたら、今月も三万は払わせてください。そうすれば、手元に一万残ります」
「ガキの小遣いじゃあるまいし、来月の二十五日まで、一万でどうやって暮らすんだよ」
「多すぎるくらいです。今までは、月一万くらいで家賃以外の食費から何からぜんぶまかなってましたから」
寺崎は目をまん丸くして、紺野の顔をまじまじと見つめなおした。
「マジで? おまえ、それじゃまるでどっかのテレビ番組じゃねえか」
紺野はどうということもない様子でうなずいた。
「そう考えれば、家賃は必要ないし、食費や光熱費はお支払いしてるんですから、ありすぎるくらいです」
寺崎は、あきれたように口をあけて紺野を見やっていたが、やがて大きなため息をついた。
「おまえってほんと、自分のことはあと回しだったんだな」
「え?」
寺崎は優しい、でもどこか悲しげな目で紺野を見つめた。
「今でもまだそうなんだよな。おまえさ、もうちょっと自分のことを考えろよ」
紺野は不思議そうに首を傾ける。
「考えているつもりですが……」
「足りねえんだよ。無理しすぎるからすぐに熱出すし。でもまあ、今朝は下がっててよかったな。七度台だろ」
「ええ。明日は学校にも行けると思います」
「また……無理しなくていいぞ。どうせ行ったって学校が滅茶苦茶で、授業になんかならねえだろうから」
すると紺野はにっこり笑ってこう言った。
「行きますよ。日給一万円がふいになってしまう」
寺崎も、その言葉に少しだけ笑った。
「確かにそうだな。じゃ、今日中に治さねえとな」
「そうですね」
穏やかにほほ笑んでうなずいた紺野の顔を、寺崎はじっと見つめた。
「どうかしましたか?」
「……いや」
寺崎はいったんは黙り込んで目線をそらしたが、ややあって、おもむろに口を開いた。
「紺野、おまえさ……大丈夫か?」
「え?」
寺崎は言いにくそうに口ごもりながらも、そらしていた目線を紺野の顔に向ける。
「何かいろいろ、抱えこんじまって……」
「……ああ」
紺野は寺崎の目線から逃れるように手元を見て、少しだけ笑った。
「そのことですか。……大丈夫ですよ」
寺崎はそんな紺野を心配そうに見つめる。
「でもさ、これからもおまえ、鬼子とやり合わなきゃいけないんだろ」
紺野は目線を手元に落としたまま、黙っている。
「その時にちらっとでも迷いがあったりしたら、おまえ……」
寺崎は何を言えばいいかわからなくなったのか、言葉を切ると、じっと足元を見つめた。
ややあって紺野は、重い沈黙を振り払うようにうつむいていた顔を上げ、寺崎を真っすぐに見つめた。
「迷いはないです」
驚いたように自分を見つめ直した寺崎に、紺野は柔らかなほほ笑みを投げた。
「ありがとう、寺崎さん」
それから手元に目線を落とすと、静かに言葉を続けた。
「僕は何て言うか、とてもすっきりした気分なんです」
寺崎は神妙な面持ちで紺野の言葉に耳を傾けた。
「今までは戦っていても、何のために戦っているのか判然としなかった。だから、助けるべき相手の姿が見えないと、能力発動が不安定になっていたのかもしれません。でも……これからは多分、大丈夫な気がします」
うつむき加減の紺野の顔は、こんな切実な話をしているとは思えないくらい、穏やかな表情をしていた。
「僕は、寺崎さんたちと出会って初めて、生きたいと思いました。さらに今回のことで僕は、生きなければって、そう思っているんです」
ゆっくりと、まるで自分に言い聞かせるように言葉を継ぐ。
「僕は生きて、あいつを見守ります。何か間違いを犯しそうな時は、僕が止めてやらないといけない。そのために、僕は生きる。死んでる場合じゃない。……そう思ってるんです」
紺野の長いまつ毛を食い入るように見つめながら、寺崎は黙っている。
紺野はそんな寺崎に向きなおると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみませんでした。ご心配をおかけして。でも、僕は大丈夫ですから」
「……おまえってやつは」
寺崎はそうつぶやくと、突然、紺野の頭をぐしゃぐしゃと力いっぱいなで回した。
乱れた髪で戸惑ったように自分を見つめた紺野に、寺崎はにっとほほ笑みかける。
「俺も、手伝うからさ」
「寺崎さん……」
「つっても、たいして役にはたたねえか。たださ、おまえ、一人でいろいろ背負い込みすぎなんだ。そのうち、絶対きつくなってくる。だから、俺に預けられるものは預けろ。もてる限り、もってやるから」
紺野は何とも言えない表情で寺崎を見つめた。寺崎はそんな紺野を、真剣な、それでいてあたたかいまざしで見つめ返す。
「だから、絶対につぶれんなよ。約束だ」
紺野は泣き笑いのような表情を浮かべると、深々とうなずいた。
窓から吹き込む夏の匂いをはらんだ風が、そんな二人の前髪をさらりと揺らして通り過ぎた。




