5月23日 2
「じゃあ、今日は本番と同じ順番で走ってみます」
教師の声がかかると、各クラスごとに第一走者が準備運動を始めた。
「中村は、また休みか?」
北島がため息まじりにそう言うと、同じクラスの二年生女子が言いにくそうに口を開く。
「最近中村くん、病院に通ってて、朝必ず遅れてくるんです」
それを聞いて、寺崎はぴんときた。あいつ総代たちに抜かれるのが嫌で、さぼってやがんな……。
北島は困ったように自分の足に目を落とした。
「俺が代走できればいいんだが、今、足を痛めちまってるからな」
見ると、右足首に厳重に包帯が巻かれている。練習中にくじいてしまったのだ。
「俺、二回走ってもいいっすよ」
突然の寺崎の言葉に、北島は驚いたように目を丸くした。
「寺崎……でもおまえ、四走だろ。近すぎないか?」
「別にどうってことないっすよ。俺で良ければ走ります」
寺崎はちらっと後ろで準備体操をしている玲璃に目を向ける。ゴールライン三十メートル前からのデッドヒート。自分もあれに参加してみたい気が、寺崎はしていたのだ。
「わかった。取りあえず今日はそれで頼む」
アンカーを任されることになった寺崎は適当にストレッチをしながら、列の後方に並ぶ玲璃を何となく見続けていた。グループの友だちと何やらくすくす笑い合っている。明るい表情だ。先日、紺野から裕子について話を聞かされて以来、以前にも増して表情が明るくなったような気がする。その太陽のような笑顔に、寺崎はまぶしそうに目を細めた。
「それでは、第一走者は用意してください」
コースに、第一走者が並ぶ。相変わらず長袖長ズボンの紺野も、無表情に並んでいる。だが、彼の走りを知っているリレー選のメンバーは、もうその姿を見てやる気がないとは誰も思わないだろう。
「用意……」
号砲一発、一斉にスタートする第一走者。紺野はいつも後方から追い上げてくる。持久力が優れているのだ。第三コーナーを回る頃には決まって先頭を走っている。
第二走者にバトンを渡した紺野が列に戻ると、寺崎が軽く右手を挙げてにっと笑った。紺野も穏やかに笑ってそれに答える。その頃には、二走から三走にバトンが渡り始めていた。寺崎のグループも出流が二位でバトンを受け取って走り出している。
最近は出流もだいぶ速くなり、寺崎がそう目立ったフォローをしなくてもすむようにはなってきた。だが、やはり二人ほど抜かされて四位に後退している。寺崎は出流からバトンを受け取ると、前を行く二人をあっという間に追い抜いた。だが、例のごとくそこで追走を止め、端から見ても余裕の走りで五走にバトンをつないだ。
「余裕だね、寺崎」
三須に声をかけられて、息ひとつ乱さずに寺崎は笑うと、すぐにコースに出る。今日はアンカーなのだ。
と、A組の玲璃が驚いたように寺崎に声をかけた。
「何だ、おまえ。今日はアンカーか?」
寺崎はうなずくと、にやっと笑った。
「代走なんす。俺、総代と走ってみたかったんで。ゴール前、三十メートルからっすよね」
言われて、玲璃も笑顔でうなずいた。
「そうだ。今日は面白くなりそうだな」
一位のクラスが出た後、寺崎はバトンを受け取った。いつも玲璃たちがしているとおり、一位のクラスにぴったりつけて追走していく。やがて玲璃や柴田もバトンを受け取り、寺崎と並んで一位のクラスにぴたりとつけた。
――ダッシュが命だな。
わずか三十メートルのデッドヒート。これを制するには、どれだけダッシュできるかが鍵である。寺崎はラインをにらんだ。あと三メートル、二メートル、一メートル……。
「行くぞ!」
玲璃のかけ声とともに、三人は一瞬で風になった。抜かれた他クラスのアンカーがぼうぜんと前方に目をやったときには、既に三人ともゴールした後だった。
「驚いた。寺崎、おまえ速いな」
いくぶん息を乱しつつ玲璃が感心したように言うと、寺崎も息を乱しながら苦笑まじりに首を振った。
「でも、総代にはかないませんね。何なんすか、あのダッシュは……」
すると柴田が、やはり息を乱しながら肩をすくめて笑う。
「それが、総代が総代たるゆえんなんだよ。俺たちには歯が立たなくて当然……でも、ホントおまえ速かったぞ。マジで俺と同じレベルなのか? ワンランク上でも通りそうだぞ」
すると寺崎は意味ありげににっと笑った。
「俺のおふくろ、足があった頃は国体の選手だったんす。陸上の……そういう血が流れてんですよね、きっと」
寺崎はそう言って、胸いっぱいに朝の空気を吸い込んだ。わずか三十メートルでも全力で走れたことが嬉しくて、気分が良かった。
「あーあ、トラック一周全力で走ってみてえなあ……」
思わずつぶやいた寺崎に、玲璃はいたずらっぽく笑いかける。
「じゃあ今度、夜中にでも走りに来るか? 付き合うぞ」
言われて寺崎は、思わず身を乗り出した。
「真夜中のデートっすか? いいっすよ! ぜひぜひ行きましょう!」
のりのりの寺崎に、玲璃はいくぶん困ったように笑った。
「冗談に決まってるだろ。おまえも冗談通じなくなってきたのか? 紺野みたいだぞ」
その時ホイッスルが鳴り、結果発表となった。寺崎の活躍で、この日初めてB組白は二位に輝いた。
「寺崎」
練習終了後、北島が声をかけてきた。
「何すか? 先輩」
「おまえ、本番でもし中村が休んだら、アンカーやってくれ」
寺崎はちょっと目を見開いたが、すぐにうなずいた。
「いいっすよ、俺でよかったら」
「頼んだぞ」
こうして寺崎は、B組白のアンカーを務めることとなった。