5月19日 2
「何ができますかね……」
冷蔵庫をのぞきながら、紺野は首をひねった。先日みどりが買ってくれた男物のエプロンが、なかなか板についている。
「取りあえず、チャーハンかオムライスならできそうですけど……」
振り返った紺野は、背後に立つ玲璃の姿に、どきっとしたように動きを止めた。
玲璃は、みどりの花柄エプロンを借りている。普段の玲璃はどちらかというと活動的でボーイッシュな雰囲気なのだが、フリルのついた可愛らしいエプロン姿の彼女は、白い首筋や細い手足、ウエストのくびれが強調されてやけに女っぽい。紺野はなんだかどぎまぎして、慌てて目をそらした。
「おーっ、総代、かわいい!」
と、そこへ寺崎も参戦してきた。紺野とおそろいのエプロンをつけて、こちらもなかなかさまになっている。
「寺崎も、料理できんのか?」
玲璃がいぶかしげに問うと、寺崎は堂々と胸を張った。
「当然! しょっちゅう作ってますもん」
そう言ってやる気満々、さっそく袖をまくる。
「総代、オムライスとチャーハン、どっちが食べたいっすか?」
「そうだなあ。やっぱり、オムライスかな」
「了解、じゃあ、オムライスでいきましょう!」
寺崎はさっそく、チルドボックスから鶏肉を取り出した。紺野は、貯蔵庫からタマネギを手に取る。
「じゃ、まずは手を洗って」
寺崎に言われて、玲璃は慌てて手を石けんできれいに洗った。その間に台所には、まな板と包丁が用意される。
「したら、最初はタマネギのみじん切りっすね。総代、玉ねぎは切ったことあります?」
「いや、料理教室ではずっと包丁の訓練をしてるんだが、今はまだ、やっと人参がスムーズに切れる感覚をつかめてきたところで、玉ねぎは切ってみたこともない。初めてだ」
そう言うと、いくぶん申し訳なさそうな表情をうかべる。
「ずいぶん練習してきたから恐らく大丈夫とは思うんだが、初めてのものを切ると力加減がうまくいかなくて、まな板や包丁を破損することがあるかもしれない。もし万が一そんなことになったら、すぐに代わりを買うから……」
その言葉に、寺崎は笑顔で頭を振る。
「全然いいっすよ、大丈夫。余計なことは気にしなくていいすから、思い切りやっちゃってください。それに、人参は切れるようになったんすよね?」
「ああ。人参はだいぶスムーズに切れるようになった。玉ねぎは固さが違うんで心配はあるが、柔らかいものだし、そこまで大きな失敗はないと思う」
「純血種の皆さんはマジでいろいろたいへんすよね……こういう時だけは、混血でよかったって素直に思います」
寺崎に包丁を渡されて、玲璃は緊張した面持ちでタマネギと向かい合う。ごくりとつばを飲み込むと、皮もむかずにそのまま切ろうとするので、寺崎は慌てて制止した。
「おっとっと、総代、皮むいてくださいよ」
「皮? ああ、そうか」
今度はそのまま剥こうとするので、寺崎は玲璃の手からタマネギを受け取ると、それを半分に切り、根本と頭を切り落とした。
「今日使うのは半分だけ。こうやって尻尾と頭切ると、剥きやすいんす」
玲璃は渡されたタマネギと寺崎を代わる代わる見やってから、にっこり笑った。
「そうなんだ。ありがとう、寺崎」
寺崎は赤くなって視線を左右に泳がせる。
「あ、いえ、とんでもないっす……」
タマネギの皮をむき、いよいよみじん切り。寺崎がやり方を伝授する。
「まず縦に、切り落とさないギリギリで筋入れるんす。その後横に細かく切っていけば早く終わるんで」
「そうか、わかった」
玲璃は教えられたとおりに玉ねぎに切れ目を入れていく。人参より柔らかいので、比較的力加減が楽なようだ。順調に切れ目を入れていた玲璃だったが、目をしばしばさせて苦笑した。
「痛いな、結構」
「慣れてないとつらいっすよね。冷蔵庫に入れときゃよかったかな」
「そうすると、痛くないのか?」
「ええ。なぜか、冷やすと。……あ、総代、よく見て。厚くなってますよ」
紺野は肩を寄せ合ってタマネギを切る二人をほほ笑ましく見やりながら、その後の作業がしやすいように周囲の環境を整えていた。油を出し、冷凍のミックスベジタブルも適量を皿に取っておく。冷凍してあったご飯を解凍しながら大鍋も用意し、付け合わせのブロッコリーをゆで、人参のグラッセを作り始める。
「じゃ、次はいよいよ鶏肉っす。難しいと思うんで、皮は剥いでおきますね」
「わかった。一センチ角って言ってたっけ?」
「大体でいいっす。肉は人参より格段に力加減が難しいと思うんで、マジで気をつけてください。無理そうだったら、俺が代わるんで、すぐに言ってくださいね」
「わかった」
鶏肉を前に、緊張しながら、まるでのこぎりで丸太でも切っているかのように肩に力を入れて包丁を動かす玲璃。寺崎は冷や冷やしながらその手元を見ていたが、うつむき加減で一生懸命肉を切る玲璃の真剣なまなざしと、その長いまつ毛、開きかけた唇に一瞬目を奪われた。
――この人は、九月に結婚しちまうんだよな。
そう思った瞬間、何とも言えない寂寥感が寺崎の胸を突き刺した。
玲璃はなんとか肉を切り分けると、大きく息をつき、嬉しそうに表情を輝かせた。
「驚いた。肉でも思ったよりいけそうだ。ただ、ちょっと大きすぎるかな? なあ、寺崎……寺崎?」
いぶかしげに呼びかけられ、ハッとわれに返った寺崎は、慌てて玲璃の手元を見やり、目を丸くした。
「すごい! ちゃんと切れてるじゃないすか。ただ、確かにちょっと大きいかもっすね。半分にしときますか」
そう言うと、寺崎は手際よく肉を切りそろえていく。
「同じくらいにしないと、火の通りが悪いんすよ。軽く塩コショウもしておきますね」
寺崎の慣れた手つきを見ながら、玲璃は感心したようにうなずいていたが、背後から漂ってきた甘いにおいに気がついて、振り返った。
見ると、食卓には既にブロッコリーの盛られた皿が並べられ、ガスコンロには小鍋の人参が甘いにおいをたてている。玲璃の目線に気づいて、鍋を拭きながら紺野はほほ笑んだ。
「ご苦労さまです。うまく切れましたか?」
「あ、まあな。寺崎が手伝ってくれてるから。……しかしおまえ、手際がいいな」
「そうですか?」
それを聞いた寺崎が笑った。
「踏んでる場数が違うんすよ。だってこいつ、中一から一人暮らししてたってんですもん。な、紺野」
紺野が驚いたように鍋を拭く手を止めて寺崎を見る。
「……なんで知ってるんですか」
「いつも言ってるだろ、俺は何でも知ってんの。さ、総代、材料が切れたから、炒めましょ。あんま時間もねえから、残りの野菜はミックスベジ使って手間省きますね」
手慣れた様子で仕事を進める紺野と寺崎に、玲璃は感心しきりだった。
「火の通りの悪いものから炒めますね。まずは肉っす」
玲璃は熱したフライパンに下味をつけた鶏肉を放り込む。その途端、豪快な音とともに、油が四方に飛び散った。
「わ、あっつ!」
はねた油が飛んだのか、玲璃が菜箸を取り落として手を引っ込める。驚いた寺崎は玲璃の手を取ると、すぐに水道をひねった。
「大丈夫っすか? すぐ水で冷やして……」
寺崎が玲璃の手を冷やしている間に、紺野は火がつけっぱなしの鍋を引き継ぐと、慣れた手つきで鶏肉を炒め始めた。
「ありがとう、寺崎。もう大丈夫だ」
「薬もつけた方がいいんじゃないすか? 今、やけどの薬と絆創膏持ってきますから」
「いや、大丈夫だ。そこまでのケガじゃないから……」
「いやいや、万が一傷でも残ったらたいへんっす。ちょっと待っててくださいね」
そう言うと、寺崎は救急箱を取りに奥の部屋へ走っていった。
ふと気がつくと、紺野が鮮やかな鍋振りでタマネギを炒め終え、ミックスベジタブルを加えたところだった。
「ごはんを入れる前に、先に具にケチャップをなじませておくと、後で混ぜるときに楽なんですよ」
玲璃の視線に気づいたのか、紺野はそう説明してほほ笑んだ。
「そうなんだ……ご飯を炒めるのは、私がやってみてもいいか?」
「わかりました。じゃあ、ここまでにして置いておきますね」
紺野はケチャップをなじませて火を止めると、今度は人参のグラッセの様子を見る。煮汁がほとんどなくなっていたので、紺野は火を止めるとそれも大皿に盛り始めた。
「それは、どうやって作ったんだ?」
「これですか? ただ砂糖とバターで煮ただけです。適当ですよ」
そう言うと、紺野は食卓を見渡した。
「汁物がほしいですかね。何か簡単なスープでもつくりますか?」
野菜室に入っていたカブを取り出して洗うと、実と葉に切り分ける。葉の方は少しだけ取り分けて、残りはビニールに入れて冷蔵庫にしまう。
「とっておくのか?」
「ええ、今日は使わないので。みそ汁の具にもなりますし、ジャコやかつお節と一緒にごま油で炒めてもおいしいんですよ」
玲璃が感心していると、救急箱を持った寺崎が戻ってきた。
「総代、遅くなりましたぁ」
「悪いな寺崎、手間を取らせて」
玲璃が寺崎に手当てしてもらっている間に、紺野はあっという間にカブを切り分けてざるに入れた。沸騰させた水に固形スープの素とカブを放り込んで、ふたをして軽く煮込む。特に難しい料理を作っているわけではないのだが、段取りと手際の良さに、玲璃は感心しきりだった。
「じゃ、総代、チキンライス作ってみましょ」
寺崎はそう言って再び大鍋に火を入れる。玲璃にしゃもじを渡して、場所を空けた。
「じゃ、ご飯入れますよ」
温めておいたご飯を放り込む。四人分なので、結構な量だ。玲璃はしゃもじを一生懸命動かすが、なにぶん不慣れなのですぐに香ばしいにおいがしてきてしまう。
「やば、先輩、焦げてるかも」
「わ、どうしよ、寺崎、代わってくれ!」
大鍋を引き継いで鮮やかに鍋を振り始めた寺崎を見て、玲璃が感心したようにため息をついた。
「寺崎、おまえ、すごいなあ」
「そ、そうっすか?」
寺崎は思わずにやけて赤くなる。つい張り切りすぎて、調子よく振るっていた鍋からご飯が大量に飛び出した。
「あー。もったいない」
慌てて拾い集めて、そのまま口に放り込むので、玲璃は目を丸くした。
「おい、寺崎。ちょっとそれは……」
「悪い見本っす。まねしないでくださいね」
ご飯をほおばりながらくぐもった声で寺崎が言うので、玲璃は思わず吹き出してしまった。
「まったく、おまえは面白いやつだな」
「だって、もったいないっすもん。目がつぶれちまう」
寺崎は昔の人のようなことを言うと、火を止めた。
「さ、次はいよいよ卵の出番っすね」
と、紺野がざるに卵を八個用意してきた。寺崎から大鍋を受け取ると、お皿の上に、丸くきれいにチキンライスを盛りつけ始める。
「あれ? 卵でくるむんじゃないのか?」
「それはかなり難しいんで、今日はのっける感じでやりましょ」
寺崎は小さめのフライパンを出すと、卵を二個、ボウルに片手で鮮やかに割った。
「へえ、うまいもんだな」
感心している玲璃に、そのボウルを手渡す。
「といておいてもらえますか? 俺、バター出してくるんで」
言われたとおり玲璃が卵を溶いていると、寺崎はフライパンを火にかけてバターを入れた。
「最初は俺がやるんで、見ててください。こうやってフライパンを振りながら強火で一気にいきます」
卵を流し込み、絶えずフライパンを振りながらふわりと卵をまとめていく。半熟になったところで火から下ろし、大皿に盛ったチキンライスに乗せる。とろっと、うまい具合に卵が分かれ、何ともおいしそうに仕上がった。
「うわ、すごい!」
目を丸くして叫んだ玲璃の手に、寺崎がぽんと卵を載せる。
「じゃ、総代もやってみましょ。この方法なら、あんまり失敗しないと思いますよ」
玲璃は緊張した面持ちで卵を割る。経験があまりないので、指先の感覚がつかめないのだろう。くしゃっとつぶれた感じに卵が割れ、かけらが二,三個入ってしまった。
「あーあ……」
「全然おっけーっすよ。取り出しゃいいんだから」
卵を溶いて、フライパンに火をつける。バターを溶かし、いよいよ卵の投入である。
「いくぞ!」
やけに気合いたっぷりに、卵をフライパンに流し込む。焦ったように菜箸を動かすが、卵はあっという間に固まり、見るも無残なそぼろ状になってしまった。玲璃はがっくりと肩を落とした。
「ごめん、寺崎……」
寺崎はそぼろを皿に取り、フライパンをキッチンペーパーで拭った。
「大丈夫っすよ、あれはあれで俺がおいしくいただくんで。もう一回やってみましょ」
そんな二人の様子をほほ笑ましく見やりながらカブのスープを盛り分けていた紺野は、台所の扉が細く開けられ、すき間からみどりが中の様子をうかがっているのに気がついた。
「みどりさん?」
きょとんとして声をかける紺野に、みどりは人差し指を口にあてて、「しーっ!」というしぐさをして見せてから、首をかしげる紺野をそっと手招きする。
「どう? 様子は」
「いい感じですよ」
みどりは二人の様子を見ながら、ほっとしたようにほほ笑んだ。
「あの子ったらどうやら玲璃さんのこと、本気みたいね。うまくいくといいんだけど」
その言葉に、紺野は複雑な表情でみどりを見つめた。
「……魁然さん、九月に結婚されるんです」
みどりはこぼれ落ちんばかりに両眼を見開き、息をのんで紺野を見つめた。
「本当に?」
紺野は申し訳なさそうにうなずく。
「先日お世話になった、神代先生と……」
みどりは口をあんぐり開けてぼうぜんとしていたが、やがてがっくりと肩を落とした。
「それは……あの子に勝ち目はないわね」
大きなため息をつくと、台所に立つ寺崎に同情のまなざしを向ける。
「そうだったの。あの子ったら、またかなわぬ恋なのね。でもまあ、仕方がないわね。残念だけど……」
「やった、総代! 成功っすよ!」
その時、台所いっぱいに寺崎の弾んだ声が響いた。チキンライスの上に、いくぶん固めながら見事に卵がのっかっている。
「やった! 寺崎、ありがとう!」
「俺、これもらってもいいすか?」
次の準備をしながら、寺崎は嬉しそうに玲璃を見た。
「総代の料理、俺、食べたいんで」
玲璃は頬を赤らめながらも、やはり嬉しそうに大きくうなずいた。
「ほんと、いい雰囲気なんだけど……」
まだ未練があるのか、みどりは首をふりふり奥の部屋へひっこんでいった。紺野は苦笑すると、空になった鍋を洗いに流しに向かう。
鍋を洗っていると、玲璃が声をかけてきた。
「紺野、おまえ、卵でご飯をくるめるか?」
「え? ええ。できると思いますが」
「やって見せてくれないか?」
鍋を洗い終えて伏せると、ちょうど三個目ができあがったところだった。寺崎も振り返り、笑顔でうなずいている。
「別に構いませんが……」
紺野は手を拭くと、手早く片手で卵を割り、菜箸で溶きながら手近に大皿を引き寄せた。フライパンに火をつけバターを溶かすと、強火のまま卵を流し入れる。フライパンを揺すりながらあっという間に半熟にし、チキンライスを片側に手早くいれる。片手でフライパンを揺すりながらきれいにくるんで、瞬く間にまるでレストランで出されるようなきれいなオムライスができあがった。玲璃はその間中、瞬きすら忘れたようにその手技に見入っていた。
「ほんとおまえ、すごいな。コックさんみたい」
ため息まじりに玲璃がつぶやくので、オムライスを皿に盛りながら紺野は苦笑した。
「一時期、卵ばっかり食べてましたから。朝も、昼も、夜も。毎日、手を変え品を代え……安いんで、助かるんです」
まるで主婦のようなそのセリフと外見とのギャップが面白くて、玲璃は思わず吹き出した。
「ほんとおまえ、意外性ありすぎだな」
「じゃ、冷めないうちにいただきますか。おーい、おふくろ! おふくろってば……」
エプロンを外しながら、寺崎がみどりを呼びに行く。程なく、心なしか浮かない顔のみどりが、車椅子を自走させて入ってきた。
「あら、上手。今日はお昼からごちそうだわ」
言いつつも何だか元気のないみどりの顔を、寺崎は心配そうにのぞき込んだ。
「おふくろ、さっきの元気はどうした? 追い出されたのがそんなにいやだったのか?」
事情の分かっている紺野が苦笑しながらエプロンを外し、全員が席に着く。
「じゃ、みなさんで、いただっきまーす!」
寺崎の音頭で手を合わせた玲璃は、オムライスを口に運んで目を見張った。
「うまいぞ、これ」
寺崎もオムライスをほおばりながらうなずき返す。
「でしょ。簡単でうまいんすよね、これ」
その言葉に、玲璃は目を丸くした。
「あれで、簡単なのか?」
「そりゃそうっすよ。料理なんて凝ろうと思えば、どこまでも凝れますもん。俺たち、あんま凝った料理は知らないっす。いつでも、速い、簡単、安いが一番。な、紺野」
紺野も笑顔でうなずいた。
「僕も、あまり難しいことは知りません。だから、魁然さんがお知りになりたいことは、もしかしたら教えて差し上げられないかもしれませんが」
玲璃はとんでもないと言いたげに首を振る。
「これだけできれば上等だろ。男子高校生でここまでできるやつって、そんなにいないと思うぞ」
「総代のオムライスも、感動的にうまいっす!」
寺崎が口いっぱいにオムライスを頬ばりながら感極まったように言うので、玲璃も紺野も笑いだす。こうして寺崎家での昼食会は、和やかで楽しいひとときとなった。ただ一人、みどりだけが、時々残念そうに玲璃と寺崎を見やっていたのを除いては……。