5月21日 2
この日は何事もなく授業時間が終わり、課外活動の時間となった。
「今日は今のところ、何事もないっすね」
寺崎の言葉にうなずきながらも、玲璃は厳しい表情をしてみせる。
「分からないぞ。特に今日は学校外を歩いている。油断は禁物だ」
寺崎、玲璃、それに飛び入りの紺野を加えた三人は、たくさんのポスターを抱えて駅前の商店街を歩いていた。今日は、町中の店や施設に、体育祭のポスター掲示を頼んでまわっているのだ。ポスターの仕上がりが遅れてしまったので、何としても今日中に全部貼ってもらわなければならなかった。
商工会議所、町の集会所、学童、電気店、酒屋、スーパー、ファミレス……さまざまな施設をまわり、掲示をお願いして頭を下げる。おおかたは快く引き受けてくれるので、四時をまわる頃にはほとんどのポスターを配り終えていた。
「思ったより、早く終わりそうだな」
嬉しそうに玲璃が言うと、寺崎はうなずきながらも、ふうと息をついて額の汗を拭った。この日は快晴で、照りつける日差しが相当にきつい。半袖の腕を刺すように照らす太陽を恨めしそうに見上げながら、寺崎は眼を細めた。
「はあ、暑……。総代、ひと休みしません?」
寺崎の言葉に、玲璃もちらっと腕時計に目をやる。
「そうだな。早く帰ってもどうせ違う仕事をおしつけられるし、休んでくか。……いいか? 紺野」
それまで二人の後ろを黙ってついて歩いていた紺野は、その言葉に顔を上げると、ほほ笑んでうなずいた。
その途端、玲璃の全身をびりっと電流のようなものが駆け抜ける。
――何だろう、これ。
この感覚は、紺野と出会った当初から感じていた。彼と目を合わせたりほほ笑みかけられたりするたびに、何とも言えないこの感覚が全身を駆け抜ける。同じような感覚は神代亨也に対しても覚えるが、紺野の方が身近にいるせいか、頻繁に感じているような気がする。
玲璃は、紺野のことを男として意識しているつもりはない。最近は、どちらかといえば寺崎の方が、一緒にいてどきどきすることが多い。紺野はこういう性格なので、男として意識する場面が少ないのだ。それでも、なぜだか生理反応のようにこの感覚が生ずる。それが一体なぜなのかは、いまだに謎だった。
三人は駅前の小さな喫茶店に入った。水出しコーヒーがうまいと、地元人にはそれなりに人気のある店だ。隅の椅子席に座ると、三人ともお決まりのようにアイスコーヒーを注文した。
「あー、助かった。今日は滅茶苦茶暑いっすからねえ」
冷房の効いた室内で、生き返ったように寺崎は深呼吸した。
「結構がんばったからな。残り、あと何枚だ?」
寺崎は手元のポスターに目を向けて、驚いたようにその目を見はる。
「一枚じゃないすか」
そう言って、ぽんと手をたたいた。
「そうだ、この店に掲示してもらいましょ。そうしたら、全部終わる」
「お、いいかも。寺崎、行ってきてくれるか?」
「いいっすよ、言い出しっぺだし。ちょっと待っててくださいね」
通路側に座っていた寺崎が店主のところにポスターを持って行くと、席には紺野と玲璃、二人きりになった。
静かな店内には他に客の姿もなく、小さく流れるラジオから、流ちょうな英語で何かリズミカルにしゃべっているのが聞こえてくるくらいである。
玲璃はちらっと前の席に座る紺野を見た。
窓際に座り、外の風景に目を向けている。外光に透ける、長いまつ毛と茶色い髪。今日もクラスの女子が紺野のことを何やかんやと言っていたが、こうして見るとそれもうなずける気がした。
と、視線に気がついたのか、紺野が玲璃の方に目を向けた。目があったので、取りあえずにっこりほほ笑みかけてみる。と、紺野も穏やかに笑った。例の感覚が全身を駆け抜けたが、何食わぬ顔で玲璃は口を開いた。
「今日も、大変だったろ」
紺野は何のことか分からないらしく、小首をかしげてみせる。
「三年が、おまえのことを騒いでるから」
紺野はああ、とうなずくと、苦笑いをした。
「うちのクラスでも結構いてな。ほら、私、時々おまえと話してるだろ? いろいろ聞かれるぞ。好きなタイプはどんなだ、とか、付き合ってる相手はいるのか、とか……」
何気なく口に出してから、玲璃ははっとしたように目を見開き、それからおずおずと紺野を見た。紺野の表情に変化はなく、いつも通りの穏やかで優しい雰囲気のままだ。それを確認すると、つばを飲み込んで喉をうるおしてから、玲璃はおもむろに口を開いた。
「なあ紺野。おまえさ、ぶっちゃけ、どんなタイプが好みなんだ?」
その問いに紺野は、いささか困ったような表情を浮かべた。
「以前、クラスの女の子から同じことを聞かれました。難しい質問ですね」
するとそこへ、掲示を頼み終えた寺崎が戻ってきた。
「好みのタイプすか? 答えられないと思いますよ。こいつ、かなり悩んでましたから」
「そう言わないでちょっと考えてくれ。毎日質問されて、私も困ってるんだ」
「困っている」と言われると考えざるをえないらしく、紺野はまじめな表情で首を曲げ曲げ考え始めた。その様子を見て寺崎はおかしそうに吹き出したが、玲璃は真剣な表情で、そんな紺野を食い入るように見つめている。
あまりにも真剣なその様子に、ようやく寺崎も彼女の意図を察したらしい。はっとしたように笑いをおさめると、息を詰めて玲璃を見、それから紺野を見た。三人の目の前によく冷えたアイスコーヒーが運ばれてきたが、しばらくは誰も手をつけず、硬い表情を浮かべながら黙って向かい合っていた。
「タイプと言われても……決まったものは、ないですね」
ずいぶんたってから、ようやく紺野が口を開いた。当たり障りのない返答だった。玲璃は小さく息をつくと、アイスコーヒーに口をつける。かけるべき言葉が見つからず、寺崎ははらはらしながら、そんな二人を見守っていた。
ややあって、玲璃は思い切ったように顔を上げた。
「じゃあ、……今まで付き合ったやつって、どんな人だった?」
かなり核心に近いその質問に、寺崎はごくりと唾を飲み込んだ。自分も聞いてみようと思いながら、どうしても聞けなかった質問だ。話の流れからもそんなに無理はない。ただ、それに対して紺野がどういう反応をするか……寺崎は息を詰めて紺野の返答を待った。
すると、いくぶん困ったようなほほ笑みとともに、紺野はなんでもない調子でこう返してきた。
「どんな、と言われても……どう言ったらいいのか難しいですね」
さりげないかわし方に三十三歳という彼の実年齢を感じつつ、玲璃は肩を落とした。これ以上、質問を続けられそうにない。かなり勇気を出して核心に近い質問をぶつけたのに、彼女が欲していたような回答は得られなかった。
――いっそのこと、はっきり聞いてしまおうか。
目線を上げて、紺野の表情をうかがい見る。特に動揺している様子もなく、いつも通りの和やかで穏やかな彼だ。聞いて聞けないことはなさそうだ。案外すんなりと教えてくれるかもしれない。
――裕子って、どんな人だった?
のど元まで出かかったその言葉が、すんでの所で止まる。
――だめだ。聞けない。せっかくこんなに穏やかな紺野の心を引っかき回すようなマネは、できない。
いざというときに思い切れない自分の弱さに情けない思いを抱きつつ、問いかけを諦めた玲璃が、深いため息をついた時だった。
ゆっくりとアイスコーヒーをかき回していた紺野の手が、ぴたりと止まった。最初は驚いたように目を見開いていたが、やがて小さなほほ笑みをその頬に浮かべると、うつむいている玲璃を優しく見つめた。
「よく似ていましたよ、あなたに」
玲璃は息を飲むと、弾かれたように上げて紺野を見た。紺野は、アイスコーヒーの表面に目線を落とすと、声を殺してくすくす笑っている。
「紺野、もしかして私の心の中……読んだのか?」
紺野は笑いながら小さく首を横に振る。
「魁然さんも、送信の潜在能力が高いんでしょうね。勝手に流れ込んできましたよ。別に意識も開いていなかったのに」
そう言って、またくすくすと笑い始める紺野を、玲璃はあっけにとられたように眺めやった。
寺崎もなにが起きたのかを理解したらしく、緊張をにじませながら息を詰めて二人を見ている。
「すみません。今のシチュエーション、何だか懐かしくて」
紺野は笑いをおさめると、穏やかな表情で玲璃を見た。
「何からお話すればよろしいですか?」
玲璃は口ごもった。本当に聞いていいのだろうか? 見たところ、紺野に動揺している様子はない。いつも通りの落ち着いていて穏やかな彼だ。玲璃は意を決したように口を開いた。
「私は、自分の母親のことは名前しか知らない」
玲璃はそう言うと、切なげな表情を浮かべた。
「だから、ほんとうに、何でも構わないんだ。私の母である裕子という人が、おまえにとってどんな存在だったのか、そんなことでも何でもいい。ただ……知りたいんだ」
グラスの表面についた水滴を見つめながら玲璃の言葉を黙って聞いていた紺野だったが、その言葉に少しだけ困ったような表情を浮かべた。
「いきなり難しい質問ですね」
黒い海に浮かぶ氷をストローの先でもてあそびながら、紺野は深く考え込んでいる様子だったが、ややあって、ぽつりと口を開いた。
「……全て、でしたね」
寺崎も玲璃も、意外な気がして戸惑いを覚えた。この穏やかで優しい男には、およそ似つかわしくない言葉だったからだ。
紺野はアイスコーヒーの中で揺れる氷ではなく、どこか遠くを見つめながら、静かに言葉を続けた。
「僕はあの頃、本当にどうしようもない人間でした。もちろん今もどうしようもないんですが、あの頃はそれに輪をかけてひどかった」
そう言うと、さげすむような笑みを口の端に浮かべる。
「自分の能力が制御できなくて、しょっちゅう出しては気味悪がられていましてね。それを、僕は他人のせいにばかりしていた。本当は、制御できない自分が悪いのに、気味悪がるのは当然なのに。……自己中心的だったんです。自分以外のせいにして、いつか見返してやろうなんて、生意気なことばかり考えていました」
玲璃も寺崎も、ただ黙って紺野の言葉を聞いている。手をつけていないアイスコーヒーの氷が、からんと小さな音をたてて揺れた。
「そんな人間なので、当然誰からも相手にされなくて、孤立していました。そんな僕に唯一話しかけてくれたのが、裕子でした」
紺野はアイスコーヒーから目線を上げて、玲璃を見た。そのまなざしに、玲璃はなぜだかいつもと違う雰囲気を感じて、ドキッとした。
「本当に、よく似ていますよ。初めて会ったときはびっくりしました。あとであなたが裕子の娘だったと知って、納得したんですけれど」
紺野はそう言うと、再び目線を落とした。
「ただ、裕子の方が、今考えると影がありました。いろいろあったんだと思います。でも、当時の僕は、自分のことに精一杯で、彼女のことを思いやることができなかった。それができていればもしかしたら、あんなことにはならなかったのかもしれない」
そこまで言うと、紺野は口を閉じた。うつむいて、何かに耐えているように目を閉じる。しばらくそのままで動かなかったが、やがて顔を上げると、玲璃をまっすぐに見つめた。
「魁然さん」
「……何だ?」
訳もなく気圧されてごくりとつばを飲み込んだ玲璃に、紺野は優しい、でもどこか悲しげな表情を浮かべながら、静かにこう告げた。
「裕子はたぶん、あなたのことを一番大切に思っていたんだと思いますよ」
玲璃は大きく目を見開き、瞬ぎもせず紺野を見つめた。
「裕子が僕にあなたのことを話したのは、一度だけです。自分は子どもを産んだ、そしてその子には、産んだその時から会っていないと……そう言って、泣いていました」
玲璃は言うべき言葉が見つからなかった。ただ黙って、紺野の口元をまじろぎもせず見つめていた。
「裕子がなぜ僕に近づいたのか……それは多分、愛情とか、そういったたぐいのものではなかったでしょう。彼女は自分と、自分の子であるあなたを引き離した組織に報いたい、ただその一心で僕に近づいたんだろうと思っています。それほどまでに、裕子はあなたと一緒にいたかったんです。それほどまでに、あなたと離れたことがつらかったんです」
紺野は目線を落とした。その口元が微かに震える。
「だから、あんな恐ろしい事件を起こした。自分の命と引き替えに」
玲璃は言葉を失っていた。ただ黙って、下を向いている紺野の手の辺りを見つめていた。ややあって、思い出したようにアイスコーヒーのグラスを手にしてみる。と、浮かんでいる氷が涼しい音を響かせながらグラスと触れ合った。自分の手が震えていることに、それで初めて気がついた。
「僕の責任なんです」
うつむいたままで、紺野はぽつりと言った。
「自分のことばかり考えて、裕子の気持ちをくみ取るどころか、欲求のままに彼女に手を出した……。あの結果を引き起こした原因は、僕の未熟さにあるんです。だから、裕子に責任はありません」
息を詰めて様子を見守っていた寺崎は、ちらっと玲璃の顔色をうかがった。玲璃はさっきからグラスを右手に持ったまま、コーヒーに口をつけるでもなく動きを止めている。ただ、グラスに浮かんでいる氷だけが、涼しい音をたて揺れ続けている。玲璃の心情を思うと、寺崎は居たたまれないような思いに胸苦しささえ感じた。
と、玲璃は突然、ふっきったように顔を上げた。
「ありがとう、紺野」
そう言うと、泣き顔のような笑顔を作ってみせる。
紺野も、そして寺崎も、彼女に何と声をかけていいかわからなかった。玲璃は、戸惑ったような表情を浮かべている紺野に向かい、頭を下げるような格好でその長いまつ毛を伏せた。
「私は今、すごく嬉しいんだ。私の母が、私のことをそれほどまでに思っていてくれたって知って……本当に、不謹慎かも知れないが……嬉しいんだ」
語尾が震え、瞬きとともにこぼれ落ちた滴が、テーブルに丸い水玉模様を作る。
「私は、母というものがどういうものなのか、やっぱりまだ、よく分からない。でも、分からないけど、きっと母は、私のことをすごく大切に思ってくれていたんだ。それが分かっただけで、ものすごく、……救われた」
玲璃はこみ上げてくる嗚咽に言葉を奪われて口をつぐんだ。
紺野も、何も言わなかった。
うつむいている玲璃の顔の下に、次々に落ちてはその数を増やしていく水玉模様を見つめながら、寺崎も何も言えなかった。ただ黙って、氷の溶けたアイスコーヒーの黒光りする表面を見つめていた。
☆☆☆
結局この日は、平穏無事に一日が過ぎた。
排ガスの充満する高速道路の高架下を、ランニングの寺崎と、自転車の紺野が、いつものごとく軽やかに走り抜ける。
比較的スムーズに車列が流れていく車道を横目に走っていると、目の前の信号が点滅を始めた。少し先を走っていた寺崎は、そこで足を止めた。すぐに後ろに、紺野の自転車のブレーキ音が響く。
「なあ、紺野」
「はい?」
寺崎は背後の紺野に目線を流すと、小さくほほ笑みかけた。
「おまえってさ、……ずいぶん変わったんだな」
紺野は、穏やかな表情で小首をかしげる。
「そうなんでしょうか」
「だってさ、今のおまえは……どうしようもなくなんか、ないもんな」
信号が青に変わり音楽が流れ始めると、寺崎は走り出さず、歩き始めた。紺野もそれにならって自転車を降り、押して歩き始める。
「俺はおまえのこと、すげえと思ってる。異能のこととかじゃねえぞ。ほら、おまえって走るのは速えし、勉強もできるだろ。おまけに中一から自立してて、家事もばっちりできて……そんなやつ、なかなかいねえよ」
そう言うとまじめな表情になって、隣を歩く紺野の顔を見た。
「でも一番すげえと思ったのは、今日、あの話を総代にしてくれたことだ。総代、マジで嬉しかったと思う。俺からも礼を言うよ。ありがとう、紺野」
紺野は笑って首を振ると、遠い目をした。
「もう少し早く気づいてあげればよかったですね……申し訳なかった。僕は、親というものがどういう存在なのかよく分からないので、魁然さんの気持ちを察してあげることができなかった」
その言葉に、寺崎はハッと目を見開いたが、紺野はやれやれとでもいいたげに肩をすくめて、苦笑めいた笑みを浮かべた。
「やっぱり、まだまだですね」
そう言うと再び自転車にまたがり、ペダルを踏み込んだ。徐々にスピードを上げて、寺崎から遠ざかっていく。
だが、寺崎は走り出さなかった。それどころか歩みすら止めて、じっと足元のアスファルトを見つめながら立ち尽くしていた。
――どうしてあいつばっかり、こんな目にあってきたんだろう。
血が出るほどきつく唇をかむ。なんで世の中、こんなに不公平なんだろう。付き合えば付き合うほど、紺野という人間の人となりを知れば知るほど、その理不尽な運命の仕打ちに、寺崎は胸が張り裂けるような思いがしていた。
紺野は言っていた。裕子は自分に愛情で近づいたわけではないと。だが恐らく、紺野自身には愛情があったに違いない。孤独な自分が、唯一心を開いた女。その女と一つになりたいと思うのに、何ら不思議はない。男としては当然のことだと思う。だがその結果、愛する人は無残な死を遂げ、恐るべき化け物が生み出された……。
「……おまえのせいじゃねえ」
震える声でつぶやいた寺崎に、行き過ぎるネクタイ姿の会社員がいぶかしげな目線を送る。
「絶対に、おまえのせいじゃねえからな!」
寺崎は、喉が張り裂けるほどの大声で叫んだ。通りを行き交う車のエンジン音が、その叫びをかき消した。