5月20日 1
5月20日(月)
「……紺野」
「はい?」
寺崎に呼ばれて、鉛筆を削っていた紺野は振り向いた。
中休みだった。振り向いた紺野に見つめられ、寺崎は言葉を飲み込んだ。
「いや、なんでもない」
紺野は振り返った姿勢で小さく息をついた。
「本当に、どうしたんですか?」
今日は、朝から同じような状況で五回くらい声をかけられている。だが、結局一回も話の本題に入らないまま、寺崎が話すのを止めていた。
「悪いな」
寺崎はため息をつくと、机に突っ伏した。
寺崎は昨日家に帰ってから、こんな調子でずっと元気がない。紺野は片手に鉛筆を持ったまま、腰を屈めて心配そうに寺崎の顔をのぞき込んだ。
「熱でもあるんじゃないですか?」
「んなわけあるか。おまえじゃあるまいし」
のぞき込んできた紺野の顔を、寺崎は逆にじっと見つめ返した。
「紺野さ……」
紺野は小首をかしげて寺崎を見つめている。悪意のかけらもないその顔を見ていると、言いかけた言葉が引っ込んでしまうのだ。
「……何でもねえ」
だめだ、と思った。昨日のことを紺野に切り出そうと何度も試みたのだが、結局、きっかけすらつかめずにいる。切り出そうとするたびに、玲璃のあの言葉が頭の中にリフレインしてきてしまうのだ。
『またその地獄に引き戻すようなまねは、しちゃだめだ』
席に戻り、鉛筆をしまっている紺野にちらっと目をやる。つくづく、表情が豊かになったと思う。四月当初の、ほとんど表情を変えない暗い雰囲気から比べれば、天地ほどの差がある。玲璃が言っていたように、少しはほっとできる精神状態になっているのかもしれない。寺崎家に来た当初は夜中にうなされているような声が聞こえることもあったが、ここ最近はよく眠れているようだ。そんな紺野を再び苦しめるようなまねは、寺崎にもできるわけがなかった。
一方で、昨日の玲璃の、心細そうな姿が目に浮かぶ。母親……確かに今はそう意識できてはいないかもしれないが、どういう人だったのかを知りたいというごく当たり前の希望を、できることならかなえてやりたかった。
寺崎はもう一度、自分の席に座って教科書を読んでいる紺野の背中に目を向けた。
――裕子、か。
玲璃とは全く意味合いは違うにしても、寺崎自身、興味がないわけではなかった。この穏やかで優しい男が、夢中になり、関係を結び、十六歳にして子どもまでもうけた女。それは、くしくも玲璃の母親にあたる人物なのだ。紺野という人物の人となりを知れば知るほど、それは事実とはかけ離れた作り話のようにしか思えない。それとも十六年前の紺野は、今の紺野とは何かが違っているのだろうか。だとしたら、それは一体どういうところなのか。
知りたくないと言えばウソになる。だが友人として、それは言ってはならないことということも分かりきっている。寺崎は視線を手元に戻すと、もう一度、深いため息をついた。
☆☆☆
今週末の体育祭に向け、学校の準備も大詰めである。立て看板を作ったり、入退場門の飾り付けをしたり、スローガンを垂れ幕に書いたり。学年やクラスに分担する仕事もあるが、その割り振りも含め、おおかたは生徒会役員が中心になって準備を進めなければならない。勢い、今週はほぼ毎日、生徒会関係の会合や作業が放課後に予定されている。
「じゃ、よろしくな。何かあったら、絶対に送信してくれよ」
「はい」
寺崎が言うと、紺野ははっきりとうなずいた。そんな紺野に笑いかけて、寺崎が教室を出た直後だった。
「キャーッ! 寺崎くーん!!」
廊下中に響き渡る黄色い悲鳴に、寺崎はぎょっとして足を止めた。見ると、水飲み場の前あたりで、二年生女子三人が手を取り合って喜んでいる。寺崎は青ざめた。
「何なんだ、この状況は……」
つぶやきつつ、女子生徒たちとは反対方向に走り始める。二年生女子連中はキャーキャー言いながらその後を追いかけてくる。
寺崎が廊下を曲がると、二年生女子もその後を追って廊下を曲がる。
「あれ?」
三人は足を止め、あたりを見回した。
寺崎の姿はどこを見回しても、影すら見あたらない。十五メートルはあろうかという人気のない長い廊下が一本、目の前に静かに延びているだけだ。二年女子は首を曲げ曲げ、しばらく周辺を見回していたが、諦めたようにもと来た方へ戻っていった。
廊下を全速力で駆け抜け、曲がり口からその様子をうかがっていた寺崎は、ほっと息をついた。
「はあ……。全く、こっちはそれどころじゃねえっつーの」
寺崎は年寄りっぽく肩を上げ下げしながら、生徒会室に向かって歩き始めた。
☆☆☆
紺野は紺野で、何だか落ち着かない状況が続いていた。
この日も、図書室で教科書を広げ、復習を始めた紺野を見つけて、三年生らしい女子二人が何かこそこそ言い合いながら図書室に入ってきた。
「ねえ、あなた、もしかして紺野くん? 一年B組の」
「はい?」
紺野がうつむいていた顔を上げたとたん、その三年女子は大げさに息をのんで口に手を当てた。
「やだ、かわいーっ!」
「でしょ。SNSの写真よりずっといいよね」
どうやら、まだ例の騒ぎが尾を引いているらしい。紺野は気づかれないように小さくため息をついた。
その三年女子はしばらく二人で額を寄せ合ってこそこそ何か話していたが、意を決したように声をひそめてこんなことを聞いてきた。
「ねえ、マジで紺野くんって、渋谷で車止めたの?」
この質問も、この日だけでもう八回目くらいである。紺野もため息まじりにお決まりの返答をする。
「止めてません」
「ええ? でも、見てた人いたらしいじゃん」
「端から見ると、そう見えたんでしょう。車の方が、運良く止まってくれたんです」
三年女子は、なあんだ、というふうに肩をすくめて顔を見合わせた。
「そうなんだ。SNSの情報っていいかげんだもんね」
「そう思ってる人がいたら、本当のことを教えてあげてください。僕も困っているんです」
三年女子は曖昧にうなずきながらも、じっと紺野を見つめ続けている。その視線が何となく気になって紺野が集中できないでいると、そのうちの一人がため息とともにつぶやいた。
「それはともかくとして、紺野くんて、やっぱかわいいかも……」
もう一人もうなずきながら、顔を近寄せて紺野の視界に無理やり割り込んできた。
「ね、紺野くんて、リレーで第一走者だよね」
紺野が引き気味にうなずくと、もう一人も顔を近寄せて、たたみかけるようにこう聞いてくる。
「超速いよね。ね、百メートル何秒?」
および腰になりつつも、紺野が小声で「十秒九……」と答えると、その二人は「ええーっ!」と顔を見合わせて、やけに大げさに驚いてみせる。
その時、それまで黙って様子を見ていた図書館司書教諭の眼鏡が、鋭く光った。
「そこの人たち、話をするなら、外に出ていただけますか?」
三年女子は口に手を当てて顔を見合わせると、小さい声で「じゃあね、紺野くん」と言い残し、そそくさと図書館を後にした。
ようやく戻ってきた静けさにほっと息をつくと、紺野は再び教科書に目線を落とした。
☆☆☆
寺崎が生徒会室に入った時には、すでに作業が始まっていて、それぞれが割りふられた仕事を行っている所だった。玲璃はポスターに雨よけのビニールを貼る作業を行っていたが、寺崎に気がつくと笑顔で手招きした。
一瞬、寺崎はためらったが、荷物を置いてその傍らに歩み寄った。
「遅いぞ寺崎。これ、手伝ってくれ」
玲璃はそう言うと、まだ作業の終わっていないポスターを指さす。寺崎はうなずくと、ロール状に巻かれたビニールを手に取り、引き出して、ちょうどいい大きさに切る作業を始めた。切り終えたビニールの上にポスターを載せ、折りたたんで裏を貼る作業を玲璃が行う。しばらく二人は、黙々とその作業を行っていた。
ある程度たくさんビニールが切れると、寺崎は仕上がったポスターをそろえ始める。と、玲璃が作業をしながら口を開いた。
「なあ、寺崎」
「はい」
「今日一日、大変だったろ」
寺崎は一瞬、紺野の過去を聞き出すことかと思い返答に詰まったが、玲璃はにやにやしながらこう続けた。
「どこへ行っても、二年生が追いかけてくるから」
寺崎は一瞬ポカンとしたが、慌てて大きくうなずいた。
「そ、……そうなんすよ。今も、追いかけられたんでまいてきたんです。それで遅くなっちゃって……」
玲璃はビニールを固定しながら、肩を震わせてくすくす笑っている。
「ご苦労だったな。三年では、紺野がすごいことになっててな。うちのクラスでも、見に行ったやつがかなりたくさんいたぞ。あいつは今、図書室か?」
寺崎がうなずくと、玲璃は笑いながらも、いくぶん気の毒そうな表情を浮かべた。
「しばらくは、どこへ行っても落ち着かないかもしれないな」
最後の一枚の作業を終えると、玲璃は立ちあがった。
「よし、終わった。寺崎、一緒に来い。貼るぞ」
ポスターをまとめ、ガムテープを手にさっさと歩き出した玲璃の後を、寺崎は慌てて残りのポスターを抱えて追いかけた。
☆☆☆
よく晴れた、風の穏やかな午後だった。
さわやかな気候に誘われて、川べりのサイクリングロードにはランニングをする人、散歩をする人、自転車に乗る人の姿が絶えない。
青南高校野球部の部員たちは、そんな穏やかな川べりをランニングしていた。さわやかな気候とはいえ、照りつける五月の日差しは相当に暑い。二列に並んだ野球部員たちは汗だくになりながら、かけ声とともにリズミカルにサイクリングロードを進んでいく。
と、進行方向から、車椅子より大き目の、バギーと呼んだ方がいい乗り物に乗せられた人物と、そのバギーを押す中年女性が歩いてくるのが見えた。バギーに乗っている人物の顔は、目深に被った帽子に隠れてよく分からない。
部員たちはそっとバギーから目をそらす。じろじろ見ては失礼になると思っているからだ。ただ、じゃまにならないようにさり気なく道の端による。中年女性はそれに気づくと、小さく頭を下げて通り過ぎた。
野球部員とバギーがすれ違ったのは、ほんの一瞬だった。
「大丈夫か?!」
列の後方から、突然声が上がった。
振り返った部長は、そこに展開していた光景に息をのんだ。五,六人の部員たちが、頭を抱えてうめきながらサイクリングロードに座り込み、中には倒れている者の姿さえ見えるのだ。部長は顔色を変えて、倒れた部員を介抱している副部長のそばに駆けよった。
「どうしたんだ? 一体」
「いや、わかんないっす。急にばたばたと倒れ込んで……」
部長は青ざめながらも、周囲に集まる部員達に指示を飛ばす。
「この暑さだ。熱中症かもしれない。元気なヤツが肩を貸してやれ! 急いで学校に戻るぞ……おい、立てるか?」
元気な者が具合の悪い者を支え、部員たちが学校に向かって歩き始めた時には、もう中年女性の押すバギーはサイクリングロードの降り口を出て、交差点を渡り始めていた。