5月23日 1
5月23日(木)
リレー選の練習もいよいよ大詰めを迎え、生徒たちは走り込みやバトンパス、コーナリングの練習に余念がない。
「あーあ、あと二日だな」
走り込みを終えた寺崎が、のびをしながら紺野に話しかけてきた。
「そうですね」
紺野はくすっと笑った。何に対して寺崎がそう言っているのかがよく分かっているからだ。寺崎も、その笑いの意味を悟ったらしい。苦笑しながら肩をすくめてみせた。
「われながらがんばったと思うよ、毎朝の五時起き。今のところ一回も遅刻してねえし。俺、少しは変われたかもしんねえな」
するとそこへ、黒髪を束ねた眼鏡の女の子、村上出流がやってきた。
「寺崎くん、集合だって」
「あ、さんきゅ、いずるちゃん。じゃ紺野、またな」
寺崎と出流は、並んで集合場所に向かった。
☆☆☆
出流は隣を歩く背の高い寺崎を、頬を染めてちらっと見上げた。
――寺崎くん、かっこいい。
クラスの女子がうわさしていたとおり、出流は寺崎目当てでリレー選に手を挙げた。彼女はずっと寺崎に憧れていた。おちゃらけているようでいて正義感が強く、リーダーシップもとれる。女の子や弱いものにはとことん優しい寺崎は、出流にとって最高の王子様だったのだ。
寺崎は恐らく覚えてはいないだろうが、出流は一度、寺崎に助けてもらったことがある。屋上に上がって、理科の実験をしているときだった。出流は一部の女子の反感を買って、孤立している傾向があった。この日も、その女子グループの一人が出流のノートをわざと屋上の給水タンクの上に投げ上げてしまい、出流はどうすることもできず、一人途方に暮れていたのだ。
「あれ? どうかした?」
そんな彼女に声をかけてくれたのが、寺崎だった。出流が訳を話すと、寺崎は自分の荷物を足元に置いて、本当にあっという間に給水タンクの上によじ登り、ノートを取ってきてくれたのだ。
「あ、ありがとう……」
出流が遠慮がちに礼を言うと、寺崎はにっと笑ってこう言った。
「何か困ったことがあったら俺に言いな。必ず何とかしてやっから……なんてったって俺は、級長なんだからな」
男子にそんなことを言われたのは、出流は初めてだった。その日から出流は、寺崎に会うために登校するようになった。軽い不登校気味で休みがちだった彼女が、四月後半からは欠席することなく、毎日登校するようになったのだ。別に面と向かって話をするわけではないが、寺崎の明るい笑顔を見ているだけで、元気がもらえるような気がした。
でも、リレー選を決める時は、まさか自分があんな行動に出られるとは思っていなかった。困っている寺崎を、どうしても助けたかったのだ。今まで元気をもらったお礼がしたかったから……。
「でもさ、いずるちゃんマジで速くなったよなー」
急に寺崎に話しかけられて、出流はどきっとしたように呼吸をを止めたが、遠慮がちに笑いながら、「そうですか……?」とだけ、答えた。
「なったなった。だって昨日の計測んとき、確か十四秒九だったろ? 十七秒台から十四秒台だぜ。そこまで伸びたやつ、他にはいないと思うよ」
出流は恥ずかしそうにほほ笑みながら、首を横に振った。
「まだまだ遅いです……。でも、練習の時、寺崎くんがいつもフォローしてくれて、ほんとに助かってます。必ず順位を戻してくれるから、他の人ににらまれないですむし」
寺崎はいやいやと首を振ると、にっと笑った。
「言ったろ? なんてったって俺は級長だからな。困ってるクラスメートはほっとけないの」
その明るい語り口に、出流は頬を赤くそめながら、嬉しそうにうなずいた。
☆☆☆
「こーんのくーん」
妙な節をつけて後ろから呼ばれ、紺野はどきっとして振り返った。見ると、三須がやけににやにやしながら紺野を手招きしている。
「は、はい」
紺野はどきどきしながら三須の方に歩いて行く。彼は三須が苦手である。感情表現がストレートで、戸惑うことが多いのだ。
と、三須は相変わらず長袖長ズボンの紺野の出で立ちを見て、眉をひそめた。
「ねえ、紺野くん。このクソ暑いのに、まだ長袖? 熱中症になっちゃうよ?」
そう言って袖口をめくろうと手を伸ばすので、紺野は慌てて両手を後ろに回した。
「こ、……この間、電車事故の時についた傷がなかなか治らなくて、隠してるんです」
紺野の腕の包帯は、すでに取れていた。が、傷だらけの腕のいいわけに、先日の事故はかえって好都合だった。これからしばらくはこの言い訳でいこうと、包帯を取るときに寺崎と決めたとおり、三須に答えたのだ。すると三須は感心したようにうなずいたが、すぐに上目遣いに紺野をにらんだ。
「……紺野くんてさ、やっぱあの電車事故、絡んでたんじゃん」
紺野はどきっとしてに三須から目をそらした。三須はその視界に入るように体をずらして、じりじりと接近してくる。
「しかも、渋谷の時も……あたしに思いっ切りウソついたっしょ」
紺野は慌てて頭を下げた。
「すみません、大騒ぎになるのが嫌で……」
と、三須は急にその顔に満タンの笑顔を浮かべると、紺野にぴったりとくっついてきた。
「じゃさ、おわびの印に、今度どっか行こ」
「え?」
紺野は目を丸くして赤くなる。
「渋谷でもどこでもいいから、お茶して、お買い物して、テキトーにお散歩しよ。あ、上南沢でもいいな。あそこ、カワイイお店いっぱいあるから。案内して」
紺野がどぎまぎして返答に困っていると、グラウンドに集合のホイッスルが鳴り響いた。
「……あ、集合です。行かないと」
「もー、紺野くん。ごまかしてる!」
走っていく紺野の後を、三須は慌てて追いかけた。