4月10日 1
4月10日(水)
翌日、玲璃は父親に言われたとおり、「寺崎」なる人物に会うために一年B組の教室へ向かった。
一年生の教室は、校内でも比較的新しい校舎に配されていおり、旧校舎に位置する薄暗い三年生の教室とは比べものにならないほど明るくモダンな雰囲気が漂う。玲璃は羨ましそうに周囲を見回してから、後ろ扉をそっと開いて教室内をのぞいた。
教室内では初々しい一年生達が、楽しそうに窓際で友達と喋り合ったり、カードゲームに興じたりしている。
一年生は中学を卒業したばかり。玲璃から見るとまだまだ幼さが残る。新しい生活に緊張しながらも、友達同士で楽しそうに笑いあう姿は何ともほほえましい。彼らを温かく見やりつつ、玲璃は新しい護衛である寺崎の姿を探す。手にしている寺崎の顔写真を再度まじまじと見、それからもう一度教室内をぐるりと見渡す。だが、一向にそれらしい姿は見あたらない。
小さく息をついて、さらにもう一歩教室内に足を踏み入れた玲璃は、視界の端に映り込んだ人物の姿に大きくその目を見開いた。
窓側の一番前の席に座っている、うつむき加減の男子生徒。窓から入ってくる緩やかな春風に、茶色い髪が時折サラサラと揺れている。
その後ろ姿に、玲璃は確かに見覚えがあった。
――あの子だ。
教科書だろうか、文庫本よりもひと回り大きい本を読んでいる。彼がページをめくるたびに長い前髪が揺れ、瞬きとともに上下する長い睫毛がちらっと見える。
玲璃はごくりと唾を飲み込むと、彼をもっとよく見ようと、教室内へさらに一歩足を踏み出した。
刹那。
「ひょっとして、魁然総代すか?」
いきなり頭上からよく通る低い声が響いてきて、玲璃はドキッとして思わず呼吸を止めた。気配には非常に敏感なのだが、よほどあの少年に気を取られていたらしい。おずおずと頭上を仰ぎ見た玲璃を、背の高い、すっきりした顔立ちの男が、やけに高い位置から見下ろしていた。
襟足はソフトモヒカン風に軽く刈り上げ、長めのトップはアップバングにしてスッキリ額を出し、活動的で明るい雰囲気を醸し出している。とはいえ、マジメ一辺倒というわけでもないらしく、ズボンのポケットに両手を突っ込み、耳には複数のピアス。目鼻立ちははっきりしていて、きりっとした眉と鋭いまなざしが意志の強そうな印象を与える。ちょいワル好きにはそれなりにウケそうなタイプだなと思いつつ、玲璃は急いで手元の写真と見比べた。
「おまえが、寺崎か?」
男は深々と頷くと、感嘆のため息をついた。
「寺崎紘っす。……いやあ、感激っす。がんばってよかったぁ」
「? 何がだ?」
「これから総代の護衛ができるんで。むちゃくちゃ憧れてましたから」
玲璃は思わず目を丸くして赤くなった。
「な、……何を言ってるんだ。それより、おまえにちょっと聞きたいんだが」
「はい、何すか?」
玲璃は、窓際の席で静かに本を読んでいるあの少年を指さした。
「あの子……名前、何て言うんだ?」
寺崎は玲璃の指さす方に目をやると、腕組みして首をかしげた。
「あれ、あんなヤツいましたっけ? ……ええと」
急いで席に戻ると、先ほど配られたらしい名簿を持ってくる。
「ええと……ああ、紺野。紺野秀明とかいうやつらしいです」
「紺野……」
「総代、あいつがどうかしたんすか?」
「え? ……あ、いや、ちょっと気になることがあって。実は、生徒会に個人的に怪しいと思っているやつがいるんだが、そいつが……そう、あの紺野とかいうやつを妙に気にしているようだったんだ。それで、何かと思って……」
玲璃は言い訳めいた理由を早口で告げると、居心地悪そうに目線を逸らした。
そんな玲璃の態度には特に気づくそぶりもなく、寺崎は感心しきって頷きながらその話を聞いていたが、何を思いついたのか目をまん丸く見開くと、ぽんと手をたたいた。
「したら総代、俺、あいつのこと、見張りますよ」
「え、……いいのか?」
寺崎は満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。
「総代のお役にたてるんなら、俺、がんばりますんで!」
☆☆☆
寺崎はウキウキだった。憧れの魁然玲璃と話ができたのだ。彼は昔から、一族の総代である彼女に憧れていた。落ち着いた雰囲気に、凜とした表情。ちょっとそっけない男言葉も。一族の集会で遠くから彼女を見かけるたび、ひそかに心ときめかせていたのだ。
「あの総代が、気になってる男ねえ……」
ちらちらと例の男に目をやりながら、寺崎は首をかしげた。
あんなやつがいたのかと改めて思うほど、存在感の薄い男だった。そういえば休み時間も、昼飯時も、誰かと会話している姿を見たことがない。いつ見ても、あの席に座って一人で静かに本を読んでいる。
数学の時間だった。前方では、教師が何やら意味不明な記号を書き連ねつつ得意げに喋っているが、寺崎には既に何の事やらさっぱり分からない。学習内容が中学時代と比べて格段に難しい上に、寺崎はかなり無理をしてこの高校に入ったクチだった。本来なら手の届かないレベルだったのだが、がんばったのだ。魁然玲璃の護衛をする、そのために。
護衛になったのは、玲璃に憧れていた、などというフワッとした理由からではない。彼には彼の事情があった。護衛という「職業」に就かなければならない、家庭の事情が。この高校に入って玲璃の護衛になり、月二十万の収入を得る。これは彼にとってここ数年の大きな目標であり、それが曲がりなりにも達成された今、少々力を抜きたい気分になるのも仕方のないことだった。彼がいまひとつ学習に身が入らないのはそんな理由も手伝っていた。
「では、この問題を解いてもらいます」
教師が獲物を探してクラス内を睨め回し始める。黒板には、相変わらず意味不明の文字の羅列。寺崎は目を合わせないように姿勢を低くして、気配を消した。
「日々木」
指名された女生徒はしばらく逡巡したあと、小さな声で分かりませんと答えた。寺崎は彼女に共感して深々と頷く。そりゃそうだろ。あんなのいきなり分かるかよ。
「では、隣の紺野」
寺崎はハッと目を見開いた。あいつだ。寺崎は息を殺すと、紺野の動きに神経を尖らせる。
紺野は寺崎の熱い視線には全く気づかない様子で席を立ち、黒板の前にすたすたと歩み寄る。
――できんのか? あんなのが……。
寺崎の疑念とは裏腹に、紺野はいともたやすくすらすらと呪文のような数字や記号を書き連ねていく。それが果たして正解なのか間違っているのかさえ、寺崎には全く分からない。
紺野がチョークを置くと、教師は嬉しそうな笑顔を見せた。
「正解です。途中経過も省略しないでくれましたね。完璧です」
無言で席に戻る紺野を、寺崎は口を半開きにして見やった。へええ、あいつ頭いいんだなどと感心しつつ、彼がどんな表情をしているか見ようと身を乗り出す。だが、紺野の表情は先ほどまでと全く変わっていなかった。嬉しそうでも、恥ずかしそうでも、得意そうでもない。何の感情も読み取れない表情で彼は席に戻ると、教科書に視線を落とした。
――何だ、無表情なやつ。
正解を出すことが当前であるかのような彼の態度が、寺崎は少しだけ不愉快だった。
☆☆☆
昼食の時間になった。
おおかたの一年生はこの高校の名物と名高い学食へと向かう。中学時代から食べ慣れている弁当や、どこでも買える購買のパンよりも、地元産の食材を使ってこの学校の調理場で調理される安くておいしい学食を、多くの一年生は楽しみにしているのだ。
とはいえ、安いといっても食材も手間もきちんとかけられている分、コンビニ弁当と同等のお値段というわけにはいかない。経済的事情などから学食へ行かない学生もいる。そういう生徒は教室で自作の弁当や購買のパンを食べる。寺崎の家も家計が厳しいので、そんな寂しき弁当派の一人だった。
が、どうやら紺野も学食へは行かないらしい。寺崎が弁当の包みを開けながら紺野の様子をちらちら見ていると、彼はかばんから無造作に包まれたおにぎりを取り出した。きれいな三角のおにぎりだったが、のりも巻かれていなければ中身も入っていない様子。しかも二個だけだった。
――あいつんとこも、家計が厳しいのか?
寺崎が、母親お手製の質素ながら彩りの良い弁当を食べながら仲間意識を感じていると、後ろの方から騒がしい声が響いてきた。
「やっべー、金忘れちったぁ」
「ええーっ、宮野くんもぉ? おれもぉ」
「どうしよっかあ、そうだ、清水君、貸してくんねえかなあ」
二人の男……一人は茶色く髪を染め、もう一人はズボンをズリ下げたいかにもという風体の男たちだ……に囲まれているのは、めがねをかけた小太りの男だった。めがね男は弁当の途中だったが、二人の男に促され、開きっぱなしの弁当のふたもそのままに、学食へ行くのか教室を出て行く。
すると、真ん中あたりに座っていた女子たちがひそひそと話し始めた。
「清水くん、地獄だよね」
「ほんと。中学卒業したからやっと解放されると思ってただろうに、またあいつらと同じクラスとかヤバすぎ」
「先生とか気づいてないの?」
「多分ね。あいつらやり方うまいし」
――いじめか。
不快な気分に襲われた寺崎は、きつく眉をひそめた。母親に弱い者いじめは卑怯者と叩き込まれて育った彼にとって、いじめは考えられない悪行なのである。
今のこの騒ぎに対して紺野がどんな反応をするか興味がわいた寺崎は、横目でちらりと紺野の様子を盗み見た。だが、紺野はそんな騒ぎがあったこと自体まるで知らないかのように、相変わらずの無表情でおにぎりを食べているだけだった。