5月23日 3
チャイムが鳴って中休みになれば、相変わらず一年B組の前は二年生女子と三年生女子で黒山の人だかりである。その勢いは収まるどころか、さらに加速しているようだった。
「あ、今笑った!」
「ちょっと頭下げて。写真撮れないじゃん」
寺崎や紺野が体を動かしたり表情を変えたりするたび、女の子たちが一斉に携帯のシャッターを切る。機械的で軽やかなシャッター音を聞きながら、机に突っ伏していた寺崎は、うんざりしたように目の前に立つ紺野を見上げた。
「なんか、ちょっと前の上野動物園みたいだよな」
「シャンシャン、ですね……」
二人ともパンダの気持ちが初めて分かったような気がして、同時に深いため息をついた。するとまた、一斉に携帯が向けられ、シャッター音が響き渡る。
「なあ、逃げてもいいか?」
「どうぞ、逃げてください」
「バカ。おまえも一緒に来るんだよ」
「僕が行くと、足手まといじゃありませんか?」
「だからって、この状況におまえ一人を置いていくほど、俺は薄情じゃねえからな」
紺野と寺崎は、額を寄せ合って何やらこそこそと話し始めた。その間も、間断なくシャッターが切られ続けている。
「あ、そーだ! これ、良かったら先着一名様にさし上げまーす!」
突然、寺崎がガタリと席を立って何かを高く差し上げた。その手には、携帯ストラップらしきものが揺れている。
「寺崎くんご愛用のストラップ、先着一名様。欲しいっすか?」
廊下の二年生女子が目の色を変えて騒ぎ始めた。紺野目当ての三年女子は、二年生女子の勢いに押されて、身動きが取れない。
「じゃ、いきますよ。せーの……」
次の瞬間、寺崎は廊下の奥に向かってストラップを思い切り放った。女の子たちの目が一斉に頭上を横切るストラップを追いかける。
「今だ!」
寺崎は紺野の腕をつかむと、机に飛び乗り窓枠を飛び越えて外に出た。そのまま紺野を引きずって、猛スピードで裏庭に走り出る。人気のない校舎脇を一気に駆け抜け、渡り廊下を飛び越え、それでも速度を緩めない。寺崎に腕をつかまれた紺野は、半ば引きずられるようにして必死にその後をついていく。
小さな池を横切ったところでようやくスピードを緩め、寺崎は後ろを振り返った。ついてくる者の姿は見あたらない。
ここは校庭の東の隅に位置するビオトープ。大きなケヤキやクヌギの木が周囲を取り囲み、側には草原があって、心地よい風が吹いている。
「あー、良かった。ほっとした」
寺崎は上履きのまま、日の当たる草原にごろんと横になった。
「そうですね」
紺野もほほ笑むと、その隣に膝を抱えて座る。
「それにしても、襲撃がない状態でもう三日だな」
「そうですね。そろそろ何かしらあってもおかしくありませんね」
そう言うと紺野は、風に吹き散らされて顔にかかる茶色い髪をかき上げた。さわやかな風が、何とも心地よい。静かで、穏やかな日和だった。
「このまま、何事もなく一日が終わるといいんですが……」
紺野は遠い目をした。
穏やかで平和な日常。彼にとっては最高に幸せな瞬間だった。
寺崎が何も言わないので、紺野は寺崎に目を向けた。草原に寝ころんだ寺崎は、くうくうと穏やかな寝息を立てて眠っている。早起きをがんばっているので、ちょっとした瞬間にすぐに眠くなってしまうのだろう。紺野はくすっと笑うと、自分もその隣に横になった。
真っ青な空に、白い雲が浮かんで、ゆっくりと流れていく。頬をなでる爽やかな風にのって、遠くから生徒たちの明るい声が聞こえてくる。抜けるような青空を切り取るように、時おり鳥が横切っていく。隣には、静かに眠る寺崎。
何からも脅かされず、心穏やかに、ゆったりと時が過ぎていく。これ以上の幸せがあるだろうか。紺野にとっては本当に、最高の幸せだった。こんな幸せを手に入れることができるなどと、少し前は想像もつかなかった。
いつも何かに怯え、不安に苛まれ、自分の過去に追い立てられる。一日たりとも、心が休まる日はなかった。ただ、早く死にたかった。この世から消えてしまいたかった。
紺野は寺崎に目を向けた。相変わらずくうくうと規則的な寝息をたてている。寺崎のおかげで今の自分がある。紺野はしばらくの間、感謝のこもった目でのんきに眠る寺崎を見つめていた。
ふいに不穏な気配が髪の生え際辺りを駆け抜けた気がして、紺野は跳ね起きた。
首を巡らせ、注意深くあたりを見回す。
ここは学校の東の隅。すぐ目の前に、学校と地域の境界である苔むしたブロック塀が見える。先日の騒ぎで壊れた塀は西よりの方なので、この辺りはまだちゃんと塀が残っている。
その塀に、誰かの両手がかけられたのだ。
皺だらけで萎びきった手の甲に、黄色く変色した爪が張り付いた指先。紺野が息を詰めてその手を見ていると、塀をよじ登っているのだろうか、手の間から初日の出のように白髪頭が見えてきた。
それは、八十歳を越えているかと思われる老婆だった。
紺野は眠っている寺崎を守るような位置につくと、突き刺すような視線で老婆を見据える。
老婆はゆっくりと塀をよじ登り、くたびれたスラックスに包まれた右足をその頂上にかけると、ブルブル震える両手を軸に、右足と同様に左足も塀をまたぎ越し、塀の上に腰掛けるような姿勢をとってから、やけに軽々とそこから飛び降りた。着地の瞬間、何かボキリというような軽い音が響いた気がして、紺野は眉をひそめた。
よろけた体勢を立て直すと両手を後ろで組み、皺だらけの口元に引きつったような薄笑いを浮かべながら、老婆は落ちくぼんだ眼窩を覆っているたるみきったまぶたを精いっぱいこじ開けて紺野を見た。
「今、右足の骨が折れた」
老婆が腫れ上がった舌をピチャピチャさせながらとんでもないことを言ってきたので、紺野は息をのんだ。老婆は肩を震わせてくっくっと笑いながら、ゆっくりと足を踏み出した。右足の様子に目をこらすと、確かに膝から下がぶらんとして力ないように見える。初夏の日ざしに照り付けられているにもかかわらず、背筋が凍るような悪寒に耐えながら、紺野は老婆を凝視した。
「さて、どうやって戦うかな?」
老婆は萎びた喉からくっくっと乾いた音を発しながら、紺野の目の前で足を止める。
「この婆さんの脳は、能力発動には耐えられん。体は、ちょっとした衝撃にも弱い。いつもの調子で防戦すれば、ショック死するかもしれんな。わしはいくらでもこの婆さんを動かせるんだが……やっていいか?」
「やめてください」
切羽詰まったような紺野の声に、眠っていた寺崎が目を覚ました。ぼんやりしながら体を起こすと、視界に、なぜだか紺野とにらみ合っている見知らぬ老婆が映りこむ。事態がよく飲み込めていない寺崎は、寝ぼけ眼を擦りながらのんびりとした調子で問いかけた。
「誰だ? 紺野。この婆さん……」
「あの子どもです」
その言葉に一瞬で目が覚めたらしく、寺崎は息を詰めて老婆を見た。老婆はその視線を受け止めつつ、相変わらずくっくっと骨張った肩を震わせて笑い続けている。
「おまえが一切抵抗しないというんなら、能力は使わん」
かたわらに立てかけてあった、整備用のスコップ。老婆はそれを手に取ると、つえのように自分の前に立てて体重を預けた。
「おい、紺野……」
寺崎は戸惑ったように紺野を見やる。紺野は顔を老婆に向けたままで寺崎の手を取り、先ほど老婆が現れた場面からのいきさつを送信してみせた。ものの十秒もたたないうちに事情を飲み込んだ寺崎の顔から、音をたてて血の気が引く。
【能力を使うなと、言ったじゃろ!】
突如、寺崎にも感じ取れるレベルの強烈な送信が脳を突き刺すようにたたきつけられた。同時に、老婆の鼻から鼻血が一筋、たらりと流れ落ちる。そのやけに鮮烈な赤に、紺野と寺崎の視線はクギ付けになった。
「だから言ったじゃろ。おまえらは、能力を使うな。身体的攻撃も、防御もするな。もしすれば、同じことをこの婆にもやらせる。この体がどこまで耐えられるか、見物だがな」
くっくっと笑いながらかすれた声でこう言うと、立ち尽くす紺野に目を向ける。
「来い」
紺野は硬い表情で老婆を凝視している。すると、老婆はにやにやしながらスコップに寄りかからせていた体を起こした。
「来ないなら、わしがこの折れた足でそっちに行くまでよ」
老婆が重いスコップを持ち上げてこちらに歩いてこようとするので、紺野は制止した。
「待ってください。行きます」
「……紺野」
寺崎が不安げに見守る中、紺野は足を踏み出した。
一足一足、草を踏みしめながら考える。あの子どもの意識を遮るシールドを張るにしても、負荷に耐えうる体力がこの老婆になければ、それ自体が重い負担になってしまう。かといっていつものような催眠の解き方では、それをしているうちに何らかの異能を一瞬でも使われれば、それだけで老婆の命にかかわるかも知れない。
「何か思いついたか?」
老婆は目の前で足を止めた紺野に問うと、皺だらけの口元をゆがめ、隙間だらけの前歯を、乾ききって色味のない唇の隙間からのぞかせた。スコップを握りしめると、その重みによろけながら、震える腕を頭上に高々と振り上げる。紺野はハッと身をかがめ、頭を守ろうと腕を出しかけた。
【避けるな!】
こめかみを貫く強烈な送信に、紺野の動きが止まる。次の瞬間、振り下ろされたスコップが、紺野の肩口にたたきつけられた。金属が肉を断ち切る鈍い音が響き、心臓が凍り付くような感覚に襲われた寺崎は、一瞬呼吸すら忘れた。
肩を押さえて座り込んだ紺野の頭を目がけて、今度は左から水平にスコップがとんでくる。固い物同士がぶつかり合う先刻より明瞭で歯切れのよい音とともに、紺野は一メートルほど右に吹っ飛ばされ、そのまま草原に倒れ込んだ。
「死ね」
倒れている紺野に歩み寄ると、老婆は薄笑いを浮かべながら、両手で握りしめたスコップの先端を横倒しになっている紺野の脇腹に勢いよく突き立てた。スコップの先端はカップアイスに突き刺すスプーンのごとく脇腹にめり込み、血飛沫が四方に飛び散る。
寺崎は背筋を往復する戦慄と、こみ上げる吐き気に耐えながら、腹の底から沸き上がる怒りに視界が狭まってくるような気がしていた。
このままでは、百パーセント紺野は殺される。よろけながらスコップを振りかざす、この汚らしい老婆に。排除しなければと思った。方法なんか、何だっていいと思った。操られているだけだろうが、骨が折れようが、そのままショックで死んでしまおうが、そんなことはどうでもいいと思った。
寺崎の脳は自分の足に、あのババアの折れ曲がった背中を蹴り飛ばせと命令する。自分の手に、あの白髪頭をぶっ飛ばせと命令する。だが、なぜだか指令は届かなかった。恐怖で動けなくなっているのだろうか? まるで体の周囲にプラスチックでも流し込まれ、そのまま固められてしまったかのように、固形化した空気に包まれた寺崎の手足は一寸たりとも動かない。
スコップが打ち込まれる度、皮肉を突き破る低い音ともに、液状化したゼリーに勢いよく手を突っ込んだような音が響き、草むらやケヤキの幹に血飛沫と肉片が音を立てて飛び散る。力なく横たわる紺野の体はすでに血まみれの肉塊と化し、スコップを突き立てられる度に条件反射のように手足が跳ね上がるが、その他には自発的な動きはなく、生きているとは到底思えない。寺崎は耐えきれず、わずかに動かせる目を堅くつむり、奥歯を折れんばかりにかみしめた。
ようやく血まみれのスコップから手を離すと、老婆は狭まった気管に空気を送り込み、ゼイゼイと喘鳴の音を響かせながら、目の前にある血肉の塊のそばにかがみ込んだ。意識を確かめるつもりか、向こう向きになっている紺野の頭に、その皺だらけの手を伸ばそうとする。
その時、老婆ははっとたるんだまぶたを押し広げた。
動かないのだ。伸ばそうとしても、思うように手が動かない。慌てて立ちあがろうとするが、折れ曲がった膝は瞬間接着剤でも塗りつけられたかのように、鋭角に折れ曲がったままでびくともしない。
――遮断をかけられた⁉
老婆は自分の背後に、何者かの気配を感じた。だが、もう振り向くことすらかなわない。その何者かは、鋭い視線を老婆の曲がった背に落としながら、静かに口を開いた。
「表層意識の遮断も完了しました。もうこの人を動かしたり、能力を発動させたりすることは不可能です」
誰かとは……紺野だった。
老婆は皺だらけのその目を精一杯見開き、目の前に倒れているはずの紺野を凝視する。だが、そこにあるのは、うずたかく積まれた枯れ葉の山だけだった。
まだわずかに残っている赤い気が、最後のあがきのように老婆の全身からにじみ出る。だが、紺野の体から放出される白い輝きが、赤い気もろとも老婆を包み込んだ。老婆の周囲を取り囲んでいた赤い気の残照が全て吸収され、消滅した瞬間、老婆は白目をむいてゆっくりと草原に横倒しになり、全体重を地面に預けた。
紺野は大きく息をついて額ににじんだ汗を拭うと、目をつむって震えている寺崎の側に歩み寄り、顔をのぞき込んでそっと声をかけた。
「寺崎さん、もう大丈夫です。動けますよ」
その声によほど驚いたのだろう、寺崎は弾かれたように顔を上げると、目の前の紺野の姿に瞳孔全開の勢いで目を見張った。慌ててさっき紺野が倒れていた場所に目を向けたが、それがただの落ち葉の山と気づくと、さらに目ばかりか口まで全開にしてぼうぜんとする。
「え? あれ? ……どうして」
ショックで言語中枢のシナプスが切れたのか、単語を連発して焦りまくる寺崎に、紺野は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。ちょっとだけ催眠をかけさせていただきました。あの子どもに意識を読まれると、気づかれてしまうので」
「……紺野ぉ!」
寺崎はぼうぜんと目の前で揺れる茶色い髪を見つめていたが、突然、泣かんばかりの勢いで紺野に抱きついた。
「よかった、よかったぁ、紺野……」
紺野は困ったように笑いながら、肩口の痛みに少しだけ顔をゆがめた。
紺野は最初の送信の時、寺崎に催眠をかけたのだ。全ての出来事が、紺野の送信した幻覚どおりに見えるように。そして、肩口にスコップの一撃を受けて老婆と接触したあの瞬間、同時に老婆の深層意識に入り込んだ。催眠は概して表層意識のもとで行われる。紺野はあの子どもに気づかれないように、深層意識からゆっくり能力影響を遮断していったのだ。表層意識下で、やつに幻覚を見せながら。
「それより、この人を早く治療しないと……」
紺野はすがりついてくる寺崎の体を離すと、倒れている老婆に目を向ける。早く治療しないと、命に関わるかもしれない。保健室ではたいした治療ができないし、かといって担いで病院に運ぶのも無理がある。どうしたらいいものか考えあぐねていたその時、紺野はふと、神代亨也のことを思い出していた。