5月25日 4
みどりは、あまりのことに声を発することも動くこともできず、ただ目に涙をためて震えることしかできなかった。
さっきまで、かいがいしく働いていた教員たち……敬老席の老人に茶をふるまい、アナウンスをする生徒を指導し、プログラムを確認して指示を飛ばし、放送機器の調整を行い、来賓を案内し……その彼らが、突然何かにとりつかれたかのように、うつろな表情を浮かべながら、目を疑うほどの乱暴狼藉を働き始めたのだ。長机をひっくり返し、置かれていた放送機器を投げつけ、座っている老人を突き飛ばし、……そしてその全員が、みどりに向かってじりじりと近づいてきている。
「や、やめて……」
やっとのことでみどりはこう言うと、車輪を後ろに回して後じさる。テント周辺の観客たちも、競技をしていた生徒たちも凍り付いたように、固唾をのんでその様子を見ている。恐怖を感じてその場から逃げ出す者もちらほら出てきた。
まともな教員の何人かは、テント内に入ってみどりを助けようとする。が、まるで見えない壁に弾き返されるように、テントの中に足を踏み入れることができない。何人かは、警察を呼ぼうと職員室に走る。だが、職員室に入ろうと入口の扉を引いても、一分たりとも動かない。数人の職員が一緒になって扉を引き開けようとしても、微動だにしないのだ。それは、校門も同じだった。いつの間にかぴったりと閉じられた校門は、保護者や生徒たちがいくら引いてもびくともしない。携帯電話も圏外で通じない。もはやこの学校は完全に外界から隔絶され、ここから逃げ出すことも、外部から助けを呼ぶことも不可能な、いわゆる「陸の孤島」状態になっていた。
みどりに迫っていた中年の男性教員が、無表情に傍らに置かれていたパイプ椅子を手にした。そして、震えるみどりの頭上に高々と差し上げ、それを一気に振り下ろした。
「……!」
みどりは頭上にさく裂する衝撃からせめて精神的ショックだけでも和らげようとしたのか、目をつむり呼吸を止めてその背を丸める。
しかし、いつまでたっても衝撃は襲ってこなかった。
恐る恐る目を開いたみどりは、大きくその目を見開いた。
そこには、振り下ろされたパイプ椅子を両手で受け止め、教員とにらみ合っている男の後ろ姿があったのだ。
「大丈夫か? おふくろ!」
防壁を突き破ってテント内に侵入したのは、寺崎だった。能力者の端くれである寺崎にとっては、テントを取り囲んでいた防壁は大した厚さではなかった。聞き慣れたその声に言葉もなくうなずきながら、みどりは自分の目から勝手に涙があふれてくるのを感じた。重なったのだ。あの日、崩れ落ちる柱の直撃から自分を守ってくれた、行紘の姿と。
寺崎はパイプ椅子をむしり取って放り投げると、それをつかんでいた教員を殴り飛ばした。教員は顎を反らした姿勢ですっ飛ばされ、かね突き棒のごとくテント外の防壁に激突して気を失った。
「紘、これって……」
「鬼子の仕業だ」
寺崎は彼女を守るような位置につくと、あたりを鋭く見回しながらみどりの問いに短く答える。テント内の教員は、あと三人。野犬のように歯をむき出し低くうなりながらじりじりと包囲網を狭めてくる彼らを、寺崎は強い目線でにらみ付けた。
【また下っ端か】
突然、小馬鹿にしたような送信がこめかみを射貫いて、寺崎ははっと教員たちの背後に目を凝らした。そこには、来賓だろうか? グレーのスーツにエンジ色のネクタイを締めたかっぷくのよい初老の男性が、皮肉っぽい笑みを浮かべながら後ろに手を組んで立っている。
【邪魔ばかりしおって。いい加減、大人しくなったらどうなんだ?】
寺崎はふんと鼻で笑う。
「あいにくと、俺は大人しい性格じゃねえんだ」
その時、ようやく駆けつけてきた玲璃と柴田が、軽々と防壁を突き破って布陣に加わり、寺崎とともにみどりを守るような位置で攻撃に備えた。
【魁然の総代か】
男は玲璃を見るなり、眉間にくっきりと刻まれた縦じわをより一層深くした。
【……気に入らんな。全く、気に入らん】
忌々しそうに送信すると、奥歯をギリリときしませる。
【最初は生かしておいても別に構わないと思っていたが、やはり気に入らん。おまえだけ、なんでそんなに幸せなんだ】
――いったい、何を言っているんだ?
玲璃はみどりを背にかばいながら、いぶかしげに男を見やった。
【同じ血が流れていて、この差は何なんだ。おまえは自由に動いて、高校に行って、結婚もできる。それなのにこちらには……何もない】
男は、たるんだまぶたの奥にある血走った目で玲璃をにらみ据えながら、吐き捨てるように送信した。
【おまえも死ね。その下っ端もだ。ここにいるやつらは、みんな死んでしまえばいい。幸せなやつらなんか、全員いなくなってしまえばいいんだ!】
その送信が脳を射抜くと同時に、男の背後から一気に火柱が上がった。
まるで不動明王がその背に背負う迦楼羅焔のごとく、燃え上がった炎は意志を持った生き物のように、またたく間にあたり一面に燃え広がり、玲璃たちのいるテントに向かって襲いかかってきた。
「……!」
あっという間に退路を断たれ、テントをなめるように燃え広がる炎を前に、玲璃も、そして寺崎も柴田も、なすすべもなく立ちすくむ。
だが、次の瞬間。
あれほど勢いよく燃えさかっていた全ての火炎が、唐突にふっと消え去ったのだ。
あたり一面に焦げ臭いにおいが立ちこめ、そこかしこからプスプスと黒煙が揺らめく中、その場に残っているのは防壁の内側にいた人間……みどりと寺崎、玲璃と柴田のほかは、催眠をかけられている教員たちと、離れた場所に立つ背広の男だけになっていた。テント外の周囲には、すでに誰もいない。ボロボロに焼け焦げたテントと、一部炭化した長机があるだけだ。
玲璃は弾かれたように校庭を見た。校庭の真ん中には、つい先ほどまでテント周辺にいた大勢の人々が座り込んだり、立ちつくしたりしながらぼうぜんとしている。
同じようなことは以前にもあった。玲璃は慌ててあたりを見回す。程なく、校舎脇にたたずむ紺野の姿を見つけた。
【……おまえだよ】
男はその両眼に怨恨をたぎらせながら、紺野をにらみ付ける。
【わしが一番殺したいのは、おまえなんだ】
紺野は鋭く男を見据えながら、一歩前に進み出る。その途端、催眠をかけられている三人の教員が、紺野に一斉に飛びかかった。
即座に玲璃と柴田、そして寺崎が、転移さながらに教員の前に躍り出た。突っ込んできた体育教師を柴田が背負い投げ、放送機材を振りかざしてきた数学教師を寺崎が蹴りとばし、マイクスタンドを振りかざして突進してきた理科教師の顔面を玲璃が裏拳で殴り飛ばして、あっという間にカタがついた。
紺野は、地べたにのびている教員たち全員を白く輝く気で覆い尽くし、彼らを取り巻く赤い気を完全に消滅させてから、おもむろに男に向き直った。
【あなたで、最後ですね】
いまいましげに口の端をゆがめながら、男はふんと鼻で笑う。
【わしは今までのやつらよりはましだぞ。結構長い時間、接していられたからな】
この男は来賓として、みどりたちがいた隣のテントにずっと座っていた。確かに相当なエネルギーを感じる。送信も、そこにいる四人全員がやすやすと傍受できるほどの強さを持っている。
男を見据えながら、紺野は現状を打開する方策について思考を巡らせる。これだけの観客や生徒がいる校庭で、このまま一戦やりあうのはあまりに危険だ。そう判断した紺野が、場所を変えるために意識を集中しようとした時だった。
【転移しようとしても無駄だぞ。この高校全体を遮断してあるからな】
急いで周囲の状況を確認すると、校舎を巡る塀沿いにぐるりと防壁が張り巡らされているのが感じられた。こちらの防壁は、テントの周囲の防壁など比べ物にならないほどの強さを持っているようだ。突破できないこともなさそうだったが、その際に突風や落雷など、大きな影響が出かねない。
【やり合うんなら、ここで、この高校の人間全員の目の前でやれ。おまえが化け物だっていうことを、ここにいる全員に教えてやるがいい】
男はそう言うと、おかしくてたまらないとでも言いたげに笑ってみせる。だが、紺野を見据えるその目は全く笑っていない。
紺野は何も言葉を返さずに、ただ黙って男と向かい合っていた。
「紺野……」
無言の紺野に不安を覚えた玲璃は、その横顔に目を向けてはっとした。
いつもの通り、波のない水面のように静かで落ち着いた、ある意味無表情な紺野の横顔。だが、男を真っすぐに見据えるその目に、今まで見せたことのないような強い、凛とした光が宿っているように、玲璃には思えた。
【いいでしょう】
紺野は静かにそう送信すると、一歩前に進み出た。
【構いません】
男は落ち着き払った紺野の様子が予想外だったのか、焦ったようにこんなことを送信してきた。
【そうか? こんな狭いところでやり合えば、観客だけじゃない、おまえの大事なその人間たちにも影響が出るぞ。いいのか?】
【ごちゃごちゃ言ってないで、かかってきたらどうです?】
紺野は静かに送信すると、口の端を上げてちょっと笑う。
【それとも、僕とやり合う自信がないんですか?】
【何を……】
男はほうれい線が深々と刻まれたその頬をみるみるうちに紅潮させた。赤い気のエネルギー密度が、またたく間に上昇していく。
【ふざけるな!】
怒号とともに、強大なエネルギーを持つ衝撃波が、音速を超える速度で放たれた。
男が叫んだ瞬間に、寺崎はみどりをかばうように覆い被さり、柴田が玲璃に覆い被さっていた。だが、紺野は真っすぐにその気を見据えて動かない。
そんな彼ら全員を、赤い気の衝撃波が飲み込んだ。
衝撃波に触れたテントや柱が一瞬にして破壊され、消滅する。呼吸すらままならない超高温と高圧の渦。普通の状態であれば、恐らく一瞬で肉体は四散し、影すら残らず蒸発したに違いない。紺野が防壁を張って守ってくれているのだろうが、そうであってもすさまじい圧力を感じる。四人は息を詰め、目をつむってただひたすらその圧迫感に耐えた。
エネルギーが徐々に弱まり、圧力が弱まり、風が止み、周囲が静けさを取り戻してようやく、四人は恐る恐る目を開いて顔を上げ、……。
目の前に展開していたその光景に、四人は瞠目して凍り付いた。
紺野はさっきと同じ位置に、先ほどと変わらない様子で向こう向きで立っていた。ただ一つだけ違うことは、右手にサッカーボールくらいの大きさの球体のようなものを持っていることだ。球体の内部には、はきれんばかりの赤い気が渦巻いている。時々、花火のようなひらめきが、天空を駆ける龍さながらに球体の表面を駆け抜ける。
紺野は球体を手にした状態で、男に一歩、歩み寄った。
【おまえ、それは、まさか……】
心なしか青ざめてたじろぐ男を、紺野は無表情に見やった。
【分かりませんか? あなたの気です。圧縮して閉じこめました】
歩み寄ってくる紺野に、男は後じさりながら叫ぶような送信を放つ。
【来るな!】
【怖いんですか?】
紺野は口の端をわずかに上げて、薄く笑ったようだった。
【おかしいですね。催眠をかけた相手がどうなろうと、関係ないんじゃないんですか?】
言いながら、さらに一歩近づく。
【やめろ!】
慌てふためきながら送信してくる男に構うことなく、紺野は無表情に歩を進める。
【それ以上近づくな!】
男との距離、およそ三メートルという位置まで来た時、紺野はその頬に残酷な笑みを浮かべて歩みを止めた。
【……そうですよね。同じ出所のエネルギー同士がぶつかり合えば、磁石の同極さながらの反発が起きる。これだけの高エネルギー体が反発し合えば、辺り一帯に凄まじい影響が出るでしょうね】
笑いを収めると、男を射貫くような目で見据えながら、再び一歩を踏み出す。
【あなたがほんの少しでも能力を出したら、おしまいですね】
【そうだ! わしが能力を出せば、大爆発が起きるぞ! この学校……いや、この一帯が吹き飛ぶくらいの、大爆発がな!】
【知ってますよ。核弾頭レベルの爆発が起きる。まだこの近辺にいるはずのあなたの本体も、影響は免れないでしょうね】
紺野は歩くスピードを全く緩めなかった。
【ちょうどいいじゃないですか。僕も死ぬし、おまえも死ぬ】
男の目の前まで来ると、自分よりほんの少しだけ高い位置にある男の襟首を左手でつかみあげ、刺すようなまなざしで見据える。
【……出してみるといい】
揺らぎも逡巡もない、強い目線。その視線に射すくめられ、男は言葉をのみ込んだ。
紺野の体から放出された白い輝きが、瞬く間に二人を包み込む。あまりのまぶしさに目をつむって顔を背けた四人のまぶたの向こうで、それは強弱を繰り返しながらしばらくの間、まばゆくひらめき続けた。
やがて白い光がゆっくりと消えうせ、あたりは静寂に包まれた。
おずおずと目を開いた玲璃も、寺崎も、そして柴田も、目の前に広がる光景に言葉を失った。
そこにはすでに紺野の姿はなかった。そこにいるのは、半目を開けてよだれを垂らしながらぐったりのびているスーツ姿の来賓と、爆弾にでも吹き飛ばされたかのように壁面の消えた保健室と、その床を埋め尽くして倒れている数十人の人々と、焼けこげた端切れから頼りない黒煙を揺らめかせているテントと、校庭の真ん中で糸の切れた操り人形さながらにぼうぜんとしている観客たちと、応援席でやはりぼうぜんとしている生徒たちだけだった。
「……すさまじかったな」
玲璃のつぶやきに、寺崎も柴田も無言でうなずいた。
「今、何があったの?」
みどりがおずおずと、そんな寺崎たちに声をかける。彼女は、何がなんだかさっぱり分からないらしい。当然だろう。エネルギー波を感受したり可視したりできない普通の人間にとっては、あのスーツ男の言っていたことも、放出された衝撃波も、紺野が手にしていた恐ろしい球体も、何ひとつ見えも聞こえもしないのだから。
「紺野さん、どこに行ったの?」
みどりの言葉に、寺崎ははっとして周囲を見回した。紺野が手にしていた、あの恐ろしい球体。彼は恐らく、あれを処理するためにどこかへとんだのだろうが、彼の気配はすでになく、一体どこへとんだのか見当もつかない。
そうこうするうちに、保健室では気を失っていた人々がようやく気がついて起き上がり始め、ようやく職員室に駆け込んだ教員たちが警察や消防に電話をかけまくり、校庭では応援席の生徒たちがもはや席にも着かず動き回り、校門では保護者たちがようやく開いた門の隙間に殺到し、なだれを打って校外に走り出る。周囲は大混乱の様相を呈してきていた。
「ひどいことになっちゃったな……」
年に一度の体育祭は、午前中のいくつかの競技を行っただけで、おそらく続行は不可能だろう。玲璃は、混迷の度を深める校庭に目を向けながら、悲しげにつぶやいた。
「そうですね」
寺崎もため息をつくと立ち上がり、紺野の姿を捜すように、そんな校庭中に目を凝らた。
☆☆☆
「いったい何だったの? この状況……」
校庭の隅で一部始終を見ていた須永がぼうぜんとつぶやくと、石黒も蒼白なその顔をテントの方に向けたまま首をひねった。
「さあ、俺にもさっぱり……とにかくあの子が、あの来賓とにらみ合ってたのは分かったんですけど、何か一瞬、すごくまぶしくなって、ちょっと目を離してたら、いつのまにか来賓は倒れてて、あの子はいなくなってて……」
「一瞬、火が出たみたいだったけど」
「あの来賓の周りのテントが、確かに一瞬火に包まれましたよね。でも、またすぐに消えちゃいましたけど、あれは一体……」
言いながら石黒はカメラからメディアを取り出すと、新しいものと入れ替えた。
「あ、石さん。写真ずっと撮ってたの?」
「え? ええ。それくらいしかできないんで。とにかくあの来賓とあの子がにらみ合ってる間、ずっと」
「そう……」
須永は青ざめた顔を滅茶苦茶になった保健室に向けていたが、突然、メガネの縁をきらっと光らせた。
「石さん、保健室で倒れていた人たちが、気がついたみたい!」
「え、マジすか? じゃあ、話聞かないと!」
二人は保健室に向かって、同時に全速力で駆け出していた。
☆☆☆
見渡す限りの、海。船の姿も、陸も見えない。
わずかに色調の違う青同士、混じり合わないように注意深く接し合う境界線が、曲線のような直線を描きながらぐるりと周囲を取り囲む。
そのライン上数百メートルの位置に、紺野の姿があった。
右手で赤く輝く球体を支持しながら、そこにまるで体重を支える何かがあるかのように、浮いているというよりは立っているといった方がいいような、ごく普通の姿勢で、彼はそこにいた。
しかし、呼吸の度に大きく上下するその肩からも、額から滴り落ちる滝のような汗からも、球体を支える右腕の震えからも、彼の限界が近づいていることは明白だった。
紺野は振り絞るように白い気を放ち、四方数十キロに至る範囲に意識を飛ばす。船舶や飛行機の姿がないことを確認すると、腹の底から大きく息をついた。同時に、右手で支えていた球体がその手からこぼれ落ち、ゆっくり足元の海上に落下を始める。荒い呼吸を繰り返しながら、紺野はぼんやりとそれを見送っていたが、やがてその目をゆっくりと閉じた。
その途端、球体を覆っていたシールドが一気に弾けた。
閃光が球体の四方に鋭いラインを描いて放射され、わずかに遅れて強烈な衝撃波が、まるで球体自身の鼓動を周囲に伝えるかのように空間をゆがませながら拡散する。
そのゆがみに触れ、鈍い音ともにはじき飛ばされた紺野の体は、一瞬で見えなくなった。
核爆発さながらの衝撃波に、海はまるで丸く切り取られたかのように大きく半球状にへこみ、津波が周囲に円形のしま模様を幾つも作りながら広がっていく。
揺り戻しの波が弾け、海上はしばらくの間大きく揺れ続けていた。