5月23日 5
「本当にありがとうございました」
校門まで来ると、紺野は改めて亨也に深々と頭を下げた。寺崎は老婆を背負っているので、頭だけうなずくような感じで下げる。亨也はいえいえと手を振ると、校舎の方を見やった。
「ここまで来て玲璃さんに会わないのも寂しい気がしますが、よろしくお伝えください。なかなか休みが合わなくて申し訳ないと言っていたと、伝えていただけると嬉しいです」
その言葉に、寺崎はドキッとした。そうだった。この人は、総代の許嫁……。
「はい、お伝えしておきます」
笑顔でうなずいた紺野の隣で、寺崎は足元に目線を落とした。
「では、お婆さんをよろしくお願いしますね」
「……あ、はい。裏庭に倒れてたって保健室に行けば、あとは何とかなると思うんで」
慌てて顔を上げてうなずいた寺崎に笑顔を返すと、亨也は踵を返し、駅の方に向かって歩き出した。その後ろ姿に向かってもう一度、紺野が深々と一礼する。その拍子に、肩口が痛んだのか、紺野は息をのんでわずかに顔をゆがめた。
と、亨也の歩みがぴたりと止まった。
再び踵を返し、急ぎ足でこちらに戻ってくる亨也を見て、紺野も寺崎も戸惑ったように顔を見合わせる。亨也はそんな紺野を軽くにらむと、こころもち低い声でこう言った。
「そういうことは、もう少し早く言ってください」
「え?」
訳が分からずうろたえている紺野の目の前に立つと、亨也はいきなり紺野のワイシャツの襟をつかみ、首元をはだけるようにして強く引いた。温和な亨也らしからぬ乱暴な所作に、紺野は思わず息をのんでよろける。ワイシャツの下からあらわになったその肩を見て、寺崎は凍り付いた。
肩全体が紫に腫れ上がり、一部が大きく裂けて、ピンク色の皮肉がめくれ上がっている。出血は転送していたのか、ワイシャツがかぶっていれば全く分からなかったが、かなりの大ケガだった。
「言ったはずです。自分のことも、もう少し大事にしてくれと……」
亨也がにらむと、襟をつかまれた格好の紺野は、居づらそうに目線をそらした。
「すみません……」
亨也は襟元の手を離してため息をつくと、寺崎に向き直った。
「寺崎さん。少しだけお宅をお借りしてもよろしいですか? 二,三十分で構いませんので」
「あ、……は、はい。もちろんっす」
「じゃあ、お婆さんの方はよろしくお願いしますね。紺野さん、行きますよ」
亨也は戸惑ったような表情を浮かべている紺野の腕を半ば強引につかむと、寺崎に黙礼して、消失した。
☆☆☆
みどりはどきどきしながら、居間のソファに座る神代亨也を見ていた。
眼鏡をかけた、シンプルな私服姿。大人の男の色気を感じるその姿に、もうほとんど韓流スターを見る女性ファンさながらに、みどりはうっとりと見入っていた。
その隣には、ワイシャツを片袖だけ脱いで紺野が座っている。こちらはこちらでびっくりしてしまった。普段、長袖ばかり着ているのできゃしゃな感じに見えていたが、なかなかどうしてしっかりした体つきをしている。百メートルのタイムが十秒九と聞いたとき、あのきゃしゃな体でまさかと思ったのだが、こうしてみるとそれもうなずけた。しかもまだまだ成長途中という感じで、これからもっと伸びていきそうな感じだ。
「いつも思いますが、よくこんなケガで平気な顔をしていましたね」
亨也がため息まじりにこう言うと、紺野は申し訳なさそうに目を伏せた。
「すみません。痛いことは痛いんですが、あとで自分が何とかすればいいと思っていて……」
「でも、出血を転送して隠すのは違うでしょう」
紺野は目を丸くすると、慌てた様子で首を振る。
「いえ、隠していたわけじゃ……。ワイシャツを血で汚すと、シミになって落ちないので」
やけに現実的な紺野の返答に、亨也はぽかんとしてから、耐えきれなくなったように吹き出した。下を向いてくすくす笑いながら肩をすくめる。
「ホントあなたって、意外性がありますよね」
「よく言われます。何のことだかよく分からないのですが……」
亨也は笑いながらも、銀色に輝く手を紺野の肩にかざし続けている。肩の傷はもう八割がた癒えていて、あとは表層を修復するのみになっていた。
そこへ、みどりがコーヒーを車椅子の簡易テーブルに載せて運んできた。こぼさないよう実に器用に車椅子を操っているのだが、紺野は慌てて立ちあがるとみどりに駆けより、テーブルの上のコーヒーカップを取り上げた。
「危ないです、みどりさん。やけどをしてしまいます」
「あら大丈夫よ、紺野さん。あなたこそ、そんな格好で。治療は終わったの?」
言われて初めて片袖を脱いでいたことを思い出したらしく、紺野は赤くなると慌ててカップをテーブルに置いて、再び亨也の隣にちんと座った。亨也は苦笑しながら続きを始める。
みどりはソファの脇から手を伸ばしてカップを並べながら、亨也の手元を感心したようにのぞき込んだ。
「異能力って、そんなこともできるんですね」
その言葉に、亨也はいたずらっぽくほほ笑んでみせる。
「他の皆さんには内緒にしてくださいね。インチキ医者だと言われてしまう」
「そんな、インチキだなんて。結果的に治るんですから、いいじゃありませんか」
「でも、まじめにやってる同業者からすれば、こんな力があるのはインチキ以外の何物でもないでしょう」
そう言うと、銀色の輝きをおさめて手を下ろした。
「終わりました。もうすっかりいいはずです」
試しに紺野は肩を回してみる。打ち身の鈍痛が残っている他は、痛みはほぼなくなっていた。
「すごいです。ありがとうございます」
「よかったわね、紺野さん。これであさっての体育祭も、心配なく参加できるわね」
みどりが笑顔でこう言ったので、亨也はコーヒーを口にしながら興味深げに目線を上げた。
「あさって、体育祭なんですか?」
「そうなんです。この子、代表でリレーに出場するんですよ」
「へえ、そうなんですか。何か意外ですね。おっとりして見えるんですけど」
「そうでしょう。私も最初に聞いたときはびっくりしたんです。でも、がんばってるらしいですよ。ねえ、紺野さん」
「あ、はい。それなりに……」
紺野はワイシャツのボタンを留めながら頭を下げた。
「神代先生も見にいらしたら? 玲璃さんも出るはずですよ」
すると亨也は残念そうに笑った。
「そうしたいのは山々なんですが、残念ながら出勤でしてね。なかなか休みが取れないんですよ。今日も十日ぶりの休日だったんです」
「まあ、お忙しいんですね。ご苦労さまです」
「すみませんでした、せっかくのお休みにお呼びだてして……」
恐縮しきって頭を下げた紺野に首を振ってみせると、優しい表情で笑う。
「かえってよかったですよ。勤務中だと、出られないこともままあるので。また何かあったらこんな感じで呼んでみてください。可能なときは行きますから」
ますます恐縮して頭を下げる紺野にほほ笑み返すと、亨也はコーヒーを飲み干して立ちあがった。
「ごちそうさまでした。では、そろそろ失礼します」
その言葉にみどりは残念そうな表情を浮かべる。
「まあ、もうお帰りですか? もう少しゆっくりしてらしたらよろしいのに」
「ありがとうございます。今、図書館に荷物を置きっぱなしなんです。借りなければいけない本もありますし」
「途中までお送りします」
紺野が慌てて玄関に走り、靴を履いて外に出る。亨也も靴を履くと、みどりに向き直って一礼した。
「申し訳ありませんでした、突然おじゃましてしまいまして」
「とんでもない。またいつでもいらしてください。なんて言うと、紺野さんがしょっちゅうケガをすることになっちゃうからまずいですね。でも本当に、それとは関係なく遊びにいらしてくださいね。大歓迎ですから」
みどりの言葉に亨也はにっこりとほほ笑むと、再度一礼して寺崎家を後にした。
☆☆☆
「今日は本当に、ありがとうございました」
ならんで歩きながら頭を下げた紺野を、亨也は小さく首を振ってから、じっと見つめた。
「似合いますね、その制服」
「そうですか?」
赤くなった紺野を見て亨也はほほ笑むと、どこか遠い目をした。
「あなたは確か、あの高校に入ったのは二度目ですよね」
紺野はためらったが、やがて小さくうなずいた。
「頭いいんですね、紺野さん。実は、私は十六年前、あの高校を受けて見事に落ちたんですよ」
驚いて目を見張る紺野を横目に、亨也は自嘲気味に笑いながら続けた。
「あの高校は都下でも有数の進学校ですからね。誰でも一度は挑戦するでしょう。ただ、あの頃の私はどうしようもないやつで。産まれたときから将来つくことになる職業も、結婚相手も決められている人生がどうしても納得できなかった。何に対しても反抗していましたね。当然勉強もやる気がなくて、見事に落ちました。結局私立に進学したんですけど、それで目が覚めましたね。いくら敷かれたレールでも、まじめにやらなきゃ脱線するんだと。当然なんですけれど」
紺野は心底驚いて亨也を見つめた。このまじめで落ち着いた、社会的信用も厚い人物に、そんな過去があったとは信じられなかったのだ。亨也はその視線に気づくと苦笑した。
「私だっていろいろ考えますよ。一応生きているんですから」
そう言って、静かに遠くを見つめる。
「玲璃さんとのことも、自分なりによく考えて出した答えのつもりです。だから、自分としては納得しているんです。ただ、玲璃さんの方にもし納得できない点があるのだとしたら、それは最大限尊重しなければならないでしょう。何といっても、彼女はまだ若いですから」
話しているうちに駅の入り口が見えてきた。亨也は振り返ると、人気のない駐車場を指し示した。
「ここでいいですよ。あなたは高校に戻ってください」
そう言って人目につかない奥の方に入っていく。どうやら紺野を高校に転送してくれるつもりらしい。紺野はしばし駐車場の入り口でためらっていたが、亨也に促されておずおずと歩を進めると、深々と頭を下げた。
「今日は本当にありがとうございました。何とお礼を申し上げたらいいか……」
「私の方こそ礼を言いますよ。何だか楽しかった。またいつでも呼んでください。対応できるときは行きますから」
そう言うと、ちょっと紺野をにらむ。
「ただし、ケガをしたときはちゃんと言ってください。いいですね」
ドキッとしたような表情でもう一度頭を下げた紺野に、亨也はほほ笑みながら銀色に輝く手をかざす。次の瞬間、紺野の姿は空気に溶けるように消失した。
亨也は何くわぬ顔で駐車場を出ると、ズボンのポケットに手を突っ込んで駅に向かう。その端正な横顔に、ほのかな笑みを浮かべながら。