5月17日 3
「あれだけの人に見られちまった以上、ごまかしようもねえ。今回のことについては俺がなんとかするよ」
人気のない廊下を自分たちの教室に向かって歩きながら、そう言ってにっと笑った寺崎を、紺野は複雑な表情で見上げた。
「幸い、普通の人間にはおまえの気は見えねえからな。おまえは何もしていないようにしか見えてねえだろ。悪いけど、今回は俺の独壇場ってことで」
「……申し訳ありません」
あの時、寺崎を呼んでしまったばかりに、また迷惑をかけることになってしまった。重苦しい後悔の念に苛まれた紺野は、暗い表情で目線を落とす。
その頭が突然、大きな手でぐしゃぐしゃとなで回された。
いきなり視界がぐらぐらと揺れて、驚いて顔を上げた紺野の目に、寺崎の屈託のない笑顔が映り込む。
「ありがとな、紺野!」
紺野はあっけにとられてその笑顔を見つめた。
「あん時、俺を呼んでくれて。あれでいいんだよ。これからは、いつもあれでいこう。俺も活躍できて嬉しいし」
寺崎はそう言って親指なんか立てて見せる。ようやく思考が回転し始めた紺野が、おずおずと口を開きかけた、その時だった。
突き刺すような赤い気の気配を感じて、紺野は息をのんで足を止めた。
しかし、根本的なエネルギーのレベルとしては微弱であり、寺崎は全く感知できなかったらしい。いきなり立ち止まって後ろを振り返った紺野の様子に首をかしげつつ、その目線を追った寺崎の視界に、廊下の曲がり口にたたずむ女生徒の姿が映り込む。
ゆるふわウェーブがかかったロングヘアに、短めのスカート。大きな二重の目が魅力的な彼女が、つい先ほど守衛の人質になっていた女生徒だということは、視力のいい寺崎はすぐにわかった。一瞬、礼でも言いにきたのかと思ったが、右手に光るサバイバルナイフに目を留めて、ゾッと背筋に寒気が走る。
「紺野、これって……」
紺野は女生徒を見据えながら、小さくうなずいた。
「あの子どもです。おそらく操作対象を乗り換えたんです。長時間接触することによって」
寺崎の二の腕に鳥肌が立った。そういえば、人質に取るような格好で羽交い締めにし、あの守衛はこの女生徒とかなり長時間接触していた。そうすると、こんなことまでできるとは。寺崎はごくりと唾を飲み込んだ。
女生徒はおもむろに右腕を上げ、無感情なその眼前に鈍く光るサバイバルナイフをかざす。
「さっきの方法でいこう。ちょっと彼女には気の毒だけど、それが一番確実だ」
「はい」
寺崎の提案にうなずき返し、紺野が意識を集中しかけた時だった。
「あれ? 寺崎に紺野くん。そんなとこで何やってんの?」
突然、背後からのんびりした声が響いた。面食らった寺崎が慌てて振り返ると、すぐ後ろに、教室から出てきたらしい三須がけげんそうな顔で立っている。彼女はクラスの書記として、数学教師に手伝いを頼まれて教室を出たところだったのだ。
女生徒の周囲を取り囲む赤い気のエネルギーが、寺崎にもはっきりと分かるほど一気に上昇する。
「三須! 伏せろ!」
「え?」
寺崎の叫びに、三須がきょとんとして首をかしげたのと、女生徒が三須をめがけてサバイバルナイフを投げたのはほぼ同時だった。
寺崎ですら止めようもないスピードだった。手を出すのは自殺行為だと直感した寺崎は、ぽかんと突っ立っている三須を押し倒し、問答無用で体の上に覆い被さる。
「て……寺崎?」
いきなり廊下に押し倒され、何が起こったのか全くわかっていない三須が、頬を赤らめておずおずと口を開く。寺崎はハッと顔を上げると、弾かれたように後ろを見た。
そこには、紺野が両手を大きく広げ、寺崎と三須を女生徒から守るような格好で立っていた。
その構図に、寺崎の顔から血の気が引いた。紺野の体の真ん中に突き刺さるサバイバルナイフの幻影が、頭を過ぎったのだ。
「紺野!」
思わずその名を叫んだ寺崎の耳に、冷静で落ち着いた紺野の声が届く。
「三須さんを、安全なところへ」
見ると、紺野の足元には粉々に砕けたサバイバルナイフの残骸が散らばっている。悲観的に過ぎる自分の妄想に苦笑すると、寺崎は三須に声をかけた。
「三須ちゃん、走るぞ」
「え?」
まだよく事態が飲み込めていない三須の手首をつかみ、寺崎は廊下の床を蹴って走り出す。またたく間に加速し、ついぞ見たことのない勢いで流れ始める周囲の風景に、三須は息をのんだ。
――何、この速さ。
半ば引きずられるような格好で三須が渡り廊下の向こうに消えたのを確認すると、紺野は女生徒に向き直った。
紺野はさきほどからずっと、女生徒の能力発動を封じ続けている。女生徒の周囲に渦巻く赤い気が、それを包み込んでいる紺野の白い気を突き破ろうとするたび、普通の人間でも可視化できるほど強い、火花のようなひらめきが上がる。女生徒は全ての能力発動を封じられながら、それでも恐ろしい形相で紺野をにらみつけている。
自分には、寺崎のような力業はできそうもない。いつものように接触感応で治すしかない。それほど深い催眠ではないから、すぐに解けるはず……そう判断した紺野が、女生徒に歩み寄ろうと一歩を踏み出した、その時だった。
【人殺し】
こめかみを貫く、憎悪に満ちた送信。紺野はその言葉に打たれたように立ちすくんだ。女生徒は口の端を非対称に引きつらせ、肩を震わせながらくすくす笑っている。
【今から、おまえが人殺しの化け物だって、学校中の生徒に教えてやるんだ】
充満した濃厚な赤い気が、紺野の防壁をはち切れんばかりに圧迫し、渦巻きながらその密度を増していく。シールドの強度を上げなければ弾かれる。そう直感した紺野は、気の密度を高めようと試みる。だが、白い気は高まるどころか徐々にその輝きを失い、空気に溶けて流れていく。紺野は愕然とした。
【学校中の生徒が、おまえを殺したくなるだろうよ】
いくら意識を集中しても、いっこうに気の密度は高まらない。このままだと、赤い気のエネルギーに防壁を破られる。この状況で防壁が弾けたら、恐らくこの校舎は吹っ飛ぶだろう。すぐそこの教室で何も知らずに勉強している百人以上の生徒の命が、一瞬で失われるのだ。絶望に指先が震え出すのを感じながら、紺野が一歩後じさった、その時だった。
「させるかよ!」
突然、背後から響き渡った大声に、紺野ははっと目を見開いた。
振り返った紺野の目に、開けはなたれた非常口に逆光を浴びて仁王立ちになり、女生徒をにらみつけている寺崎の姿が映りこむ。女生徒の送信を傍受したらしかった。
「寺崎さん……」
「万が一そんなことになっても、俺だけは絶対にそんなふうにはならねえ! 断言する!」
寺崎は、不安げに自分を見つめる紺野ににっと明るく笑ってみせると、廊下中に響き渡る大声で、こう言いきった。
「俺は一生、おまえが大好きだからな!」
紺野は寺崎を見つめたまま、瞬きも呼吸も忘れ果てたかのように固まった。
新たな敵の出現に、赤い気がさらにその密度を増す。弱まった紺野の防壁を破らんばかりに膨張し、圧迫する。
紺野はゆるゆると女生徒の方に向き直ると、その顔を真っすぐに見据えた。
射るようなそのまなざしは穏やかで、それでいて凛としていて、先ほどまでの不安定さがまるでウソのような、揺るぎないを強靭さをたたえている。
白い気の密度の急激な上昇を感じて、女生徒はハッとした。つい先ほどまで防壁を圧倒していたはずの赤い気が、上昇する白い気の密度と反比例するように収束していく。女生徒は慌てて密度を高めようとしたが、無駄だった。映像を逆回転するような勢いで収束し、無力化されながら、赤い気はみるみるうちにそのエネルギーを失っていく。
最後の一片が消失する瞬間、寺崎に向かって紺野が叫んだ。
「お願いします!」
「了解!」
声と同時に、寺崎の姿がかき消えた。一瞬で女生徒に肉薄した寺崎の手刀が、一刀両断、その首筋にたたき込まれる。白目をむいて崩れ落ちる女生徒の体を素早く抱きとめ、寺崎が床に静かに横たえると、すぐさま紺野が傍らにかがみ込み、その手を取って意識を集中する。指先からほとばしり出る白い輝きが、彼女の意識に残る赤い気を完全に消滅させる。……全ては、数分のうちに終了した。
「やったな!」
紺野に、寺崎がにっと笑って親指を立ててみせる。紺野は泣き笑いのような表情を浮かべてうなずくと、うつむいて何か考えているようだったが、ややあって、おずおずと口を開いた。
「寺崎さんじゃないですけど、僕も……」
「え?」
紺野は言いにくそうに口を濁していたが、やがて何をかふっきったように顔を上げ、はにかんだような笑みを浮かべてこんなことを口にした。
「僕も寺崎さん、大好きです」
いつも寺崎がふざけて言っていることを、紺野がこのシチュエーションで、しかもまじめに言ったので、さすがの寺崎も真っ赤になった。それを見た紺野は、心なしか嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「寺崎さんも、かわいいですね」
「うっせー!」
寺崎は耳まで赤くなってそっぽを向いたが、やがてぷっと吹き出すと、大笑いし始めた。紺野も、つられて笑った。今までになく明るい笑顔だった。
と、寺崎が慌てて口を押さえた。
「……っと、授業中だった。大丈夫か?」
「大丈夫です。三須さんに見られた以外は、ずっと遮断していますから」
「三須ちゃんか……やっべーな」
寺崎が渋い表情を浮かべたとき、非常口から、誰かが校舎内に入ってくるのが見えた……三須だ。
「俺、百三十階段の一番下まで飛び降りたんだ。三須ちゃん抱えて」
紺野は目を見張った。だからあんなに早かったのだ。
「マジでヤバいかも。あいつ、クラスの女子の広告塔みたいなヤツだし」
紺野は目線を落として何か考えていたが、自分の指先が白く輝いたのを確認すると、小さくうなずいた。
「……何とかできそうです」
紺野はつぶやくと、戸惑ったような表情を浮かべてたたずんでいる三須の方に向かって歩き始めた。自分から危険人物の方に近寄っていく紺野にギョッとして、寺崎は慌てて声をかける。
「おい、何をする気だ?」
寺崎の問いには答えず、紺野は三須の目の前に立った。三須は、歩み寄ってきた紺野におずおずと目線を向けると、不安そうに口を開いた。
「ね、紺野くん。寺崎って……」
「すみません」
紺野は短くそう言うと、三須の両肩に手を置いた。驚いている三須に構わず、かがみ込むようにしながら目を閉じて、ゆっくりとその顔を近づける。接近してくる長いまつ毛と、わずかに開いた唇。三須の思考は一瞬で凍結した。
――こ、これって、もしかして……。
なぜこんな状況で、どうしていきなり、などという月並みな疑問を全て頭の片隅に追いやると、三須は軽く顎を持ち上げた姿勢で目を閉じ、ごくりとつばを飲み込んだ。
寺崎も仰天して固まった。紺野ってそんなに積極的なヤツだったのかとイメージが百八十度転換しかけたが、紺野は自分の額をそんな三須の額にそっと押しつけて、白い輝きをまとい始めた。やがてその輝きは二人を覆い尽くし、キラキラ輝く白い靄に包まれた二人の姿は見えなくなった。
その輝きが溶けるように消失し、二人の姿がおぼろげながら見えるようになった時、三須は突然、体から力が抜けたようにがくんと崩れ落ちた。紺野は三須の両脇に手を添えて抱きとめると、そっとその体を廊下に横たえる。
「紺野、おまえ……」
紺野は乱れた呼吸を整えながら、額ににじんだ汗をぬぐった。
「記憶を、抜きました。さっきの一件に関する部分を、全て……」
「本当か?」
紺野はうなずくと、いくぶん申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「ただ、さっきの、二年生のクラスにいた生徒たち……あそこまで多人数になると、ちょっと無理かもしれません。記憶の操作をするのは……」
寺崎はぶんぶん首を振った。
「いいって。あれはもうさっきの方法で構わねえよ。でもおまえの能力、ずいぶん自由に使えてるみたいだな」
「もう、無理みたいですけど……使える時間が、長くなっている気がします」
紺野が自分の手に目線を落とす。白い光はすでに消え失せていた。
「何にしろ、やったな!」
そう言って、寺崎は紺野の目の前に拳を差し出した。
「はい」
紺野も笑顔でうなずくと、その拳に自分の拳を当てた。
☆☆☆
「私が駆けつけたときには、もう電車は止まっていました。運転手が意識を失っていて……その少年は、車椅子の女性と一緒にいました。その後、ここで警察の方を交えて事情聴取をしたんです」
車掌の話を熱心に聞きながら、須永は凄まじい速度でパソコンのキーをたたいてメモを取る。石黒はその横で、会話の録音をしながらごくりと唾を飲み込んだ。
「少年が言うには、いきなり乗務員室の窓に取り付けられている棒が取れたと。その棒でガラスを割って、鍵を開けて中に入ったと、そう言っていました。ただ……」
「ただ?」
キーをたたく手を止め、眼鏡の縁をきらりと光らせて、須永は聞き返した。
「あの棒って、そんないきなり取れるもんじゃないんですよね。かといって、わざと取ろうにもかなり手間がかかる。棒自体は警察に押収されちゃったんですけど、僕の見た限りでは根本のビスが溶けたみたいになって、まるでバーナーか何かで焼き切ったみたいでした。でも、様子を見ていたお客さんに聞いても、いきなり棒が取れたようにしか見えなかったと……」
ふんふんとうなずきながら興味深そうに口の端を上げた須永の前で、車掌は考え込むように眉根を寄せた。
「僕が一番分からないのは、ATCが全く作動しなかったことなんです。直前の車両点検では、何の異常も見あたらなかったのに。その上、事故後の調査でも、どちらも何の異常も見あたらなかったんですよ」
そこまで言うと車掌は首を振り、ふうとため息をつく。
「僕はちょっと、信じられない。いったい何が起こったのか、正直、怖いくらいで……」
須永はそこまでメモを取ると、満面の笑顔で頭を下げた。
「貴重なお話を、本当にありがとうございました。それで……ここからはちょっと、個人的なご相談なんですが」
須永は周りの駅員にチラッと視線を走らせた。忙しそうに業務にいそしむ駅員達が、こちらに注意を向けている様子はない。それでもいちおう周囲に聞こえないように、須永は声を潜めた。
「その子の名前、もしご存じでしたら教えていただきたいんですけれど……」
机の下からそっと差し出された茶封筒を見て、その小太りの駅員は驚いたように目を見張ったが、おずおずと辺りを見回すと、茶封筒を受け取って小さくうなずいた。
「確か、紺野って言ってました。紺色の紺に、野原の野。上南沢に住んでる、都立高校の生徒です。車椅子の方はおばさんか何かで、寺崎さんとおっしゃっていましたね」
ささやくような車掌の声に意識を集中していた須永だったが、聞き終えると同時にあふれんばかりの笑顔を浮かべると、勢いよく頭を下げた。
「ありがとうございました! 大変参考になりました!」
☆☆☆
「あの子よ、やっぱり」
ホームへ下りるエスカレーターに乗りながら、須永は後ろに立つ石黒を振りあおいで、意味ありげに笑った。
「確かにコンノって言ってたもの。しかも上南沢に住んでる、都立高校の生徒……割り出せるわね」
石黒もうなずいた。
「SNSにちょっと情報ばらまけば、あっという間ですよ。そこまで分かれば」
そう言うと眉根を寄せ、考え込むように目線を上げる。
「それにしても、今日の話は不可解でしたね。先日の渋谷での出来事と言い、その紺野とかいう子、何かよほどの秘密がありそうな気がしますね」
「そうね。車を素手で止めたことにしろ、手すりを取ったことにしろ。絶対に、何かある」
須永はポケットから自分の携帯をとりだすと、ボタンを操作し、保存してある例の画像を開く。
刺すような目で画像を見つめながら、須永は意味ありげな笑みを浮かべた。
「とにかくこの王子様に、もう一度お目通りを願いましょ。話はそれからよ」