5月18日 2
「お忙しいところ、本当にありがとうございます」
寺崎家のソファに並んで腰掛けて、須永と石黒は同時に深々と頭を下げた。
「いいえ、こちらこそごめんなさいね。うちの息子が、失礼なことを申し上げたようで」
台所からコーヒーを運んできた寺崎は、みどりの言葉に渋い顔をすると、いえいえと首を振る須永の前に乱暴にコーヒーを置いた。カップがとがった音を立てて大きく揺れ、コーヒーが大量に受け皿にこぼれる。
「こちらが、紺野さんですね」
受け皿に大量にこぼれたコーヒーにも一切頓着なく、須永は嬉しそうにそう言うと、みどりの隣に座る紺野をしげしげと眺めやった。
なんでもない七分袖のTシャツにジーンズ姿。それほど長身ではないが、さらさらの茶色い長めの髪に、すっきりとした目鼻立ち。手足が長くすらりとして、思ったとおりの美少年だ。ほくそ笑んでいると、ふとTシャツの袖先から見える腕の包帯が目に留まった。
「紺野さん、その腕は……」
「ああ、それは先日の電車事故の時、割れたガラスに手を突っ込んで切ってしまったんです。なかなか傷が治らなくて」
ほほ笑みながらみどりがそう言うと、須永はあからさまに色めき立った。
「じゃあ、やはりあの事故の時、電車を止めたのは……」
「ええ、紺野さんです。コーヒー、よろしければどうぞ。冷めないうちに」
みどりは穏やかな笑顔でコーヒーを勧めた。
「あ、ありがとうございます。いただきます」
須永は頭を下げると、儀礼的にコーヒーに口をつけてから、居住まいを正した。
「それでは早速、取材を始めさせていただきたいんですが」
「その前に、一つだけお願いがあるんです」
みどりはほほ笑みながら、やんわりと、しかしどこか有無を言わせぬ強さを漂わせながら言葉を継いだ。
「うちもいろいろと忙しいので、取材はこれっきりにしていただきたいんです。約束していただけるのでしたら、お受けします」
「あと、取材内容は逐一録音さしてもらう。少しでも違うこと書きやがったら、訴えるからそのつもりでいろ」
部屋の入り口に寄りかかるようにして立ち、斜ににらみつけながら寺崎がすごみを利かせると、みどりは眉をひそめた。
「紘、あんまり失礼な言い方はやめなさい。ごめんなさいね。あの年で、口のきき方を知らなくて」
須永はいえいえと手を振って苦笑いを浮かべると、黙ってうつむいている紺野に目を向けた。
「紺野さんて、静かなんですね」
紺野は先ほどからじっと手元を見つめたきり、一言も口をきいていない。みどりは苦笑した。
「シャイな子なんです。人見知りも激しくて。私が答えられるところは答えますから。それでもよろしいかしら」
「ええ、それはもう、お話さえ伺えれば……あ、それから、写真を撮らせていただいても構いませんか?」
「ええ、もちろんです」
みどりの快諾を受けて、石黒がボイスレコーダーのスイッチを入れ、カメラの用意を始めると、須永もカバンからパソコンを取り出し、スイッチを入れる。
「では、まず最初に……紺野さんと寺崎さんは、どういったご関係で?」
「遠い親戚にあたるんですけど、この子、先日、火事でアパートを焼け出されてしまって。今、うちに下宿してるんです」
みどりは学校側に伝えてあるのと同じ内容を話した。
「事故にあったあの電車には、どんなご用事で乗られてたんですか?」
「この子は四月の火事以来ずっと入院していたんですけど、ちょうどその日が退院だったんです。それで、病院から家に向かうために乗りました。そうしたら、あの事故に遭ったんです」
「事故の時のことを、もう少し詳しく聞かせていただきたいんですが……できれば、紺野さんご自身に」
須永はそう言うと、期待のこもった熱い視線で紺野を見つめる。紺野は目線を上げずにうなずくと、口を開いた。
「何からお話すればよろしいですか」
「では、最初にあなたが異常を感じたのは、どういったことで?」
「電車が四軒茶屋を通過したので、おかしいと思いました」
「それで、乗務員室をのぞいたんですか?」
「はい」
「そこで、何を見たんですか?」
「運転士さんが突っ伏しているのに気がつきました」
「その時、先行車両との追突の可能性については、気づかれていましたか?」
「はい」
「だから、電車を止めようとなさったんですね」
「はい」
まるで一問一答のような応酬に、須永は少々いらいらしてきた。たいていの人間は、一つ質問すれば、それに関する話を自分の方から次々にしてくれるものなのだが……なんとかして話を引き出そうと、須永は質問の仕方を変えた。
「電車を止めるために、あなたがなさったことを教えてください」
紺野は考え込むように間をあけたが、ややあって口を開いた。
「非常ブレーキをかけるために、乗務員室に入ることを考えました。鍵がかかっていたので、ガラスを割って中から鍵を開けようと考えました。それで……」
紺野の言葉が途切れた。須永は思わず身を乗り出して次の言葉を待つ。
「それで、ふと見たら、扉に渡してある棒が一本、取れかかっていたんです」
須永は目をまん丸く見開いて動きを止めた。
「取れかかっていたとおっしゃるんですか?」
紺野は小さくうなずいた。
「引っ張ったら簡単に取れたので、それでガラスを割りました」
あっけにとられたように言葉を失っている須永を尻目に、淡々と言葉を継ぐ。
「それで鍵を開けて中に入れたので、非常ブレーキをかけました。……僕が知っているのは、それだけです」
須永はしばらく何か考えるように黙っていたが、やがてこう確認した。
「……では、不思議な偶然のおかげで電車を止めることができたと、そうおっしゃるんですね」
須永はちらっと隣の石黒に目線を走らせる。石黒がそれ以上突っ込まない方がいいというように首を横に振ってみせると、須永は小さく息をついた。
「わかりました。この件に関しては、紺野さんからのお話を参考に、私どもの方でも独自に調査を進めさせていただいて、その結果と併せて記事にさせていただきますが、それでよろしいですか?」
「調査すんのは勝手だけど、それで妙な憶測書きやがったら、承知しねえからな」
寺崎が台所の入り口から地をはうような声音で凄んだが、須永は涼しい顔で受け流す。
「ご安心ください。私どもは、事実のみを追求します。根拠のない記事は、雑誌の信用を落としますから」
須永は再び目の前に座る紺野の茶色い髪に目を向けた。
「それにしても、紺野さん、非常ブレーキのかけ方なんてよくご存じでしたね。私なんて、あの運転室に入れたとしても、どれが非常ブレーキかなんて全くわかりません。電車とか、お好きだったんですか?」
その質問に、紺野は思わず言葉に詰まる。と、すかさずみどりが助け舟を出した。
「ええ、そうなんですよ。この子ったら、顔に似合わず乗り物オタクで」
「へえ、そうなんですか。意外ですね。オタクっていうと、どういった感じなんですか? 撮り鉄とか、乗り鉄とか、いろいろありますけど」
妙なところでやけに具体的な突っ込みを入れてくる須永の嗅覚の鋭さに、寺崎は内心ヒヤヒヤした。寺崎自身、電車や乗り物にはあまり興味はなく、どちらかといえば戦隊ヒーローものにのめり込んでいたクチだったため、この質問には答えようがない。みどりも映画やドラマが好きだが、電車や乗り物に興味を持っているところなど見たことがない。果たしてどう答えるかと緊張している寺崎をしり目に、みどりはすらすらと言葉を連ねた。
「まあ、どちらかといえば乗り鉄ですけど、紺野さんの趣味は電車に限らないんです。船でも、飛行機でも、車でも、とにかく動くもの全般が好きで。動かす仕組みみたいなものに興味があるから、ブレーキのことも知っていたんだと思います。そうよね、紺野さん」
ふられた紺野は慌ててうなずきかえして同意を示す。須永はそんな紺野の様子を疑わしそうな目で見たが、みどりの話にそれなりの具体性があったため、これ以上突っ込んでもムダだと思ったのだろう。質問を切り替えた。
「そうですか。わかりました。では、先日の件にうつらせてください。先週の土曜日、渋谷であった出来事です」
須永は携帯の画像を呼び出すと、それを紺野の目の前に差しだして見せる。
「これは、あなたですよね」
紺野は黙ってその画像に目を向けていたが、やがて小さくうなずいた。
「この画像は、あの時事故を目撃したカフェの女性客が事故の直前に撮影したものです。彼女はこう証言してくれました。突っ込んできた車を、この少年……つまりあなたが素手で止めた、と」
黙って目線を落としている紺野に詰めよるように、須永は身を乗り出した。
「あなたは暴走車を、どうやって止めたんですか?」
紺野はちらっと須永を見たが、すぐにその目線を落とすと小さく首を振った。
「僕が止めたんじゃありません」
「でも、あの女性客は……」
「車が、勝手に止まってくれたんです」
あきれはてたように口を半開きにしている須永を尻目に、紺野は淡々と先を続ける。
「僕はあの時、逃げ遅れてどうしようもなかった。夢中で手を出したら、運良く車が目の前で止まってくれたんです。ただ、それだけです」
「だが、あのあとの現場検証で、車がブレーキを踏んだ形跡は全く見られなかったと警察が言っているんですよ!」
たまらず声を荒げた石黒を目で制すると、須永は静かに口を開いた。
「紺野さん、あまりに話ができすぎていませんか? 電車の事故の時も、渋谷の件にしても、こんな幸運な偶然が、あなたの周囲にばかり立て続けに起きるなんて、確率的にあり得ないと私は思います。やはり、あなたは、なにか隠していることがあるのでは……」
「それは、大権現様のご加護ですわ」
「は?」
唐突に差しはさまれた想定外の言葉に、須永はあきれ返ったように声の主に目を向ける。声の主――みどりは、半ば神がかったような表情を浮かべていた。
「うちでは、ずっと信仰している神様がおりますの。大権現様です。朝な夕なお参りさせていただいてるんですけど、きっとそのご加護ですわ。うちではそう信じております」
そう言うと両手を胸の前辺りで組み、みどりはきらきらした目で須永達を見つめた。
「あなた方もぜひ、入信されたらいかがでしょう。必ずや、ご加護があると思いますよ。よろしければ、パンフレットをお渡しいたしますから、ぜひご覧になってみてください。入信の申込書も、パンフレットについておりますので……」
言いながら派手な色合いの宗教っぽいパンフレットを取り出すので、須永はぎょっとしたように慌てて手を振った。
「あ、いえ、私どもはそういったたぐいのことには……」
「まあまあ、そうおっしゃらずに。見るだけでも結構ですから、ぜひ、お持ちになってくださいな」
みどりはあふれんばかりの笑顔でそう言いながら、引き気味の須永の手にほとんど無理やりパンフレットを握らせた。
「それで、今回の記事を書く際には、ぜひ大権現様のご加護について、詳しく触れていただければと思いまして……」
押し付けられたパンフレットを仕方なく手にしながらも、須永は激しく首を振って拒絶の意志を伝える。
「たいへん申し訳ありませんが、公平性と中立性を維持するために、特定の団体の利益になるような記事は書くことができない規則になっておりまして……」
「そんなことをおっしゃらずに、よろしくお願いします。あなたも仰ったでしょう、こんな偶然が起きることはあり得ないと。仰る通りです。あり得ない奇跡が起きたのです。大権現様のお力が、われわれを守ってくださったんです! 今回の件で、それ以外にどんな説明がつきますか? これは単なる事実です。団体の利益とは関係ありません。あなた方はくだらない規則のために、この厳然たる事実から目を背けるんですか?」
激しく主張しながらにじり寄ってくるみどりに対し、反論の言葉を見失ったのだろう。須永はあわてたように作り笑顔を浮かべて席を立った。
「あ、……と、取りあえず、今日はこれで失礼させていただきます。お忙しいところ、ほんとうにありがとうございました。興味深いお話が聞けて、有意義でした。お話をもとに、われわれの方でもさらに調査を進めていきたいと思います。……さ、石黒さん、行きましょう。では、ごめんください」
そう言って逃げるように居間を出ていく須永の後を、カメラや録音機を両手に抱えた石黒が慌てて追いかける。まだ何か言いたげなみどりに等閑な礼をして、雑誌記者たちは靴のかかとをつぶしたままで玄関から走り出て行った。
アパートの扉が、重い音をたてて閉まる。
「……ぷっ!」
台所で、寺崎が耐えきれなくなったように吹き出した。
「どうだった? かあさんの演技力」
にこにこしながらみどりが戻ってくると、寺崎は腹を抱えて大笑いし出した。
「え、……いや、もうサイコー! おふくろにあんな才能があったなんて、思わなかった」
何とか笑いをおさめると、ぜいぜいと肩を揺らして乱れた呼吸を整える。
「あー苦しい……でも、あんなパンフ、なんで持ってんだ? まさかって、入信しちゃってたりとか」
みどりは苦笑して肩をすくめた。
「おとといだったか、変な訪問勧誘の人が来たのよ。ヒマだったから話を聞いてあげたんだけど、まさかあれが役に立つなんてねえ……」
そう言って、ふとまじめな表情になる。
「もしかして、ほんとに大権現様のご加護だったりして……」
寺崎は再び思いっきり噴き出した。さすがの紺野も、肩を震わせてくすくす笑っている。
「ま、あとは成り行きをみましょ」
そう言うと、みどりは優しい目で紺野を見つめた。
「本当に信頼できる人は、何があっても信頼してくれるものよ。どんと構えて、あたふたしないこと」
紺野はそんなみどりの視線を何とも言えない表情で受け止めると、深々と頭を下げた。
「みどりさん、本当に助かりました。ありがとうございました」
「私のかわいい息子のためですもの、一肌でも二肌でもぬぎましょ。こんなおばさんの肌で申し訳ないんだけど」
「息子」という言葉に、紺野は大きく目を見開いて動きを止める。自分をまじろぎもせず見つめている紺野を、みどりは優しく見つめ返した。
「あなたはもう、私にとっては本当の息子と同じなの。その息子が困っているんだもの、何があっても守らなきゃ。母親としてね」
紺野はしばらくの間、ぼうぜんとみどりを見つめて動かなかったが、何か言いたげに口を開きかけた。だが、言葉を紡ぎ出す前に喉が不規則に震えたかと思うと、瞬きとともに涙が一筋、その頬を伝い落ちた。
「あー、もう! おふくろってば、また紺野泣かしたー!」
そんな紺野の様子を見て、みどりもじんときたらしい。にじんだ涙を指先でぬぐいながら、寺崎の抗議に泣き笑いのような表情を浮かべてみせる。
「そんなこと言って、この間は紘が泣かしてたでしょ。お互いさまよ」
「うちにいると、泣きっぱなしだな。ごめんな、紺野」
明るい笑顔で寺崎が言うと、紺野は涙をぬぐいながら、少し笑って首を振った。
☆☆☆
「あんなんじゃ、記事にしようがないわね」
体よく煙に巻かれた気がして、須永は本当に腹が立っていた。足元の石ころを、足を振り上げ思い切り蹴り飛ばす。石ころは勢いよく跳ねながら転がって、危うく前をゆく中年男性の足にあたるところだった。
そんな須永に、石黒は困ったような笑みを浮かべて肩をすくめた。
「まあ、そうっすね。大権現様をもってこられたんじゃ」
須永は深いため息をつく。
「あの宗教団体の名前を出したら、その時点で記事が丸ごとデマ認定されて終わりだもんね。全く、あのおばさんが信者だったなんて……ホント、最悪だわ」
吐き捨てると、須永は何を考えているのか、しばらくは黙って駅への道を歩いていたが、何を思いついたのかふいにピタリと足を止めた。背筋を伸ばして前方を見据え、それからくるりと振り向いて石黒を見る。
「石さん、お願いがあるの。電車事故に関して、今日の証言を確認して。ほんとに、あの手すりが取れかかっていたのか、そして、あの車がブレーキをかけた形跡が少しでもあったのかどうか。あっちが宗教をたてにするなら、こっちは厳然たる事実から迫ってやる。絶対にこのまま終わらせたくないの。他の仕事もあって忙しいと思うけど、一生のお願い!」
そう言って両手を合わせて頼み込む須永の後頭部を、石黒は黙って見つめていたが、やがて観念したようなため息をついて青空を見上げた。
「分かりましたよ。須永さんにそこまで言われちゃ、断れませんもん」
「ありがとう、石さん!」
須永はパッと表情を輝かせると、石黒の浅黒い首根っこに抱きつき、そり残しのヒゲが残る頬に軽くキスをした。