5月19日 3
「今日はありがとうございました」
玲璃は靴を履くと振り返り、玄関まで見送りに来たみどりに丁寧にお辞儀をした。
「もう帰っちゃうんすかー」
残念そうな寺崎の言葉に、玲璃は苦笑まじりの笑みを浮かべる。
「この後また花嫁修業なんだ。生け花の先生が来る」
寺崎はキョロキョロとアパートの外を見渡した。
「……あれ? お迎えの黒塗りベンツは?」
その問いに、玲璃は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「生け花の先生が遠方にお住まいの方で、迎えに行かなきゃならなくて……。すまないが、帰りだけ、おまえたちに護衛してもらってもいいか?」
寺崎はその言葉に表情を輝かせた。魁然家じきじきに、日常の護衛を任されたに等しい。ここ最近の活躍で、自分たちの護衛としての能力が認められたということだろう。興奮気味にうなずくと、あわてて靴を履き始める。
「もちろんっす! 任せてください。なにしてんだ、紺野。行くぞ」
寺崎は、奥に立つ紺野に当たり前のように声をかける。だが、紺野は穏やかな表情で首を横に振った。
「僕は行かない方がいいでしょう。かえって危険を呼び込んでしまう」
寺崎は目を丸くして紺野を見た。
「みどりさんにシールドもかけていませんし。寺崎さん、魁然さんをお願いします。そうすれば、電車にも乗れますから」
寺崎はちらっと玲璃に目を向けた。玲璃は紺野の言葉に納得したようにうなずいている。
「確かにこの時間だと、電車に乗らないと間に合わないかもしれない。寺崎、頼めるか?」
――総代と、二人きり?
寺崎は耳まで真っ赤になると、気づかれないように慌てて顔をあさっての方に向けた。
「わ、わかりました。じゃ、じゃあ、おふくろ、ちょっと行ってくるわ」
ぎこちなく踵を返す寺崎に、みどりはほほ笑みながら手を振った。
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
「何かあったら、呼んでください。すぐに行きますので」
紺野の言葉にも顔を向けないままでうなずくと、寺崎が先に玄関を出る。玲璃は戸口に立ってからもう一度みどりの方を向き、深々と頭を下げた。そんな玲璃に、みどりも頭を下げながらほほ笑みかけた。
「魁然さん、またいらしてくださいね。家に女の子がいると、雰囲気が和らぎます。普段はほんうとに、むさ苦しいので」
「はい、喜んで。今日は本当に、ありがとうございました」
笑顔の玲璃が扉の向こうに消えると、みどりは隣にたたずむ紺野を見上げた。
「紺野さん、ありがとう」
その言葉に、紺野も笑顔を返す。
「いえ、とんでもない。本当のことですから」
「魁然さんと神代先生って、許嫁ってことなんですか?」
みどりの質問に、紺野は曖昧にうなずいた。
「多分、そういうことなんだろうと思います」
「そう……」
みどりが首を振り振り洗い場に立つと、紺野がテーブルの食器をさげ始める。
「ほんとにいいお嬢さんなんですけどね。まあ確かに、紘にはもったいないかもしれないけど」
みどりが汚れた食器を洗いながらため息まじりにこう言うので、紺野はほほ笑んだ。
「寺崎さんもステキな方だと思いますよ」
「私もそう思うんだけど、その割にもてないのよね」
みどりはそう言ってまたため息をつくと、食器を置きに来た紺野をしげしげと見やった。
「あなただって、かなりステキな人なのよ」
思わず食器をシンクに入れる手を止めて、紺野はちょっと赤くなったりする。
「そうですか?」
「そうよ。私が若かったら放っておかなかったかも。紺野さんはそういう方、いらっしゃらないの?」
紺野は食器を手にしたまま、遠い目をした。
「一人だけ、いましたね。ただ、ずっと昔ですけど……」
その言葉にみどりははっと息をのむと、慌てて紺野から視線を外し、泡だらけの食器に目を落とした。
「ごめんなさい。私……」
紺野は食器をシンクに入れながら、穏やかな表情で小さく首を振った。
☆☆☆
にぎやかな商店街を駅へ向かってゆっくりと歩きながら、玲璃は隣を歩く寺崎を見上げた。
「寺崎、今日はありがとう。楽しかった」
やけに頬を紅潮させた寺崎は、慌てて首を振ってみせる。
「俺も、楽しかったっす」
「でも、おまえが料理できるなんて、意外だった」
「そうすか? 俺、こう見えても結構いろいろやってるんすよ。なにせ、おふくろがああいう感じだから、やらざるを得ないっていうか」
「いいだんなさんになれそうだな」
何気ないその一言に、寺崎は紅潮した頬がますます熱くなる感覚を覚えてうろたえた。
玲璃はそんな寺崎の様子には気づかず、目線を落として悲しそうにつぶやく。
「私はとてもじゃないが、いい奥さんにはなれそうもない」
寺崎は目を丸くすると、大げさなくらい首を横に振った。
「んなことないっすよ。総代のオムライス、めちゃくちゃうまかったっすから」
「ありがとう、寺崎。でも、うちで料理を習ってても、私は失敗ばかりで……」
玲璃は、何とも切ない表情を浮かべて足元のアスファルトを見つめている。
「ちっともうまくできないから、いつも珠子さんを怒らせちゃってるんだ」
「珠子さん?」
玲璃は寂しそうな笑みを浮かべて、うなずいた。
「母親だ。戸籍上の、な。でも、お母さんと呼んだことはない。珠子さんも、私のことは総代としか呼ばない」
寺崎はうつむいている玲璃の白い首筋を見つめた。
初めて聞いた話だった。だが、よくよく考えれば、玲璃の母親である裕子は、あの事件の時に鬼子を産んで死んでいる。今まで玲璃がそんなそぶりも見せず明るく振る舞っていたので、気がつかなかっただけだった。
玲璃は見るともなく遠くの雑踏に目を向けながら、つぶやいた。
「寺崎のお母さん、とても温かい感じで優しそうな人だな。うらやましい」
「総代……」
寺崎はかけるべき言葉が見つからなかった。それきり二人は、口をつぐんで駅まで歩いた。
程なく駅に着いた。玲璃は黙って切符を買い、寺崎はカードをかざしてホームに降りる。
「……なあ、寺崎」
ホームの端にたたずんでいた玲璃が、ようやく口を開いた。
「今、紺野がいないから……ちょっと、聞いてもいいか?」
「? はい」
「おまえ、紺野の過去を知ってるよな。それは、神代さんに送信してもらって、知ったのか?」
寺崎は黙ってうなずいた。
玲璃は「そうか」と言ったきり口をつぐむと、しばらく言葉を探しているようだったが、やがて幾ばくかのためらいをにじませつつ、ゆっくりと口を開いた。
「その時、そこに……裕子という人は、出てきたか?」
寺崎はハッと顔を上げると、うつむき加減でたたずむ玲璃を見おろした。何を、どう答えればいいのか分からなくなり、開きかけた口をつぐむ。
ためらっているうちに、乗るべき電車が滑り込んできた。黙ったまま、二人はそれに乗り込んだ。
扉が閉まり、ゆっくりと車窓の風景が流れ始める。駅が流れ去り、踏切を過ぎ、電車が徐々にスピードを上げ始めた頃、ようやく寺崎が重い口を開いた。
「俺が送信してもらった中に、その人は、一瞬しか……」
玲璃は流れ去る窓の外の風景に目を向けたまま、うなずいた。
「じゃあ、私が見せてもらったものと同じだな。私もあの恐ろしい一場面で、ほんの一瞬見ただけだった」
玲璃は再び口を閉じた。そのまましばらくの間、無言で車窓を流れ去る家並みを見つめていたが、やがてその唇から、ぽつりと短い言葉をもらす。
「紺野って、私の母親を知っているんだよな」
その言葉に、寺崎も改めてうなずいた。そういえばそうだ。これまであまり意識したことはなかったが、紺野が東順也だったころに、玲璃の産みの母である裕子と関係を持ったことで鬼子が産まれたのだ。しかし頭では分かっていても、全く実感がわかなかった。玲璃も同じだったらしく、苦笑めいた笑みを浮かべた。
「何だか変な感じだな。私の母親と紺野が付き合っていたなんて」
それからしばらくは窓の外に目を向けて流れ去る風景を黙って眺めていたが、ややあって独り言のようにぽつりと口を開いた。
「どんな人だったのか、教えてもらえないかな……紺野に」
思わず寺崎は玲璃を見つめた。口に出してしまってから、初めてその言葉の意味に気づいたらしく、玲璃もうろたえ気味に視線を泳がせてから、慌てて打ち消すように首を振った。
「いや、だめだ。そんなことは頼めないよな。紺野はきっと、一番思い出したくないことなんだろうから……」
玲璃は口をつぐむと、肩を落としてうつむいた。
「……総代」
寺崎はその白い首筋を見つめながら、胸が苦しくなった。自分は父親を知らない。父親に会ってみたいと思う。声を聞いてみたいと思う。玲璃も、同じように母親を知らない。それを知りたいと思う気持ちは寺崎には痛いほど分かる。いや、それどころか、恐ろしい事件に関与しているがために、おおっぴらにその気持ちを表すこともできずにいるのだ。
長いまつ毛を伏せ、じっと足元を見つめて動かない玲璃。その細い体を、思い切り抱きしめてやりたいと本気で思った。
だが、伸ばしかけた右手が宙に浮いて止まる。
――この人は、魁然家の総代だ。結婚相手も、その日取りも既に決まっている。
寺崎は震える右手を無理やり冷たい手すりにはわせると、目線を手もとに向けながら口を開いた。
「俺、聞いてみましょうか?」
玲璃は驚いたように寺崎を見上げた。
「紺野に……そのことを、総代に伝えられるかどうか」
玲璃はずいぶん長いこと、目を丸くして寺崎を見ていた。ややあって、何か言いたげに口を開きかけたが、思い直すようにその口を閉じると、きっぱりと首を振る。
「だめだ、そんなこと」
短くそう言ってから、玲璃は寺崎を見上げた。おずおずと目線を合わせた寺崎に、そこはかとなく悲し気な笑みを投げる。
「ありがとう、寺崎」
胸が締め付けられるような気がして寺崎がなにも言えずにいると、玲璃は目線を落とし、静かに言葉を継いだ
「おまえの気持ちは嬉しい。でも、紺野の気持ちを考えろ。あいつは、私たちには想像もつかないような地獄を生きてきた。今、やっと少しだけほっとできる状態になっているのに、またその地獄に引き戻すようなまねは、しちゃだめだ」
そう言うと玲璃は、窓の外を寂しげに見つめた。
「裕子という人物のことを知ったからといって、どうなるわけでもない。私も母親という実感を持っているわけでもなんでもない。ただ、どういう人か知りたいってう興味だけなんだから……いいんだ、ほんとに。悪かった。聞かなかったことにしてくれ」
「総代……」
玲璃はそれきり、口をつぐんだ。窓の外を流れる家並みに目を向けてはいたが、その目は、もっとどこか遠くを見つめているようにも思えた。
寺崎も、それ以上何も言えなかった。ただ黙って、瞬きとともに上下する玲璃の長いまつ毛を見つめながら、つかんでいる手すりがゆがみそうなほど、知らずその手に力を込めていた。