5月20日 3
玲璃は、校舎の外周を巡る細い路地に追い詰められていた。
ここは昼間でも人通りがなく、相当な樹齢のケヤキの木が頭上を鬱蒼と覆い尽くしている。そんな薄暗い路地に立つ三人の野球部員たちは、手足にまとわりつくヤブ蚊に一切頓着する様子もなく、校舎を取り囲むブロック塀に、まるではりつけにでもされているかのような姿勢で動けずにいる玲璃を取り囲み、厭らしいワクワク感に満ちた笑顔を浮かべている。
玲璃は満身の力を込めて手足を動かそうとする。だが玲璃の力をもってしても、まるで外壁に縫いつけられでもしてしまったかのように、手足は一寸たりとも動かない。相当に強力な能力発動だ。野球部員たちは鬼子に付与された能力で、三人で一斉に玲璃を壁に押さえつけているのだ。一人ならまだしも三人同時にかかられては、さすがの玲璃もはね返しようがなかった。
そのうちの一人が、動けない玲璃に歩み寄ってきた。ニヤニヤしながら近づいてきたその男を、玲璃はわずかに動かせる目だけで鋭く威嚇する。だが、反抗的な玲璃の目つきにかえって征服欲を刺激されたのか、男は動けない玲璃の頬から顎を嫌らしい手つきでなで下ろし、制服のブラウスをふんわりと押し上げている緩やかな起伏をなぞるようになで回し始めた。
「や、何を……」
必死で声を上げようとするが、声帯の運動も制限されているらしく、小さくかすれた声しか出ない。動くこともできず、叫び声を上げることもできない玲璃の胸の感触を十分に堪能してから、男は節くれ立った両手の指をブラウスの合わせにかけると、左右に思い切り引きちぎった。
意外なほど豊かな乳房をおおう、これまた意外なほど可愛らしいデザインの下着が、遠慮会釈もなく外気にさらされる。
【汚してやる】
その膨らみに吸い寄せられるように、残りの野球部員達もニヤニヤしながら近づいて来る。背筋を駆け上がる悪寒にまばたきも呼吸も停止しながら、玲璃がカラカラに乾いた喉にやっとのことで唾液を送り込んだ、その時だった。
「……てめえら」
はちきれんばかりの怒気に震える、地をはうがごとき低い声。ハッとして振り返った野球部員たちの視界に、逆光に縁どられた黒い人影が映り込む。
無我夢中で駆けつけたのだろう、珍しく肩で息をしているその男――寺崎は、震える拳を握りしめながら、血走った目で野球部員達をにらみ据えた。
「絶っっっ対に、許さねえ」
野球部員たちは、慌ててシールドを強化した。三人分の赤い気が、揺るぎない壁となって彼らの周囲を取り囲む。寺崎が普通の状態なら突破できないであろうレベルにまで、エネルギー密度が急激に上昇する。
だが、寺崎は普通の状態ではなかった。
「うおおおおおおお!」
怒気をはらんだ雄たけびとともに地面を蹴った寺崎は、そびえ立つシールドを弾丸のように突き破り、一瞬で間合いに詰め寄った。野球部員たちがぎょっとする間もなく、一人を殴り飛ばし、一人を蹴りあげ、一人をたたきのめして、あっという間に玲璃のもとに駆けよった。
「総代! すんません! 一人にしたばっかりに……」
今にも泣き出しそうな表情ですがり付く寺崎に、玲璃は弱々しく笑いかけた。
「大丈夫だ、おまえが来てくれたから……」
その言葉にさらに泣きそうになりながら、寺崎は玲璃の腕をつかんでブロック塀から引きはがそうと力いっぱい踏ん張る。だが、寺崎の全力をもってしても、玲璃の体はぴくりとも動かない。
「何だ、これ……畜生!」
背後に目をやると、先ほど寺崎に殴り飛ばされた三人が、こちらに近づいてくるのが見える。防壁にパワーを削がれ、さすがに気絶させるところまではいかなかったようだ。寺崎は玲璃を背後にかばうような格好で両手を広げ、三人をにらみ据えた。
「大丈夫です、総代。総代は、俺が守ります」
「寺崎……」
玲璃はその言葉に胸がいっぱいになって、なんだか涙が出そうになった。
【下っ端が】
悪意に満ちた送信が、脳にザクザクと突き刺さる。めまいと悪心に耐えながらも、寺崎は野球部員たちを真っすぐに見据えて目をそらさない。
【おまえに何ができると言うんだ】
赤い気は見る間にその密度を増し、渦巻きながら集積を始める。
寺崎は息を詰めた。連中の言う通り、高度な異能を発動されれば寺崎には対処のしようがない。赤い気は緩やかならせんを描きながら、彼らの眼前に集積していく。稲妻のようなひらめきを放ちながら、まるで火花を散らす寸前の線香花火のように、じりじりと震えながら丸く、小さくまとまっていく。
【死ね!】
こめかみを射貫くような送信と同時に、三人はその弾を一気に放った。
かばうように玲璃を抱きかかえた寺崎の背中に、高周波の電界が襲いかかる。周囲にある物質の温度が瞬時に数千度にまでに上昇し、高温により生じた局地的な上昇気流が、ケヤキの幹を折れんばかりにしならせる。その場に居合わせた虫や小鳥の体液も一瞬で沸騰し、見る間に炭化する。
この攻撃に、体の盾など何の意味もないかもしれない。それでも寺崎は、玲璃を包みこむように抱きかかえ続けた。玲璃さえ無事であれば、自分などどうなってもよかった。寺崎の体温と鼓動を感じながら、玲璃も息を殺して目をつむる。
潮が引くように鳴動が収まり、吹きすさぶ風も静まって、空気が再び足元に沈殿し始める。
玲璃は恐る恐る閉じていた目を開いた。自分と寺崎の無事にホッとすると同時に、先ほどまで壁にはりつけられて微動だにしなかった腕が自由に動くことに気づく。
寺崎も目を開き、玲璃の無事を確認して安堵のため息をついたが、すぐに驚愕の表情で固まった。玲璃もおずおずと自分の背後に目を向けて、あぜんとする。
数千度にまで上昇したのだろう、玲璃の体を固定していたブロック塀が一部、見る影もなく融解し、崩れ落ちていた。玲璃が動けるようになったのは、能力発動の基盤となって体を固定していた塀が消滅したためだったのだ。コンクリートが融解するほどの凄まじい高温が発生していたはずだが、寺崎も玲璃も、全く何の影響もなく無傷だ。
寺崎の肩越しに、野球部員と自分たちの間に立つ茶色い髪の男の姿が見えた。
「すみませんでした、遅くなって。おケガは……」
男――紺野は言いながら背後に目線をやり、玲璃のぼろぼろの姿を見て息をのんだようだった。二人の無事を確認すると、つらそうに再び前を向く。
玲璃の体を抑えつけていた能力発動を解除するのに、紺野は敵の電磁波攻撃を利用したのだ。二人の肉体に影響のないように、彼らの体から薄皮一枚を隔てた位置に強固な防壁を張り、背後の壁にギリギリのラインで電磁波を通す……高度なコントロール技術なくしては不可能な技である。
「逃げてください。ここは、僕が引き受けます」
紺野が発したこの言葉に、寺崎は一瞬、素直に従うのをためらった。自分たちがこの場から立ち去れば、また紺野はやられてしまうのではないか、そんな予感がふっと頭を過ぎったからだ。だが、この場に居続けて玲璃を危険にさらすわけにもいかない。寺崎は、玲璃の手を引いてその場を離れようとした。
だが、引こうとした玲璃の手は、はっきりとした抵抗の意をもって引き戻された。
「総代?」
寺崎が戸惑ったように声をかけるも、玲璃は紺野の後ろ姿に目を向けながら、決然と首を横に振る。
「すまん、寺崎。私は、ここに残る」
寺崎は反論しようとしたが、決意に満ちたその横顔に、言いかけた抗議の言葉が喉の奥に引っ込む。
「紺野を、一人にしたくない」
そう言って自分にちらりと目線を流した玲璃に、寺崎も覚悟を決めると、真剣な表情でうなずき返した。
「分かりました。総代は俺が、絶対に守ります」
「どうしたんですか? 寺崎さん、早く……」
いつまでも立ち去る気配のない二人にしびれを切らしたのか、紺野が焦った様子で振り返る。彼は二人が安全に逃げられるよう、逃げ道に防壁を立てて待っていたのだ。寺崎は振り返った紺野に困ったような笑顔を投げると、軽く右手を挙げた。
「悪い、紺野。俺たち、ここに残るわ」
紺野はあっけにとられたように固まった。
「できるだけじゃまにならねえようにすっからさ。悪いけど、よろしくな」
しばらくの間、紺野は後ろを振り返った姿勢のままで凍り付いていたが、寺崎たちの意図を読んだのだろう。ややあって、何とも言えない表情を浮かべると、意を決したように顔を上げ、再び寺崎に目線を合わせてうなずき返した。
「わかりました。お二人は、絶対にお守りします」
そう言うと野球部員たちに向き直り、その顔を真っすぐに見据える。
【俺たちを、どうする気?】
野球部員たちは腕組みをして、にやにや笑いながら紺野を見ている。やけに余裕の態度だ。
【俺たち、人間だぜ?】
【そうそう、おまえの苦手な、人間】
【俺たちを、傷つけんの?】
【もしかして、また、殺す気?】
陽動のつもりか、ゆがんだ笑みとともに、次々に茶化すような送信を送りつけてくる。
それを傍受しながら、寺崎と玲璃は気が気ではなかった。紺野の精神状態が不安定になれば、能力発動に影響が出かねないからだ。たまらず、寺崎は紺野の背中に向かって声を張り上げる。
「気にすんな、紺野! そいつら、総代にひどいことしやがったんだ。少しくらい痛い目にあわせたって、バチはあたんねえぞ!」
すると紺野は、野球部員たちの方に目を向けたまま、ぽつりと口を開いた。
「さっき、僕が自分のことをもう少し何とかして、寺崎さんの手をわずらわせなければ、魁然さんはそんな目にあわずにすんだかもしれません」
「……紺野?」
「そして今も、心配していただいて……本当に、自分が情けないです」
そう言うと、紺野は決然と顔を上げた。これまで見せたことのないような強い目線で、にやける野球部員を見据える。
野球部員達は、異変を察したのかニヤニヤ笑いを収めると、互いに顔を見合わせながら間合いを計りはじめた。彼らの足元に渦巻く赤い気が、徐々にその濃度を増しながら集積していく。
「僕はもう少し、寺崎さんを見習います」
紺野がそうつぶやいた、直後。
集積した気が、まるで生き物のように紺野に襲いかかった。先ほどよりさらに密度の高い高周波の電界が、大蛇のように紺野を飲み込む。寺崎と玲璃は、思わず息を詰めて身を固くした。
次の瞬間。二人の視界が、今度はまぶしいほどの白一色に染まった。
目映い光を放つ白い気が、赤い気を一瞬にして弾き返したのだ。白い気にあてられた赤い気は火花のようなひらめきとともに吸収され、たちまちのうちにエネルギーを失って消滅していく。
いまいましそうに顔をゆがめ、次弾を放とうと意識を集中する野球部員達たちに向かって、紺野は右手をまっすぐに差し上げた。
「お返しします」
紺野がそうつぶやいた、刹那。差し上げた右手から放出されたエネルギー波が、野球部員たち全員を一瞬で包み込んだ。
「……!」
フラッシュが何千個も一気にさく裂したような強烈な光に、寺崎も玲璃も目を開けていることができず、顔を背けて目をつむる。
閉じてもなお鋭い輝きが突き刺さってくるまぶたの向こう側が、徐々に明るさを失っていく。
恐る恐る目を開けた寺崎の視界に、先ほどと同じ位置で向こう向きに立っている紺野の背中が映り込んだ。そのさらに向こうには野球部員たちが三人、北と南と東にそれぞれ頭を向けて倒れていた。すっかり気を失っているのか、目と口を半開きにして、全員が人文字できれいに「大」を描いている。
「紺野!」
紺野は、駆けよってきた寺崎の方を振り返ると、おずおずと口を開いた。
「こんな感じで……どうですか?」
寺崎はぷっと吹き出すと、紺野の背中を右手でたたいた。
「ばっちりだよ、ばっちり!」
そう言いつつ、いくぶん怖い目で倒れている野球部員たちをにらんでみせる。
「ま、俺だったらあともう二,三発お見舞いして……」
たたかれた勢いでよろけた体勢を立て直しながら、紺野は慌てたように口をはさんだ。
「もう、十分だと思います。催眠を非接触状態で強制的に解除したので、かなりの頭痛や身体反応を伴ったはずですから……」
その言葉に、寺崎は大笑いし出した。玲璃も、その後ろでくすくす笑っている。
「やっぱ、おまえ、まだまだだな」
「まだまだ、ですか……」
がっかりしたように肩を落とす紺野を見て、寺崎は苦笑した。
「けど、そこがおまえのいいところなんだって。みんな同じ必要はねえの。みんなが俺みたいだったら、世の中がちゃがちゃしてうるさくてしょうがねえ。俺がいて、おまえがいて、それでちょうどいいんだから」
そう言いつつも、いたずらっぽく笑いながら付け加える。
「ただ、こういうことに関しては今日ぐらいがちょうどいいかもな。おまえ、これからはいつもこんな感じでいけ。いいな」
紺野は遠慮がちにうなずくと、まだいくぶん白い輝きが残っている自分の右手に目を落とした。と、その手に忽然と、ジャージの上着が出現する。
「魁然さん。これ、よかったら……」
胸がはだけている玲璃の方を見ないようにしながら、紺野は上着を差し出した。
「あ、ありがとう、紺野」
玲璃は慌ててジャージに袖を通してファスナーを閉めると、安心したようににっこり笑った。
「二人とも本当にありがとう。助かったよ」
そう言ってから、先ほどの出来事を思い出したのか、表情を改めてつぶやく。
「……でも、危なかったな」
「そうっすね、お互いに」
玲璃の言葉に、寺崎も深々とうなずいて同意を示した。
「鬼子はどうやら、俺たちの特性をつかみ始めているようっすね。紺野は人間に弱い。俺たちは異能に弱い。だから、それぞれに対抗できる形で催眠をかけてきている」
紺野は神妙な面持ちで目線を落とした。
「すみません。僕がもう少ししっかりしていれば……」
「おまえのせいばかりじゃねえよ」
寺崎は首を横に振ってため息をつく。
「俺だって、気持ち的には総代を守りきりてえけど、はっきり言って一人じゃ無理だ。さっきだっておまえが来てくれなきゃ最悪死んでたし、死ななくとも総代に大ケガさせちまってたと思う」
すると玲璃は、暗い雰囲気を変えようとでも思ったのか、気を取り直したように笑顔を見せた。
「でも、おまえら二人集まれば、無敵だな」
寺崎もその言葉に少しだけ笑ってみせたが、すぐに考えこむような表情を浮かべた。
「やっぱ、バラバラにならねえほうがいいかもな……」
つぶやくようなその言葉に、玲璃もわが意を得たりと大きくうなずく。
「寺崎の言うとおりだ。私も、一人になりたくない」
寺崎は自分と紺野のことを言ったつもりだったので、目を丸くして玲璃を見てから、言いにくそうに口を開いた。
「っつっても、総代を危険な目にあわせるわけには……」
「でも、残ってたって危険な目にあっただろ」
つい先ほど、玲璃を一人で残したことで起きてしまった結果を思い返し、寺崎は二の句が継げずに黙り込んだ。
「最初から三人で一緒にいれば、何の問題もない。これからは、できるだけ一緒にいられる方法を考えよう。今は幸い、体育祭に向けてがちゃがちゃ作業をしているから……とりあえず、紺野」
「は、はい」
慌てて顔を上げた紺野に、玲璃はにっこり笑いかけた。
「おまえ、何気なくわれわれの作業に混じってろ」
「え?」
「私と寺崎はなるべく屋外の作業にかかるようにするから、おまえもそれを一緒に手伝え。作業もはかどるし、一石二鳥だ。いいな、紺野」
こうも明るくさらりと言われては、紺野も反論のしようがないのだろう。戸惑いをにじませながらもうなずいた。
「……はい。分かりました」
寺崎は苦笑まじりに肩をすくめると、わざとらしくため息をついてみせる。
「あーあ、せっかく総代と二人きりだったのになあ、残念」
「すみません。なるべく邪魔にならないようにします」
お約束のようにまじめに受け取って頭を下げるので、寺崎も玲璃も同時に吹き出してしまった。
「いつもながら冗談通じねえなあ、おまえ。ほんと面白え」
「ほんとほんと。私、紺野のそういうところ、大好きだ」
何気ないその言葉に、寺崎は急に真顔になって玲璃の顔をのぞき込んだ。
「総代、俺は?」
「え?」
玲璃は、その真っすぐな視線にどきっとして黙り込む。
「俺のことも、大好き?」
「あ、ああ。もちろん」
玲璃がどぎまぎしつつも小さくうなずいてみせると、寺崎は「やったーっ!!」と大声で叫びながら飛び上がった。天井に頭をぶつけそうなその勢いに、玲璃は思わず苦笑した。
「なんだ、大げさなやつだな」
「大げさじゃないっすよ。これでも抑えてますから!」
その時、校門の方から大勢の人が走ってくる足音と気配を感じて、寺崎も玲璃もはっとした。
「行くぞ!」
校舎の方に駆けだした玲璃を追って、紺野も寺崎も慌てて駆けだす。三人とも走るのは速い。あっという間に校庭を突っ切って昇降口に滑り込むと、そこからそうっと顔を出して門の方をのぞき見た。騒ぎに気づいた大勢の人間が裏門付近に集まってきているのが見える。
「しっかし、このあと大騒ぎだろうな」
寺崎の言葉に、崩れた塀やめちゃくちゃになった図書室を思い出したのか、紺野も表情を曇らせる。だが、玲璃は何ということもないようにこう言ってのけた。
「大丈夫。事件の捜査をするのは魁然だし、野球部員の診察をするのは神代だ。都合良くまとめてくれるに相違ない」
その言葉に、紺野と寺崎は思わず顔を見合わせた。
「やっぱ、一番キモが座ってるのは、総代かも……」
「……そうですね」
玲璃はムッとしたように口をとがらせる。
「何だ、その言い方。もう少し言い方あるだろ、せめてプラス思考とか」
寺崎は耐えきれなくなったように吹き出した。紺野も下を向いてくすくす笑っている。玲璃も、そんな二人の様子につられたように笑い出した。
その後しばらく、三人の明るい笑い声が、人気のない昇降口に響き渡っていた。