5月25日 3
「紺野、こいつらって……」
寺崎の言葉に、紺野は無言でうなずいた。
保健室に突然入ってきた、三十人あまりの人々。無表情に動きを止めて紺野たちを見つめている。これだけの人数が存在するにもかかわわらず、信じられないほどの静寂が保健室内を包み込んでいる。
「どうする?」
玲璃の言葉に、じっと人々の様子を探っていた紺野は、やがて小さな声で答えた。
「一気に催眠を解こうと思えば解けますが、かなり荒っぽいやり方になってしまいます。ご老人や子どもに、できればそんなことはしたくない」
いったん言葉を切ると、じりじりと間合いを詰めてくる人々を見る。人々は、手近にあるはさみやカッターナイフ、ガラスの瓶などをそっと手に取り始めている。
「恐らく、異能を使ってくるのはごく一部の人だけです。これだけの人数を操るわけですから」
「なら、私たちでも何とかなるな」
紺野は申し訳なさそうな目線をちらっと玲璃に向けた。
「お願いできますか。本当は守って差し上げなければいけない立場なんですが……」
すると玲璃は、紺野を見てちょっと笑った。
「何を言ってる。お互いさまだ。私も、訓練の成果を試すいい機会だしな。記者に気づかれないよう、遮断はかけたか?」
「はい。この人たちが部屋に入ったときから」
「じゃ、遠慮はいらないってことだな」
玲璃の目に、肉食獣のような鋭い光をが宿る。寺崎も柴田も、その表情に普段の彼女とは違う空気を感じてドキッとする。
「寺崎、柴田」
「は、はい」
「部屋が狭い。特に子どもとお年寄りには、絶対にケガをさせるなよ」
間合いを測りながらこう言うと、紺野にちらっと目を向ける。
「能力発動に関しては、おまえが頼りだ。頼んだぞ」
その言葉に、紺野も深々とうなずいた。
次の瞬間、人垣が一気に崩れた。手にしたはさみやカッターを振り上げ、割ったガラス瓶のかけらを握りしめて一斉に襲いかかってくる。
玲璃と柴田、そして寺崎は同時に三方へ跳んだ。
柴田がはさみを振り上げる男性を殴り飛ばし、寺崎がガラスの破片で切りかかってきた中学生の首もとに手刀をたたき込んで気絶させる。その間に玲璃は襲いかかってきた中年男性をかわして背後から蹴りつけ、同時にカッターナイフで切りかかってきた中年女性の腹に拳を繰り出し、二人同時に気絶させる。ほんの二,三分の間に、十人以上の人々が次々と気を失っていく。紺野は倒れた人の意識に残る赤い気を完全に消滅させながら、能力発動の有無に意識をとがらせ、互いに衝突したり、カッターやはさみで切りつけ合ったりしそうな時に防壁を張って守り、ケガのないように留意する。素晴らしいチームワークで、五分ほどたった頃には保健室は倒れた人で埋まり、あと数人を残すだけとなっていた。
「足の踏み場もないな」
息ひとつ乱さずに玲璃がそう言うと、寺崎と柴田も思わず苦笑した。紺野は後ろの方で小学生らしい男の子の催眠を解いている。額を触れ合わせ、影響をできるだけ少なくしているようだ。三人は紺野を守るような位置に立って、残った数人とにらみ合った。
「どうする? この部屋でこれ以上暴れると、倒れた人を踏んづけそうだな」
「そうっすね。でも、遮断してるからこそこれだけ暴れられたんで……出ちゃまずいっすからね」
寺崎はちらっと出入り口の方に目線を送る。遮断のおかげで廊下の記者たちには気づかれてはいないだろうが、何となく気分が落ち着かない。
「取りあえず今のところ、異能発動者はいないみたいですね」
柴田の言葉に、玲璃がうなずいた時だった。
【いるよ】
こめかみを貫いた凶悪な意識に、三人は息をのんだ。目の前に立っているのは三人。小太りの中年男性と、中学生らしきショートヘアの女の子、そして二十歳前後の男性だ。
【誰だかわかる?】
三人は悪魔じみた笑顔でくすくすと笑う。
その時、ふと玲璃は校庭の様子に異常を感じて耳をそばだてた。
今までは取りあえず滞りなく競技が進められている様子で、校庭からは歓声が上がったり、結果発表のアナウンスが聞こえたりしていた。だがここへ来て、放送やアナウンスがぱったりと止み、時々おびえたような声が響いているような気がする。
「何かあったみたいだな」
玲璃の言葉に、寺崎や柴田も異常に気づいたのか、硬い表情で小さくうなずき返す。
その時。玲璃たちの背中に鋭い声が突き刺さった。
「この三人は僕が引き受けます! すぐに校庭に行ってください!」
はっとして振り向くと、催眠をといていたはずの紺野が、必死の形相で寺崎を見ている。
「校庭で何かあったのか?」
ただならぬ様子に胸騒ぎを覚えつつ寺崎が聞くと、紺野は真っ青な顔でうなずいた。
「みどりさんが……早く!」
その言葉に、寺崎の背筋に寒気が走る。
「分かった!」
すぐさま寺崎は校庭側の窓から外に出ようと窓に手をかけた。だが、窓は吸い付けられたようにぴったりと窓枠にへばり付いてびくともしない。寺崎は、はっとしたように三人を振り返った。
「……おまえら」
【行かせないよ。何のためにここにおまえらを引き留めたと思ってる?】
三人は腕を組み、にやにや笑いながら寺崎を見ていた。
【そこで、あの女が死ぬのを見てな】
玲璃はやおら置いてあったパイプ椅子をつかむと、窓に向かって力いっぱい投げつけた。パイプ椅子は豪速で窓にぶち当たり、まるで瀬戸物ででもできていたかのように粉々になって四散したが、ガラスにはヒビひとつ入らない。窓は相変わらず滑らかな表面を冷たく光らせながら、そこに厳然と存在しているだけだ。
「……シールドか!」
玲璃がつぶやいて歯がみした、その時だった。
視界が、目がくらむほどの白一色に染まった。
同時に、重い破壊音とガラスの砕けるとがった音が鼓膜に突き刺さり、振動が足元を震わせ、吹き付ける爆風が室内の紙片を巻き上げる。
思わず顔を背けて目をつむった玲璃は、その目線を窓に戻して、言葉を失った。
保健室の壁が、一部そっくり消えていた。割れ目から露出した心材が、直線とも曲線ともつかぬ線を描いて額縁のように空洞の周囲を取り囲み、そこから生徒たちが集う校庭の端が見えた。粉々に砕け散った窓枠や壁材、ガラスの欠片は全て室外に吹き飛んだらしく、室内にその残骸は見あたらなかったが、外気が保健室内に流れ込み、室内の紙片が空を舞っていた。
「行ってください、早く!」
ぼうぜんとその光景に見入っていた寺崎だったが、その声ではっとわれに返った。必死で自分を見つめている紺野にうなずき返すと、すぐに全速力で走り出す。玲璃と柴田も、即座にその後を追った。
【ずいぶん派手にやったねえ】
三人は相変わらず腕組みをしてにやにや笑いを浮かべながら、一人でこの場に残った紺野を見ていた。
【いくらシールドしてても、ここまでやったら気づかれるよ。いいの? あんたが化け物だって、学校のみんなに知られちゃうよ】
紺野は何も言わず、右手を三人の方に差し上げた。
【強制解除する? このおじさん、心臓に持病あるんだよ】
紺野の動きが止まった。
【こっちのお兄さんは、この間手術して退院したばっかり。今日は妹の応援に、必死で駆けつけたらしいよ】
中学生らしいその少女は、くすくす笑いながら上目遣いに紺野をにらみ付けた。
【あたしはひどいぜんそく持ちでね。吸入が欠かせないんだ。……強制解除なんかされたら、発作が起きちゃうかもね】
紺野は何も言わずにじっと少女を見つめている。
【どうする? 誰も傷つけたくない偽善者さん】
少女は立ちつくす紺野の顔を眺めやりながら、バカにしたような笑みを浮かべた。
【誰も傷つけないなんて、無理なんだよ。そんなこと言ってるうちに、あんたの大事なみどりさんは死んじゃうんだ。みどりさんを守りたいんだろ? だったら、ここにいるあたしたちなんてどうでもいいじゃん。さっさと強制解除しなよ。そうすれば、みどりさんは助かるかもよ?】
少女はそう言うと、腕組みしたまま校庭に目を向けた。
【あの三人じゃ、異能発動には歯がたたない。一緒にやられにいくようなもんだよね】
言ってみて初めて思い至ったのか、何とも愉快そうに肩を揺らしてあざ笑う。
【そうしたら、あんたの大事な人、全部まとめて殺れるね。こりゃいいや】
紺野は先ほどから、じっと少女を見据えて動かない。
【早く決めれば? いいの? みんな死んじゃうけど】
いっこうに動きのない紺野にしびれをきらしたように、少女は肩をすくめた。
【いい加減シールドかけんの、やめてくんない? 結構負担だからさ】
その時だった。
突然、少女の左右に立っていた男性二人が、がくりと崩れ落ちたのだ。
【……⁉】
少女が息をのみ、弾かれたように彼らを見た時には、二人とも半目を開けて気を失い、床に転がっていた。彼らを包んでいたはずの赤い気は、いつの間にかすっかり消えうせている。少女は驚愕にひきつった顔を、ゆるゆると紺野に向けた。
「しゃべりすぎです」
紺野は少女に歩み寄ると、彼女のこめかみを両手で押さえつける。少女は焦ったようにその手をつかみ、足を振り上げて暴れ出したが、あえなくその動きも封じられてしまう。
「お望み通り、強制解除はしません」
紺野は静かにそう言い放つと、まばゆく輝く白い光を放った。
少女が悦に入って送信している間に、紺野は足元から自分の気を流し込んでいた。彼らと紺野が同時に接している唯一の場所、床を伝って。主に異能を使う少女に気づかれない程度の微量の気をゆっくり流し込んで、左右の男性二人から催眠を解除していたのだ。
すっかり赤い気のうせた少女を冷たい床に寝かせると、紺野は校庭に向かって全速力で走り出した。
☆☆☆
須永と石黒は、さっきから保健室の前でいらいらしながら立ちつくしていた。
三十人近い人間が入って行ったきり、保健室からはことりとも音がしない。しんと静まりかえった状態で、かれこれ十分以上経過している。
「……ねえ、石さん。のぞいてみよう」
「え、いいんすか?」
「だって、あれだけたくさん人が入ったのよ。ちょっとくらいのぞいても、気づかれないでしょ」
須永にうながされて、石黒はおずおずと扉に手をかける。だが、ピッタリと閉じられた扉はびくともしない。
「……あれ? 開かない。鍵がかかってるのかな?」
カギがかかっていれば、普通ガタガタという音くらいしそうなものだが、まるで接着剤ででも貼り付けられてしまったように、扉は微動だにしない。首をかしげつつ、石黒はおおっぴらに引っ張り始めたが、それでも扉は一分たりとも動かない。須永はきつく眉根を寄せた。
「鍵をかけて、中で何してるっていうの?」
「いや、須永さん。これ、鍵と違います。だって、微動だにしませんもん!」
石黒は足まで使い、全体重をかけて扉を引っ張っている。がたがたという細かい揺れすら起こらない。まるで、扉が壁と一体化してしまったかのようだった。
「何だこれ、……畜生!」
石黒が全体重をかけて足を踏ん張り、両手で思い切り扉を引いたそのときだった。
いきなり、スコンとたががはずれたように扉が開いたのだ。勢いよく開いたその勢いで、石黒はすっ飛ばされて廊下に思い切り尻餅をついてしまった。
「いててて……」
尻をさすりながらよろよろと立ち上がり、保健室をのぞき込んだ石黒は、その惨状に仰天した。肩越しに後から部屋をのぞき込んだ須永も、同様に言葉を失ってぼうぜんと保健室内を見つめる。
保健室の床は先ほど部屋に入っていった人たちで埋まり、足の踏み場もないほどだった。ケガをしたり、苦しんでいる様子の人はなく、みんなただ静かに眠っているという感じだったが、それでも異様な光景だった。しかもさらに異様なのは、保健室の校庭側の壁が丸く切り取られたようになくなって、ぽっかりと穴が空いていることだった。そして、その穴から丸く切り取られたように見える校庭に、走り去る茶色い髪の少年の後ろ姿が小さく見えた。
「……あの子」
すかさずカメラを構え、室内の状況を撮影し始める石黒の横で、須永はぼうぜんと走り去る少年の後ろ姿を見送っていた。