10 枢機卿の話
サノン教の総本山である王都の教会、そこを守る堅牢な結界に、私の拳が突き刺さる。
「痛っ!」
結界は少し軋んだような気もするが、びくともしなかった。嘘だろ、私が負けた?
教会から飛び出してきた神官の男は慌てて駆け寄ってくる。
「今、結界の魔道具を止めているところです。ドルクネス伯爵も入れるようになりますから」
別に、今のは、全力じゃなかったから。本気なら、これくらいの結界は、いともたやすく壊せるから。
よし、リベンジだ。目を閉じて、精神を集中させる。全身の力を右の拳に集中させるつもりで。
「ついにユミエラパンチを出すときが来たのね」
説明しよう、ユミエラパンチとは私の繰り出すパンチだ。すごいつよい。
普段の私は周囲への影響を考え、意識的にも無意識的にも力をセーブしている。その力を最大限活用しての正拳突きである。
体内の魔力の流れを感じる。その膨大な力の循環は私だけで完結せず、自然の魔力とも呼応している。
廻転する世界の魔力を感じ取り……今だ、と思った瞬間に肩に手が置かれる。
横を見るとパトリックがいた。
「ユミエラ、結界はもう無くなった」
「え、ホント?」
結界のあった場所に手を突き出すと、今までと同様に壁のような感触がある。結界をペタペタと触りながらパトリックに文句を言う。
「まだあるじゃない……あれ? 無くなった?」
「間に合ったか、ギリギリだったな」
私の正拳突きを耐えてみせた結界は、たった今消えてしまった。勝ち逃げはずるい。
「再戦! 再戦の機会を要求します!」
「ユミエラは意外と……いや、普通に負けず嫌いだったな」
私は決して負けず嫌いではない。ただ、自分が負けたと思われるのが我慢ならないだけだ。
パトリックめ、私と結界の真剣勝負に水を差すなんてひどい。ユミエラパンチを食らわすぞ。
ぐぬぬと歯噛みしてパトリックを睨みつけているうちに、だんだんと頭が冷えてきた。
結界を壊そうとしたこともマズイが、私が教会の結界に阻まれたというのがマズイ。異端審問にかけられたらどうしよう。
しかし強い結界があったら壊したくなるのが人情だ、許してくれないだろうかと思案していると、若い神官が言う。
「ドルクネス伯爵ですね、ちょうど枢機卿がいらっしゃいますのでどうぞ中に」
教会の中に入っていいの? ユミエラお断りの結界じゃなかったの?
◆ ◆ ◆
教会に入った私たちを迎え入れたのは、陽光で煌めくステンドグラスだった。ただの作り物だと分かっていても神聖さを感じさせるそこは、大聖堂と呼ばれているらしい。
案内の神官は大聖堂を素通りして、別な部屋に向かう。そこで私たちを待ち構えていたのは初老の男性だった。
「お初に目にかかります。サノン教の総本山、バルシャイン中央教会へようこそ、私は枢機卿を務めていますジェラルドです」
「はじめまして、ユミエラ・ドルクネスです」
偉い人だというのは分かるけれど、枢機卿ってどのレベルの偉さなのかが分からない。トップ? 枢機卿って複数いた気もする。
「ドルクネス伯爵は教会がお嫌いなのだと思っていました。来て頂けただけでありがたい」
「いえ、その、機会がなかっただけでして……」
「それは良かったです。学園在学中のお誘いが断られていたので心配していました」
「え?」
学園にいる間に教会からのコンタクトは無かったはずだ。他の貴族からの誘いと一緒に断ってしまっていたとしたら、だいぶマズイ。
枢機卿は私の隣にいるエレノーラに目を向けて言う。
「エレノーラさん、ドルクネス伯爵には断られたと言っていましたよね」
「そうですわ、大神官様。わたくし、何度もユミエラさんをお誘いしたのに……」
「え!? 一度も聞いてないです」
エレノーラにはしつこく遊びに行こうと言われていたが、あの手この手で躱し続けていた。まさか、あれが教会に行こうという意味だったのか?
「何度も言いましたわ! ユミエラさん、今度のお休みに遊びにいきましょう、って」
まさかが当たった。私と枢機卿は二人で固まる。パトリックは笑いをこらえていた。
「あれが、そうだったとは思いませんでした」
「私も伝言を頼む相手を間違えましたかね」
エレノーラは何のことか分からない、といった顔をしていた。これは……枢機卿が悪くないか? 私だったら大事な伝言をエレノーラに託したりなんかしないぞ。
枢機卿は苦笑して言う。
「エレノーラさんにお願いした理由はちゃんとあるのですよ。サノン教も貴族の政治と無関係ではありませんからね、無理に伯爵を召喚するわけにはいかなかったのです。しかし、ご学友のエレノーラさんに連れられてなら、自然な流れで来て頂けますから」
「……ご学友?」
「……ああ、なるほど」
彼は私の一言だけで、私とエレノーラとの関係を察したようだ。哀愁を帯びた苦笑いが見ていて辛い。
「エレノーラさん、ご友人というのはですね――」
「分かってますわ! わたくしがお友達だと思えば、その方はお友達ですのよね! 大神官様が教えてくださいましたわ!」
「ごめんなさい、私が原因のようです」
「いえ、愛に溢れた素敵な友達論だと思います」
これに関して枢機卿は悪くない。エレノーラのあのしつこさは、天性のものだと思っている。そう思わないとやってられない。
全ての元凶である彼女は自信満々に言う。
「ユミエラさんもわたくしのことは好きですから、わたくしたちは完璧なお友達どうしですわね!」
「……エレノーラ様の中ではそうなのでしょうね」
枢機卿から何か話があるはずなのに、エレノーラが騒がしくて中々聞き出せない。そう思っていると、パトリックが気を利かせてくれた。
「あー、俺は大聖堂が見たいのだが……エレノーラ嬢、案内して貰えないだろうか」
「もちろんですわ、ユミエラさんも行きましょう!」
「ユミエラは枢機卿猊下と少し話があるらしい。すまないが二人で――」
「ま、まあ! パトリック様は素敵な方だと思いますが、わたくしにはエドウィン様が……それにユミエラさんは……」
顔を赤らめたエレノーラはもじもじと言う。
違います。勘違いです。パトリックはあなたに気などありません。
彼の顔には面倒くさいと誰にでも分かるように書いてある。誰にでも分かるは言い過ぎか、エレノーラ以外は誰でも分かる。
すまんパトリック、あなたの犠牲は無駄にはしないぞ。
エレノーラは私の方をしきりに気にしながら、先に部屋を出たパトリックを追いかける。
「……行きましたね」
「はい」
私と枢機卿は疲れた顔でうなずき合う。今までの流れで、私がサノン教に異端扱いされることはないだろうと理解できた。警戒のレベルを下げよう。
彼は一息ついてから話を始めた。
「えーと、どこまで話しました?」
「まだ何も聞いてないです」
「そうでしたね。エレノーラさんも困った子だ、いい子なのは間違いないのだが……この話はやめておきましょう。伯爵にお伝えしたかったことはただ一つです」
いよいよ本題か。私はつばを飲み込んで彼の言葉に集中する。
「サノン教を代表して私がお伝えします。ユミエラ・ドルクネス伯爵、教会に貴女と敵対する意思はありません。もちろん信仰を強要することもありません」
望外の結果だ。この人は神様か何かなのか?
光の神様とはいつか一戦交えなければならなくなる、とまで考えていた。それが今まで通り不干渉で構わないというのは条件が良すぎる。
しかし、幾つか気にかかる点があった。
「私、生粋の闇属性なのですけれど、大丈夫ですか?」
「問題ありません、属性同士に相性はあれど上下関係はありませんから。光の神サノン以外ですと……水の都はご存知ですよね?」
「知っています。水の神様を祀る神殿があるとか」
「その通りです。私たちサノン教団は他の信仰を迫害することはありません。闇の神の名前は失われてしまいましたが、彼の神も尊重します」
別に私は闇の神様の信者というわけではない。四大属性の神様を信仰する話は聞いたことがあるが、闇に関しては一度も聞いたことがない。彼は神の名は失われたと言うけれど、最初から存在していないのではなかろうか。
枢機卿は上品な笑みを浮かべて続ける。
「光があるからこそ闇がある、闇があるからこそ光がある。我らの神サノンが存在するには闇が必要不可欠です。類稀なる闇属性を持つ貴女には敬意を表します……というところまでをエレノーラさんに話したのですが……」
「聞いてないです」
「ですよね」
私たちは揃ってため息をつく。馬車の中でエレノーラが言おうとしていたのは今の話だったのか。ちゃんと伝えて貰えれば、こんなに警戒することは無かったのに。何かありがたいっぽいし。
もう一つだけ不安な点がある。例の結界だ。
「あとですね、教会の入り口で結界に阻まれてしまいまして」
「聞いております、申し訳ない。あれはサノン教に伝わる結界魔道具でして、魔物の侵入を防ぐと言われていました。今日分かりましたが、あれは闇属性を阻む結界だったのですね」
「本当に強固な結界でした。あれを破れる魔物はいないと思いますよ」
「それは嬉しいですね。結界は見えませんし、皆は素通りできますので存在を疑う方もいたのですよ。伯爵のお墨付きを貰えるのでしたら、箔もつきます」
あの結界は本当に硬かった。ユミエラパンチをお見舞いする前に消えてしまったので、是非とも再戦をお願いしたい。私の威信をかけて壊しにかかるので、箔とやらは無くなってしまうかもしれないが、そこをどうにか許して貰いたい。
私がどう言えば納得してもらえるかと考えていると、彼は言う。
「今度から教会にいらっしゃるときは前もって知らせていただけるとありがたいです。本日は私がいましたので解除できましたが、常にそうとは限りませんので」
彼の口ぶりから察するに、結界を発生させる本体の魔道具があるのだろう。それをちょっとだけ貸して欲しいが、きっと断られる。
もっと、私の欲を隠す感じで、教会側にもメリットがある感じで、できる限り軽い調子で再戦を促す。
「分かりました。あ、物のついでに結界の耐久試験をやりませんか?」
◆ ◆ ◆
帰りの馬車の中、私は少し落ち込んでいた。
「はあ、勝ち逃げされた」
「もしも結界だけでなく魔道具本体まで壊れたらどう責任を取るんだ?」
私の大して重要じゃない風を装う作戦は失敗したのだ。今パトリックが言ったように、元の魔道具が壊れないかを枢機卿も心配していた。教団に伝わる伝説の魔道具なのだから、もっと自信を持って欲しい。
まあ、結界は諦めよう。今は。
それと、パトリックと一緒に大聖堂を見に行ってからエレノーラの様子がおかしい。先ほどから私の手の辺りをじっと見つめている。
「エレノーラ様はどうしたんですか?」
「な、何でもありませんのよ!」
彼女はブンブンと首を振って言う。明らかに何か隠しているだろ。
「私はもう分かってますから、隠さないで言ってください」
「え? そうでしたの? ダイヤの指輪――」
「エレノーラ嬢、ユミエラにはまだ秘密です」
思惑通りにエレノーラは鎌かけに引っかかったが、パトリックが遮ってしまう。
彼女は何と言おうとした? ダイヤの指輪?
「ダイヤってあの、キラキラ光るだけの石ですか?」
「ひ、光るだけ!?」
「光るだけじゃないですか。それ以外に機能があるわけでもありませんし、ダイヤの指輪とか一番いらない物ですね」
ただ光るだけの石にそこまでの価値がある理由が分からない。ダイヤの指輪を付けるくらいならメリケンサックを付ける。
エレノーラは宝石の付いた装飾品を数点身につけているので、彼女は気を悪くしたかもしれない。彼女は口を両手で抑えて絶句している。
「すまん、少し寄る場所ができた」
突然パトリックが立ち上がって扉を開け、走行中の馬車からヒラリと降りる。
「ちょっとパトリック、いきなりどこに行くの?」
「店を見て回る」
何の店かを聞く前に、パトリックは路地の一つに入ってしまった。馬車からでは声が届かない。
追いかけようかとも考えたが、彼は彼で色々と用事があるのだろう。私は束縛しない出来る彼女なのだ。パトリックさん大満足。
パトリックが開けたまま出ていった馬車の扉を閉め席に戻る。
「はあ、パトリック様も恋人が鈍感で大変ですわね。ユミエラさん、わたくしでも分かりますわ、今のはあり得ないです」
エレノーラに憐れむような目で見られた。著しく納得がいかない。
安心してください(?)再戦の機会はあります。