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輪廻  作者: 代田さん
第三章 兄弟
120/203

5月25日 2

「紺野くん、大丈夫?」


 斜め後ろに座る三須が心配そうに声をかけると、真っ青な顔でうつむいていた紺野は小さくうなずいた。


「大丈夫です……すみません」


 紺野の不安感は最高潮に達していた。胸が重苦しく、息苦しくて、重力に逆らって姿勢を保っていることすらおぼつかない。彼は肩で息をしながら、ただひたすら目を閉じてその圧迫感に耐えていた。


  

☆☆☆



「佐久間さんとおっしゃるんですか」


「ええ。あの施設に勤めて、もう十年以上になります」


「まあ、そんなに……本当に、頭が下がりますね」


「別にたいしたことじゃないんですよ。私はこの仕事が好きですし。まあ、そのせいでいまだに独り身なんですけどね」


 みどりと佐久間は中年女性同士すっかりうち解けて、笑顔満開で世間話に花を咲かせている。

 二人には、エネルギー波は可視できない。だから気づいていなかった。バギーの少女の足元から、赤い気がまるで蛇のようにうねりながら、隣に座るみどりの車椅子に忍び寄っていることを。


「私も、こんな体になる前は社会人選手として国体に出たりしていたんです。だから体育祭みたいな雰囲気は大好きなんです。何だかわくわくしますよね」


「まあ、そうなんですか。すごいですね。私も、お祭りみたいなことは大好きです」


 楽しげに笑い合うみどりと佐久間。その間に赤い気は、車椅子の車輪を伝ってじりじりとはい上がり、ゆっくりとみどりの体を覆い始める。

 みどりの体に空いている穴……鼻の穴や、耳の穴。目や口。はては毛穴に至るまで、赤い気は穴という穴に集積し、ゆっくりと体内に侵入を開始する。

 その時だった。

 みどりの体全体が、目もくらむほどの白い光に包まれたのだ。

 集積していた赤い気は、その輝きに一瞬で吸収され、かすみのように消えうせた。

 もちろん、エネルギー波を可視できないみどりや佐久間には何が起きたのか分かりようもない。相変わらず和やかに談笑を続けている。だが、バギーの少女は違った。中空をにらんでいるその大きな目をかっと見開き、地をはうような低いうなり声をたて始めた。



☆☆☆



 うつむいていた紺野が、突然、弾かれたように顔を上げたので、心配そうに様子を見ていた三須は驚いて身を引いた。


「ど、どしたの? 紺野くん。いきなり……」


 三須の問いには答えず、紺野は鋭い目であたりを見回しながら校庭中に意識をとがらせる。程なく、敬老席のテントの下にある二台の車椅子が目に入った。一台は昨日、福祉事務所で借りてきたみどりの電動車椅子だ。その隣にある、大きな銀色の車輪の車椅子……あれは。

 紺野は椅子を鳴らして立ちあがった。目を大きく見開き、瞬ぎもせずテント下の車椅子を見つめて動かない。固く握りしめられた両手が、小刻みに震えている。


「……紺野くん?」


 尋常ならざるその様子に不安を覚えた三須が、声をかけようとした、その時。

 突然、紺野は走り出した。競技をしている校庭の、その真ん中を突っ切って。



☆☆☆



「紺野⁉」


 走り出る紺野に気づき、寺崎は仰天した。あれほど目立つことはやめようと言っていた張本人である。


――なに考えてんだ、あいつ!


 慌てて寺崎も立ち上がり、白組応援席側から紺野の方に向かい始めた。

 


☆☆☆



 バギーの少女は低いうなり声を発しながら、くるくると激しく目を動かしている。


「優ちゃん。どうしたの? つらいのかな」


 佐久間が慌てて検温をすると、体温は三十七度を超えていた。


「あら、たいへん。ちょっと長居しすぎちゃったみたい」


「大丈夫ですか?」


 心配そうなみどりに、佐久間は笑顔でうなずいて見せた。


「大丈夫ですよ。施設にもどって、体を休めてあげれば……。どうもありがとうございました、楽しかったです。ねえ、優ちゃん」


 だが、少女はますます激しくうなり声を上げるだけだった。


「じゃあ、失礼します」


 佐久間がみどりに一礼して、バギーの方向を校庭側から校舎側に変えたときだった。

 競技中の校庭を突っ切って男子生徒が一人、真っすぐにテントに向かって走ってきて、息を切らしながら敬老席の前に立った。立ち去る少女を見送っていたみどりは気配に気づいて振り返り、驚いたようにその目を見張る。


「まあ、紺野さん……」


 紺野は、みどりの存在すら感知していないかのようにバギーを凝視していたが、バギーが敬老席から出て行こうとしていることに気づくと、やおら右足を上げて校庭と敬老席を隔てるロープをまたぎこし、その後を追おうとした。

 刹那。


【来ルナ!】


 激烈な送信とともに、高密度の赤いエネルギー体が、衝撃波となって紺野のみぞおちにさく裂した。

 とっさに紺野はシールドを張ったが、それでも置かれていた長机をはじき飛ばし、トラックを飛び越え、校庭の真ん中まで吹っ飛ばされてしまった。砂まみれになって転がる紺野を、競技中の生徒や応援団が動きを止めてぼうぜんと見やり、観客席から悲鳴が上がる。

 背後の騒ぎに、バギーを押していた佐久間も足を止めて振り返った。見ると、校庭の真ん中に男子生徒が倒れている。佐久間は、はっとしたように少女の顔を見つめた。


「優ちゃん、……まさか」


 少女はますます激しく身も世もないようにうめき声を上げながら、その目を落ち着きなくくるくると動かし続けている。普段とは明らかに違うその様子に、なんらかの異変が起きている可能性に思い至った佐久間は、早く施設に戻らなければと足早に敬老席を後にした。

 寺崎は人垣越しにはじき飛ばされた紺野を見、同時に強力な能力発動も感知した。青くなってグランドに出ようとするが、ちょうどいちばん混んでいるあたりにさしかかっていたため、思うように出られない。人垣をかき分けながら運動場に出られそうな場所を探していると、寺崎は前方から大きなバギーに乗せられ、うなり声を上げる少女がやって来るのに気がついた。だが、今はそんなことより紺野の方が重大な関心事であり、じっと見ている暇もない。乗せられている少女には目もくれずバギーの脇をすり抜けると、ようやくグラウンドに出られそうな場所を見つけた。そこは敬老席として設えられたテントらしかったが、なぜかテント下は椅子もなくがらんとしており、その片隅では車椅子の女性が固唾かたずをのんで校庭を見つめている。

 寺崎はその女性を見て目を丸くすると、驚いたように声を上げた。


「おふくろ!」


 寺崎の声に、みどりも目を丸くして振り返る。


「紘!? ……紺野さんが!」


 寺崎はうなずくと、敬老席のロープを飛び越えて一直線に紺野のところへ走った。目立つとか目立たないとか言っている場合ではないのだ。


「紺野!」


 紺野の周囲は、すでに何人かの教員が取り囲んでいた。寺崎はその肩越しに大声で紺野の名を呼んだが、紺野は頭を打って気を失っているのか、呼びかけに対する反応はなかった。やがて数人の教師が担架を担いで到着し、紺野はそこに乗せられ、保健室の方に運ばれていった。

 寺崎は校庭の真ん中にたたずんでぼうぜんと担架を見送っていたが、やがて敬老席に戻ってきた。


「紘、紺野さんは?」


「気、失ってる。恐らく大丈夫だと思うけど……。おふくろ、今何があったんだ?」


 みどりも訳が分からないといった様子で首を振った。


「私にも何が何だか……。紺野さん、優ちゃんのことを見て、何かすごく真剣な顔してたんだけど、いきなり何かにはじき飛ばされたみたいになって……」


「優ちゃん?」


「大きなバギーに乗った女の子。あなたもすれ違ったんじゃない?」


 そういえばそんな気もするが、なにぶんあの時は紺野のことが気になってそれどころではなかった。寺崎が首をひねっていると、人混みをぬって玲璃と柴田が走ってきた。


「寺崎! 何があったんだ?」


「あ、総代。それが、俺にも何が何だか……」


「紺野は?」


「気を失って、保健室へ」


 玲璃はちらっと保健室の方に目を向ける。


「とにかく、保健室へ行こう。紺野に聞けば何があったのか分かる」


「分かりました」


 その言葉に、柴田と寺崎は同時にうなずいた。玲璃と柴田はみどりに一礼し、寺崎は軽く右手を挙げてテントを後にする。みどりは心配そうにその後ろ姿を見送っていたが、ふと、例の記者たちが、寺崎たちのあとをつけて人混みを抜けていく後ろ姿が目に入った。


――大丈夫かしら。


 みどりは不安そうな面持ちで、保健室の方を見つめた。



☆☆☆



「じゃあ、よろしくお願いします」


 紺野を運んできた教員たちが頭を下げると、三十代前後の養護教諭はにこやかな笑顔でそれに答えた。

 教員たちがそれぞれの仕事に戻っていくと、残された養護教諭は先ほどまでの温かな笑みから一転、悪魔のように残酷な笑みを浮かべて、寝かされている紺野を見た。

 彼女は無言で机に置かれていたハサミを手に取ると、紺野の枕元に歩み寄った。薄ら笑いを浮かべながら、両手で握ったそのハサミを頭上に高々と振り上げ、紺野の喉元目がけて一気に突き下ろす。

 刹那、紺野の目がハッと開いた。間一髪で体をねじり、ベッドから転げ落ちるようにして攻撃を避ける。ハサミは、主のいない枕に深々と突き刺さった。

 紺野は起き上がると、間合いをとるためにあとじさる。枕からハサミを抜いた養護教諭は、薄笑いを浮かべながらじりじりと間合いを詰めてくる。紺野の背中が壁にあたり、それ以上の後退が不可能になると、養護教諭の動きがぴたりと止まった。


「うおおおおお!」


 次の瞬間、養護教諭が獣のような雄たけびとともにハサミを振り上げて襲いかかってきた。

 紺野は眼前に突きつけられたハサミを右腕ではらう。腕が一直線に切れて鮮血が飛び散ったが、ハサミははじき飛ばされ床に転がった。転がるハサミに気を取られ、紺野から注意をそらした養護教諭のこめかみをすかさず両手でつかむと、紺野は密度の高い気を一気に放出する。養護教諭を取り巻いていた赤い気は、日の光に当てられた霧のように一瞬で消滅した。

 白目をむいて崩れ落ちる養護教諭を支えると、紺野はその場にそっと寝かせてやった。赤い糸のように腕を伝い、指の先から滴り落ちる血が、白い床に点々と鮮やかな模様を描く。紺野は机の上にあった包帯を手に取ると、無造作に血の滴る右腕に巻き付け始めたが、意識は何か別のことに向いているようだった。

 と、廊下に数人の人間の騒々しい足音が響き、勢いよく入口の扉が開け放たれた。


「紺野! 大丈夫……」


 走り込んできた寺崎は、足元に倒れている養護教諭と、血だらけの紺野の腕に目を留めて、言いかけた言葉をのみ込んだ。寺崎の後から保健室に入ってきた玲璃と柴田も、中の光景に言葉を失う。

 紺野はいくぶん青ざめたその顔を、ゆるゆると三人に向けた。


「大変なことに……なりそうです」


「大変なこと?」


 寺崎の言葉に紺野はうなずくと、ちらっと保健室の入口に目を向ける。寺崎たちも気づいているのか、横目でそちらの方を見やる。扉の向こう、保健室前の廊下には、須永と石黒の姿があるのだ。


【送信でも、みなさんは大丈夫ですね。今、あの子ども本体と遭遇しました】


 その言葉に玲璃も柴田も息をのみ、寺崎はうろたえたように口を開いた。


「……って、一体どいつだったんだ?」


 玲璃が口に人差し指を一本当ててにらむと、寺崎はハッと口を押さえ、小さくなって頭を下げた。


【あいつのことは、あとで詳しく話します。とにかく今は、危険を回避するのが先です】


 まだよく分からない様子の三人に、紺野は静かに恐ろしい予測を伝え始めた。


【あいつが校内にいたと言うことは、かなりの人数と接触が可能だったということです。実際に校内にいた時間はたいしたことがなくても、あいつは一瞬で催眠をかけることができる。つまり、あいつとすれ違ったり、側にいた人たち全員が、催眠をかけられている可能性があるんです】


 三人は言葉もなく、その恐ろしい予測にじっと耳を傾けている。


【今、一人目は何とかしましたが、この調子で何人も出てこられたら、果たして対応が可能かどうか……しかも今日は、大勢の部外者が入り込んでいる。どんな状況になるのか、正直予測がつきません】


 紺野はいくぶん青ざめながら、校庭側の窓に目を向ける。


【僕らだけを狙ってくるのならまだいい。もし、無関係な人たちを巻き込むような行動に出たりしたら……】


 三人は血の気のうせたその顔を校庭側の窓に向けていたが、何の気配に気づいたのか、突然、玲璃がはっとしたように振り返って入口を見た。



☆☆☆



 中の様子をじっとうかがっていた須永と石黒だったが、あまりにも長い間中がしんと静まりかえっているので、互いに顔を見合わせて肩をすくめた。


「何をしてるのかしら」


「さっきあの三人が入っていく時ちらっと、養護の先生か誰かが倒れてたのが見えたような気がしましたけど……ちょっと、のぞいてみましょうか」


 声をひそめてこう言うと、しびれを切らした石黒が、戸の隙間から中の様子をのぞこうと進み出る。


「気をつけてよ、石さん」


 ひそひそ声でそう言った須永は、ふと背後から響いてくる複数の足音に気づいて振り返り、目を見張った。

 廊下の向こうから、応援に来ていたらしい保護者や関係者が、大勢こちらに向かってくるのが見えるのだ。しかも、誰一人としてしゃべらず、黙々と、ただ一心に保健室に向かって歩いてくる。異様な光景だった。

 須永はあわてて戸口に張り付いている石黒の背をたたく。石黒も目を丸くすると、須永と二人で、あわてて階段の影に隠れる。

 三十名ほどの保護者や関係者たち――中には、小学生らしき子どもの姿も、祖父母らしき老人の姿もあった――は、その歩みをゆるめずに保健室の扉を開くと、部屋の中に次々と吸い込まれていった。



☆☆☆



「ねえ優ちゃん、あなた、ひょっとして……あれをやったの?」


 川沿いのサイクリングロードを歩きながら、佐久間は不安そうに少女の顔をのぞき込んだ。

 高校を出たとたん、少女のうなり声は止んでいた。体温も平常に戻り、いつものように大きな目をくるくるさせながら、静かに遠くを見つめている。


――まさか、ね。お茶わんやお箸を飛ばすのとは、訳が違うもの。


 佐久間は吹き飛ばされた少年の様子を思い出して身震いした。お茶わんやお箸程度の力で、あんな遠くまで飛ばせるわけがない。それ以前に、優子があんな恐ろしいことをするわけがないのだ。


――機嫌が悪かったのは、おむつがぬれたせいかもしれないわ。水分もとらせなければ。


 佐久間は思い直すと、日差しあふれるサイクリングロードを、足を速めて歩きだした。

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