5月26日 2
鳴り響くチャイムの音に、寺崎は玄関に走ると急いで扉を開けた。
扉の向こうには玲璃が立っていた。寺崎を見ると、玲璃は待ちきれない様子で口を開く。
「寺崎、紺野は……」
「今朝が、三十八度六分っすね。夕べよりは下がってます。とにかく入ってください。そんなところじゃ危ない」
玲璃は慌てて靴を脱ぎ、きちんとそろえて部屋に入った。
「いらっしゃい、玲璃さん」
居間では、テーブルにきちんとセッティングされた白いティーカップに、みどりが紅茶を注いでいた。ハーブティーのいい香りが、部屋中に満ちている。
「すみません、またお邪魔してしまって」
「大歓迎って言いましたでしょ。お紅茶、よろしかったらどうぞ」
にこやかにそう言ってから、玲璃の目の下にできているクマに目を留める。
「玲璃さん、夕べ、眠れなかったの?」
玲璃はうなずくと、恥ずかしそうに笑った。
「はい、何か気持ちが高ぶって……あんなことがあったせいですかね」
「そりゃあそうでしょう、かわいそうに……。今日は、ゆっくりしてらしてくださいね」
みどりは沈痛な面持ちでそう言うと、近所のスーパーに車椅子で買い物に出かけていった。
「昨日は、たいへんだったんだな」
紅茶を口にしながら玲璃がこう言うと、寺崎もうなずいて紅茶に口をつけた。
「また紺野、神代総代に助けてもらって……そのあと、神代総代とここで、弁当なんか食っちゃいましたよ」
寺崎は玲璃に目を向けると、肩をすくめて苦笑した。
「何か、やんなっちゃいましたよ。神代総代って、弁当食ってるだけでもかっこいいっすから」
その言葉に玲璃も少し笑顔を見せたが、すぐに真顔に戻ると紺野の部屋の方を見た。
「紺野の顔、見てこようかな。今、起きてるか?」
「ええ、多分。さっき総代が来ることも言っときましたから。ただ、寝てたら寝かしといてやってください。夕べ、かなりうなされてたんで」
寺崎の言葉にうなずいて席を立つと、玲璃は紺野の部屋に向かい、そっと入口の扉を開けた。
「紺野」
紺野は起きていたらしく、閉じていた目を開いて、玲璃の方を見た。
「魁然さん……」
言いながら起き上がろうとするので、玲璃は慌てて制止した。
「何やってんだ、いいから寝てろ。おまえ、熱があるんだろ」
紺野はすまなさそうに頭を下げると、言われたとおり横になった。
「すみません。何か、いつも熱を出してばかりで」
「仕方ない。それだけおまえは無理してるんだ」
玲璃は切なげにそう言うとベッド脇の椅子に腰を下ろし、紺野に向かって深々と頭を下げた。
「紺野、昨日は本当にありがとう。おまえのおかげで、みんなが助かったんだ」
紺野はとんでもないとでも言いたげに目を丸くすると、首を横に振った。
「そんな……。皆さんのお力です。それに昨日のことはある意味、僕の責任でもありますから」
玲璃はいぶかしげに紺野を見つめた。
「なんで、おまえの責任なんだ?」
紺野は口をつぐむと、黙って天井を見つめた。と、そこへ、冷水が入ったボトルを持って寺崎も入ってきた。ボトルを机の上に置くと回転椅子に座り、首をかしげて黙り込んでいる二人を見つめた。
ややあって、紺野は天井を見つめながら、ぽつりと口を開いた。
「あれは、僕の子ですから」
玲璃も寺崎も息をのんで凍り付くと、静かに言葉を続ける紺野を、まじろぎもせず見つめた。
「昨日、あれの姿を間近で見て、初めてそう思ったんです。あんな恐ろしい生まれ方をして、普通の人間とはかけ離れた存在なのかもしれませんが、……あれは確かに、自分の子なんです」
紺野は言葉を切ると、じっと目を閉じた。
「確かにあいつは危険な存在です。あいつがしようとしていることは、間違ってる。だから、僕が止めなければならない。父親として。そのことに昨夜、初めて気がついたんです」
紺野は閉じていた目を開くと、玲璃たちの方を見て、苦笑めいた笑みをうかべた。
「本当に自分がいやになりましたよ。そんな当たり前のことに気づくのに、十六年もかかってしまった」
寺崎も玲璃も、そんな紺野を言葉もなく見つめることしかできずにいた。
やがて、玲璃は目線を落とすと、遠慮がちに口を開いた。
「私も夕べ、同じようなことに気づいた。それで眠れなくなったんだ」
紺野と寺崎は、うつむいている玲璃の顔を見やった。玲璃はいったんためらうように口を閉じてから、おもむろに言葉を発した。
「私は、鬼子のきょうだいなんだな」
紺野も寺崎も、ハッとしたようにその目を見張った。
「夕べそのことに思い至って、私も眠れなくなった。これまでは、そんなことは考えたこともなかったから」
玲璃は顔を上げると、沈痛なおももちで自分を見ている紺野に、苦笑めいた笑みを投げた。
「やっぱり、紺野は大人だな」
紺野がけげんそうに首をかしげると、玲璃は目線を落としてあとを続けた。
「私はきょうだいだとわかっても、紺野みたいに何とかしてやろうなんて思わないもんな。ただ、何か空恐ろしいだけで……」
紺野は静かに首を横に振る。
「そんなことはありません。当然です。僕とあなたとでは、立場が違いすぎる」
すると、それまで黙って話を聞いていた寺崎が、おもむろに口を開いた。
「あんま、思い詰めんなよ」
自分に目を向けた紺野に、寺崎は複雑な感情がないまぜになった笑みを投げた。
「熱がある時とか、夜中とかに考えると、ろくな答えはでねえから。とにかく今は体を休めることだけ考えてろ。難しいことを考えんのは、体調がよくなってからだ」
「はい」
紺野がうなずくと、寺崎は立ち上がった。
「あんまガチャガチャ話してっとまた熱上がるから、そろそろ寝ろ」
「そうだな。騒がせてしまってすまなかった。ゆっくり休んでくれ」
紺野はほほ笑んで頭を振ると、軽く頭を下げるようなしぐさをした。
「今日はわざわざありがとうございました」
「何を言ってる、当たり前だ。……早く熱を下げろよ」
そう言って玲璃は、紺野の部屋の扉を閉めた。
☆☆☆
「……重いな」
沈痛な面持ちでソファに腰を下ろした寺崎の傍らに立つと、玲璃はぽつりと言った。
「あいつが熱を出したのも、そのことに気づいたせいかもしれないな」
寺崎はテーブルにひじをつき、両手に頭をもたせかけてじっとうつむいていたが、ややあって、絞り出すように言葉を発した。
「俺、いつも思うんです。何であいつばっかり、こんな目に遭ってきたんだろうって……」
頭を支えている指が、微かに震えている。
「あんないいやつなのに、どうしてあいつばっかり……」
玲璃は黙って寺崎の隣に腰を下ろすと、冷えたハーブティーのきらきら光る表面を見つめた。
「自分が抱えているものだけでも凄まじいっていうのに、さらにあの子どもの人生まで背負い込んで、……あいつ、つぶされちまうんじゃないかって、俺、何か今、もの凄く……怖い」
「そうだな」
玲璃は膝の上で組んだ手の、その指先についているきれいに切りそろえられた桜色の爪に目を落とした。
「私もおまえも、それなりにいろいろ背負って生きてるけど、あいつに比べたら、全然大したことはないもんな。私も、それは本当にそう思うよ」
そう言うと目線を上げ、白い壁の向こうをじっと見つめていたが、ややあって、ぽつりと口を開いた。
「われわれ一族って、いったい何なんだろうな」
寺崎は驚いたように顔を上げると、遠いまなざしでどこかを見ている玲璃の横顔
を見つめた。
「私は、神代総代と結婚する。それは、これまで一族の目的を支えてきた、全ての人の意志だから……でもその影で、その目的のために人生を踏みにじられたたくさんの人がいるはずだ。私はいったい誰のために、何を目指して、神代総代と結婚しなければならないんだろう?」
寺崎は言うべき言葉が見つからず、黙って玲璃を見つめ続けた。
「生まれてくる子は、魁然と神代、両方の特性を有した特別な人間になるというが、でも万が一、その子が鬼子のような恐ろしい存在になる可能性は、ほんとうにないんだろうか?」
その言葉に、寺崎ははっとしてその目を大きく見開いた。
神代総代と紺野が双子の兄弟である可能性が、ふいに頭に浮かんだのだ。
神代総代に、本当に総代としての血が流れていればまだいい。だが万に一つ、その血が紺野に流れている可能性が、本当に全くないと言いきれるのだろうか?
寺崎は息をのみ、ゆるゆると目線を玲璃に移した。
もし、神代総代にその血が流れていなかったとしたら、その時玲璃は、鬼子を産み落とすことになるのではないか? 裕子のように、自らの命を犠牲にして。
寺崎は自分の手がわなわなと震え出すのを感じた。根拠のない恐ろしい想像を打ち消すように、震える手でティーカップを取り、冷めた紅茶を一気に飲み干した。