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輪廻  作者: 代田さん
第三章 兄弟
118/203

5月24日 

5月24日(金)


「いよいよ今日で最後だな!」


 走りながら、寺崎は少し前を自転車で走る紺野に大きな声をかけた。やり遂げた充実感いっぱいの、嬉しそうな声だった。


「そうですね」


 紺野は振り返ると、そんな寺崎にほほ笑みかける。

 朝の弱い寺崎にとっては、本当に大変な数日間だったろう。最初は寺崎自身も、遅れたら自分だけ電車で行く場合もあるかもしれないと言っていた。だが結局、一日も欠かすことなく紺野とともに登校することができた。ひとえに、紺野を無事に送り届けるという責任感の成せる技だったのだろう。寺崎の気持ちを思うと、紺野はありがたくて胸がいっぱいになるのだった。


「本当に、ありがとうございました」


 紺野に頭を下げられて、寺崎は照れたように笑う。


「別に礼を言われる筋合いはねえよ。俺の方こそ、毎日起こしてくれてサンキュな!」


 四軒茶屋の駅前ロータリーを、いつものように結構なスピードで駆け抜ける。二人と毎朝すれ違う通勤客は、いつものように目を丸くして二人の疾走を見送っていく。

 その中年女性も、そんな通勤客の一人だった。いつものように目を見はると、歩く速度を緩めてすれ違う二人を見送ってから、地下通路への階段を降りていった。



☆☆☆



 女性は駅からほど近い小さなビルに入った。入り口には木片を貼り合わせて制作したらしい「つどいの家」というハンドメイド感あふれる看板が掲げられている。

 女性が玄関で靴を脱ぐと、げた箱を掃除していた小太りの男性が掃除の手を止めて振り返った。


「おはよう、佐久間さん」


 男性が人なつっこい笑顔を浮かべてあいさつすると、佐久間と呼ばれたその女性は、温厚そうなその顔をふんわりとほころばせて彼の顔をのぞき込んだ。


「おはよう、金田さん。今日も元気そうじゃない」


「元気元気。佐久間さんも元気?」


「元気よぉ。今日も張り切るからね」


 金田と呼ばれた男性は、にこにこしながらうなずくと、その小さな目をまん丸く見開いて、少しだけ首をかしげてみせる。


「優ちゃんも、元気?」


「もちろん元気よ。今から顔を見に行ってくるわね」


 佐久間はそう言って金田にほほ笑みかけると、やはりハンドメイド感があふれる「職員室」プレートのかかげられた部屋に入っていった。

 佐久間はこの障害者施設にかれこれ二十年以上勤務している、ベテラン中のベテランだ。他の職員にあいさつをすると、手早く身支度を調えながら横目で机上に置かれた文書に目を通し始める。

 と、若い女性職員が血相を変えて職員室に飛び込んできた。佐久間の姿を目に留めると、心底ほっとしたように息をつく。


「よかったぁ、佐久間さん来てらして……優ちゃんの食事、お願いできます?」


「行こうと思ってたところだったの。ごめんなさいね。すぐ行くわ」


 佐久間は文書を机上に置くと、丁寧に手を洗って消毒し、階段を急ぎ足で上り始めた。


  

☆☆☆



 五階にあるこの部屋は上階だけに日差しもたっぷり降りそそぎ、施設内で一番明るい居室である。

 病院並みの設備が完備しているその部屋に佐久間が一歩足を踏み入れた途端、部屋の奥からおわんが飛んできて、佐久間の目の前に転がった。その向こう側では若い男性職員が床にはいつくばり、完膚無きまでにひっくり返された食事の中身を必死で片付けている最中だった。

 佐久間は足元のおわんを拾い上げると、苦笑まじりにため息をつく。


「優ちゃん、だめじゃないの。三島さんにそんな迷惑をかけちゃ」


 その声に、三島と呼ばれた男性職員はほっとしたように顔を上げて振り返った。


「佐久間さん……挑戦してみたんですけど、やっぱりだめでした。すみません」


「優ちゃんは、特に男の人がだめだから。いきなりはやっぱり無理でしょ」


 部屋に転がっている茶わんや箸を拾って三島に渡すと、紙タオルを手に取り、バギーに横たわって意味不明の奇声を発している……少女だろうか? 彼女の顔をのぞき込んだ。


「おはよ、優ちゃん。佐久間が来たよ。一緒にご飯、食べよっか」


 その途端、少女の奇声がぴたりと止まった。まるで何かを待っているかのように、大きな目でじっと中空を見つめている。

 佐久間は顔や肩に飛び散った食事をきれいに拭き取ると、彼女の柔らかな茶色い髪を優しくなでた。


「昨日お風呂に入ったのよね。ほんと、優ちゃんは美人よね。今日は髪を結ってあげるからね」


 優ちゃんと呼ばれた少女は、長いまつ毛に彩られた目をくるくると動かしながらじっと天井を見つめている。その口が、わずかに動いた。


「食べる? 分かったわ。じゃあ、少しずつね」


 佐久間は運良くひっくり返されていなかった小鉢を手にり、柔らかいスプーンにかゆ状の食事をほんの少し取ると、開きかけた唇の隙間からそっと入れ込む。わずかに、本当にわずかに舌が動き、食事が口の中に少しずつ入っていく様子を見ながら、三島は感心したようにため息をついた。


「やっぱすごいなあ、佐久間さんは」


 佐久間はくすっと笑うと、もう一さじ口に運ぶ。


「これはあくまで口の刺激だから、そんなに無理して量をとらせなくていいのよ。足りない分は、胃ろうから直接送り込むんだもの」


「いや、分かってるんすけど。つい、食べそうな感じがして」


「優ちゃんは見た目がしっかりしているからね。でも、脳の障害はかなり重度だから。私も諦めてはいないけど、無理もさせたくないと思ってる」


 そう言って佐久間は、優ちゃんと呼ばれた少女の茶色い髪を優しくなでた。


「優ちゃんは優ちゃんでいいの。私は大好きだもの」


 それから、いたずらっぽく笑って三島を見る。


「それに、怒らせると、さっきみたいな超常現象が起きるしね」


「ほんと、驚きました。皿やスプーンが、本当に勝手に空飛ぶんすよ。何回か見てますけど、やっぱすごいっすよ」


「脳の障害の影響なのかしらね。さすがに私も原因までは分からないけど、動けない優ちゃんが考えた、自分の意志を表す方法なんでしょう。私も慣れるのにかなりの年数がかかったわ」


 佐久間は様子を見ながらもう一さじ、口に運んだ。その口が、ほんのわずかに閉じる。


「はい、じゃあ、おしまいね。おいしかった? 優ちゃん」


 口の周りをきれいに拭き取り、食器を持って立ち上がった佐久間に、三島は深々と頭を下げた。


「ほんと、ありがとうございました。佐久間さん」


「いえいえ。優ちゃんのことだったら、いつでも呼んで。じゃあ優ちゃん、お散歩までゆっくり休んでね。あとで体の向きもかえに来るから」


 部屋を出て行く佐久間の後ろ姿とは少しずれた辺りをじっと見つめたまま、その優ちゃんと呼ばれた少女は動かなかった。



☆☆☆



「今週末は、三島さんと柴崎さんが担当でいいですか?」


 施設長がそう言って二人の顔を見ると、柴崎と呼ばれた痩身そうしんの女性職員が、おずおずと口を開いた。


「すみません、その予定だったんすけど、父の具合が悪くなって。ちょっと、いなかへ帰んなきゃならないんです。すみませんが、どなたか交代していただけませんか?」


 この施設には、身寄りのない入所者が三人いる。夜間は専門の看護師が泊まりに来るが、週末の日中は交代で勤務しなければならないのだ。


「誰か、柴崎さんの代わりができる人、いませんかね」


 季候のよいこの時期の週末、せっかく与えられていた休日を進んでフイにする物好きは少ない。静まりかえる職員室。……と、佐久間がすっと手を挙げた。


「私、いいですよ。一人もんだし、別に予定もないですから」


「佐久間さん……でも、先々週もそう言って、週末の勤務してらしたんじゃないですか?」


「別にいいのよ、私ここが好きだし。ここの人たちは、私の家族みたいなものだから」


 施設長は申し訳なさそうな表情を浮かべたが、他に代わりもいないようだ。


「じゃあ、申し訳ないけど佐久間さん、よろしくお願いします。柴崎さんは、どこかの勤務を佐久間さんと代わって」


 恐縮して頭を下げる柴崎に佐久間は明るく笑って首を振ると、そっと隣の三島に話しかけた。


「じゃ、週末よろしくね、三島さん」


「こちらこそよろしくです、佐久間さん。でもよかったぁ。実は俺、今週末のことを考えて、優ちゃんの食事、チャレンジしてたんす」


「なんだ、そうだったの」


「だって、佐久間さんがいないからって、経口摂取させないのもなんでしょ。結構緊張してたんですけど、ほっとしました」


 佐久間はくすっと笑うと、机の中から予定表を取り出した。


「ねえ、三島さん。また優ちゃん連れて、散歩してきても構わない?」


「え、いいっすよ。佐久間さん好きですもんね、予定外の散歩」


「だって、優ちゃん明らかに喜ぶんだもの……あ、土曜日はちょうどそこの高校で何かやるみたいね」


「ああ、体育祭ですよ。にぎやかになるんじゃないですか?」


 佐久間は目を輝かせると、興味深げにうなずいた。


「じゃあそれ、行ってみるわ。優ちゃんにぎやかなところが好きだし、あの高校、歩いて行けるから。その間、山さんと堀江さんのこと、頼むわ」


「おっけいっす。こちらこそ、よろしくお願いします」


  

☆☆☆



 明るい日差しの降り注ぐ室内で無表情に天井を見つめていた少女は、その時突然、にやっと口をゆがめた。普段、ほとんど表情筋を動かすことのない彼女にとっては、信じられないような動きだった。だが、そのことを、施設にいる誰一人として知る由もない。

 彼女はしばらく、左右非対称に口元をゆがめながら、どこか遠くを見つめていた。

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