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輪廻  作者: 代田さん
第二章 友達
110/203

5月21日 1

 5月21日(火)


 朝五時。居間から、線香の香しい煙が漂ってくる。

 身支度を調えた紺野が朝一番にすることは、寺崎の父、寺崎行紘の位牌に水を供え、線香を手向けることである。その後紺野はいつも五分くらい、目を閉じてじっと手を合わせている。紺野が寺崎家に来た最初の日から、それは変わらぬ日課となっている。

 この日、珍しく早く起きてきた寺崎は、その様子を初めて目にしたのだった。

 じっと目を閉じ、軽くうつむいた姿勢で静かに手を合わせている紺野。このところ目に見えて明るくなってきているが、心の中には厳然とあの事件が息づいている。その後ろ姿を見ながら、紺野の抱えているものの重さに改めて気づかされる思いのする寺崎だった。

 寺崎は何を思ったのか、無言で紺野の隣に座った。気配に気づいて、紺野が閉じていた目を開ける。


「……寺崎さん?」


「おはよ、紺野」


 そう言うと自分も目を閉じ、静かに手を合わせる。


「俺も混ぜてくれ」


 紺野は驚いたようだったが、すぐに優しい表情になると、


「はい」


うなずいて、再び自分も目を閉じた。

 身支度を調え、朝食の支度をしようと台所に入ったみどりは、仏壇の前で静かに手を合わせる二人に気付き、車椅子の車輪を回す手を止めた。


「あら、紘まで。珍しい」


 そうつぶやいてくすっと笑うと、朝食の準備をするために台所に入っていった。



☆☆☆



 家を出る前にする紺野のもう一つの日課は、みどりにシールドをかけることである。

 車椅子の前にひざまずき、みどりの手を取って集中する。時間にして五分程度。その間中、みどりは目を閉じてうつむいている紺野をじっと見つめている。

 見つめながら、もうほとんどわだかまりもなく、彼を許している自分を感じている。それどころかまるで本当の息子のように、彼を愛おしく、大切に思う自分も感じている。

 いつからこんな気持ちになれたのだろう。彼に出会う前はいつも心の片隅に、あの事件の犯人に対するどす黒い恨みを抱え、暗い記憶に苛まれる自分がいた。だが、紺野に出会ってから、そんな気持ちが不思議と薄らいでいるのを感じていた。もちろん、あの日の記憶は消えることはない。ただ、それを過去のものとして、自分の中で区切りをつけることができたような気がするのだ。

 それは図らずも紺野自身の、当事者としての苦しみを目の当たりにしたせいかもしれない。

 紺野が寺崎家に来た最初の夜、みどりは苦しそうな声に気づいて夜中に目を覚ました。あまりに苦しそうなので、車椅子に乗って様子を見に行ったのだ。

 紺野の部屋の扉を開けてそっと中をのぞくと、紺野がうなされていた。彼はうなされながら涙を流し、小さな声で繰り返しこうつぶやいていたのだ。


「許してください……許してください」


 紺野は面と向かっては、一言もこの言葉を発していない。恐らく、そんなことは不可能だと分かっているのだろう。だが、頭では分かっていても、許されなくていいなどと思っている人間はいない。紺野も、許されたいのだ。あの過去から切り離され、自由になりたいのだ。だが、それは不可能なことも重々承知している。その思いが、夢の中で彼を苛むのだ。

 みどりはその夜、人知れず涙を流し続けた。いったい何のための涙なのかもよく分からなかったが、なぜか止まらなかった。

 それ以来かどうかは分からないが、気がつくと紺野がかわいくて仕方がない自分がいた。いつか紺野自身に言ったとおり、まるであの事件の時、死んでしまったあの子が来てくれたかのように。

 と、紺野が顔を上げた。優しい表情で、こう言う。


「お待たせしました。これで大丈夫です」


 その言葉に、みどりもにっこりとほほ笑み返す。


「いつもありがとう、紺野さん」

  


☆☆☆



「おっはよーございまーす、総代!」


 朝っぱらからテンション高めなあいさつに、玲璃は振り返った。見ると、寺崎がぶんぶん両手を振り回しながら笑顔満開でにこにこしている。


「まったく、相変わらず元気なやつだ」


 苦笑まじりに手を振り返しながら玲璃がつぶやくと、あとから紺野もやって来た。玲璃に気がついて、無言で小さく頭を下げる。寺崎とはあまりにも対照的なその様子に、先ほどとは全く違った意味で苦笑しつつ玲璃は手を振り返した。


――紺野、か。


 玲璃はおととい、電車の中で寺崎に話したことを思い返していた。あれ以来、何となく意識して見てしまっているのだ。紺野のことを。

 自分の母親である裕子と呼ばれる女性。彼女がどんな女性だったのか、玲璃が知っていることは非常に少ない。ただ、一つはっきりしているのは、裕子という女性に紺野が惹かれ、愛し合った事実があるということだ。

 再び紺野に目を向ける。準備運動の動きに合わせて、さらさらの茶色い髪が揺れている。落ち着いていて物静かで、ちょっと見には何を考えているか分からない。概して穏やかで、他人に対しては本当に優しい。一方で、実質三十三歳のわりに妙にかわいらしいところがあったり、かと思うと急に実年齢相当に大人びて見えたり、本当に不思議な人物である。

 だが、紺野という人物をいくら観察してみても、裕子という女性と高校一年にして関係を持ち、子をなして、あのような恐ろしい結末に至る、……そんな事件を引き起こす要素が、片りんすら感じ取れないのだ。だとしたら、裕子という人物の方に大きな要素があったということだろうか。紺野は、裕子という人物のどんなところにそれほど強く惹かれたのだろう。考えれば考えるほど、裕子という人物のことを知りたい欲求が頭をもたげてくる。

 一方で、それを口にしてはならないということも、分かりすぎるほど分かっている。紺野はようやく事件を過去のものとして、心穏やかに日々を過ごすことができるようになってきたのだ。利己的な欲求を満たすために紺野の過去を掘り返し、穏やかな日常を取り上げていいはずがないことも、玲璃は重々承知していた。


「集合!」


 集合のホイッスルが鳴り響く。その音に玲璃ははっとわれに返ると、慌てて校庭の真ん中へ駆けていった。

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