5-05 一瞬だけ鏡を見る
◆5-05 一瞬だけ鏡を見る
「これで終わりです。お疲れさま」
「脱ぎます、着替えます、早くしてください」
「はいはい……はぁ、鏡の前から動かなくなるお客様だっているのに」
この瞬間が一番辛い。ずっとずっと我慢して、ようやく開放される、その寸前こそ焦燥感がマックスになるものだ。
ゆっくりと先導する店員さんを、後ろから急かすように移動する。いつものワンピースに戻るんだ。あれが貴族としてもギリギリライン。何も言われないが、お上品なご婦人には怪訝な顔をされるくらいの、絶妙な服なんだ。
店内を歩いていて、ふと大きな姿見が目に入る。試着直後、それの前に移動しないかと提案されたが断った鏡だ。
急いでいるけれど、すぐにこんな物は脱ぎ捨てたいけれど、何となく足を止める。
別に、普通の鏡だ。日本とは物の価値が違うので、相当にお高いだけで、それ以外は同じ。光を反射して、前にある物を映し出すだけだ。鏡の精霊が現れることもなく、背後に血まみれの落ち武者が見えるわけでもなく、ただ私の全身が映し出されている。それだけ。
レースですけすけの肩から腕。私以外なら絞め殺されそうなほどにキツい腰の部分。絞められたウエストから下は、スカートふわりと広がり、レースで描かれているのは優美な花のモチーフ。
緻密な計算で成りたっているであろう全体のシルエットも、技巧を凝らして作り上げられた細部も、心を奪われるほど……ではない。すごいなとは思うけれど、別にそこまで心は動かされない。私は私であるのだから、ウエディングドレスを見て素敵と思うなんてことはない。
でも、もうちょっと眺めてみようかな。焦燥感はすっかりと消えていた。
しっくりくる手の位置を、下ろしてみたり胸の前に持ってきたりと試行錯誤する。その間、自分でも意味不明な独り言が勝手に出てきた。
「へー、ふーん、そういうことね」
鏡の前で歩いてみる。すり足みたいにゆっくり慎重に動いただけで、スカートはふわりと踊った。
反対を向き、振り返って鏡を確認する。背中を覆う黒い髪の合間から、正反対の色が覗く。
「なるほどね、そういうことね」
様々な角度から見てみようと、姿見の前でクルリクルリとグルグル回る。
これを着て、私は結婚式に出るのか。これを着て、みんなの前を歩くのか。これを着て、パトリックの隣に並ぶのか。
横にいる彼の顔を見上げると、これくらいの角度で……と鏡から視線を外すと、ニヤニヤのエレノーラの存在に気がつく。
「……なんですか?」
「いえ、わたくしのことは気にせず、好きなだけ眺めていていいのですわよ」
光を全反射するタイプのガラスを見る行為は好きでもないのだから、そんなこと言われても困る。私はちょっと立ち止まって、チラッと鏡を見ただけだ。
エレノーラの笑顔を不審に思い周囲を確認すれば、ボスおばさまもお姉さま方も、全員が似たような顔をしていた。微笑ましいものを見るような笑顔だ。この感じ、まるで私が鏡に見蕩れていたみたいじゃないか。違うぞ。
「一瞬、鏡を見ただけです。こんなもの、今すぐにでも脱ぎたいですよ」
「けっこう長いあいだ眺めていましたわよ?」
「時間は相対的なものです。エレノーラ様が無意識に時間感覚を引き伸ばしてですね――」
「うんうん、そうですわね! それで構いませんから、わたくしたちのことはお気になさらず続きをどうぞ」
エレノーラは続きを促すが、私は早く着替えたいだけだ。
どけるぞ、鏡から目を逸して、鏡の前からどけるぞ。
「勘違いしています。早く着替えますから――」
「あ、ベールも付けたほうがいいですわ」
「付けます」
即答して、はたと気づいた。ウエディングドレスの試着が楽しくて仕方ない人みたいに見えてしまう。現にエレノーラも、笑いを堪らえようとしてできていない。
「…………いや、違うんですよ。ベールって頭にかぶるアレですよね? どの程度視界が塞がれるれるのか把握しておく必要がありますし、今日つけないで後日に改めて試着なんてことになったら嫌じゃないですか」
「はいはい、分かっていますわ」
絶対に分かっていないエレノーラに抗議する暇もなく、目的の物はすぐに出てきた。
下げた頭に、白いベールが降りてくる。薄い布の向こうは見えるものの、解像度はだいぶ落ちてしまった。低画質でもなお、鏡の中の私は別人のようで……。
自分でベールを捲り、顔をさらけ出してみるが違和感がある。他人にしてもらわないと練習にならないのかな。
「エレノーラ様、これ捲ってみてください」
「それをやっていいのはパトリック様だけですわ」
「そういうんじゃありませんから。どこかで引っかからないか確認しておきたいんです」
「……そういうことでしたら」
顔の前にある布切れを捲られるだけで、彼を意識することなんて全くない。
あまり乗り気ではなさそうなエレノーラが、私に近づいてくる。白で阻害された視界であるが、私よりわずかに身長の低い彼女が、手を伸ばしてくるのが分かった。
「待ってください。踏み台があった方がいいです」
「届きますわよ?」
「駄目です。エレノーラ様は身長が低すぎます」
すぐに店員さんが、部屋の隅に置かれた踏み台を持ってきてくれた。
エレノーラがスカートの裾に気をつけながら台に登り……これも違うな。
「ちょっと高いです」
「あの、パトリック様の身長を意識していますわよね?」
「違います。ちょっと高すぎると感じただけです」
彼女は膝を曲げて、姿勢をわずかに低くする。
これくらいが丁度いいかな。別に、誰の身長と同じくらいとかじゃなくて、程よい高さがこれくらい。
「上げますわよ?」
「どうぞ」
目を閉じる。ベールの端を掴まれた振動、布の擦れる音、頬を撫でる空気。目をつむっていても、ベールが上げられた感覚は良く分かった。
ゆっくりとまぶたを開けば、すぐ近くにエレノーラの顔が……なんだ、エレノーラか。
「そこまでガッカリいたします?」
「顔に出てました?」
「お顔が一気に冷たくなりましたわ」
冷めた顔をしているのはいつものことだ、私は怜悧でクールなキャラだから。指摘されたところで何の驚きも無い。
勝手に納得していたところ、ベールを両手で持ち上げたままのエレノーラが言葉を続けた。
「……目を開くまでは乙女の顔でしたのに」
「おとめ? 誰のことですか?」
「ユミエラさんですわ」
「先ほどから私を、ウエディングドレスに喜んでいる人に仕立て上げようとしてませんか」
「仕立て上げるも何も……明らかに嬉しそうですわよ?」
この子、事実を改竄する気だ!
歴史の修正は許されないことだが、案外簡単にできてしまう。デジタルデータは数十年、紙媒体も数百年、それくらい経年劣化すれば情報の読み取りが不可能になる。だが石板は三万年もの寿命がある。
つまりは、私が今日の正確な出来事を日記に残しても、エレノーラが虚偽の石板を彫ったら、三万年後の人類はユミエラが花嫁衣装で喜んでいたと信じてしまう。
石板最強。紙の本とか、電子書籍は雑魚。未来を見据えて石板に移行すべし。
私の親友が歴史修正主義者になる前に、頑張って説得しないと。
「誤解です。私がウエディングドレスを見て素敵とか綺麗とか、思うはずないでしょう? ベールを上げられたときに目を閉じてパトリックがいる妄想なんてするはずないですし、これを見て彼はどんな反応をするか楽しみにもしてないです。これを着られるのが結婚式だけなんてもったいないとも考えていません」
「そこまでは言っていませんが……そうだったのですわね」
「石板に彫り記すのだけは許しませんからね」
「石板? あの、石の? えぇ?」
エレノーラは小首を傾げて困惑しているように見えるが、とぼけたふりで誤魔化そうとしているだけかもしれない。
粘土板も許さない旨を伝えようとしたところ、白い薄布に顔をふわりと撫でられた。ベールがエレノーラの手から離れ、私の顔を隠してしまったのだ。
「ああっ、ごめんなさい」
「大丈夫ですよ。透けてますから、思ったよりは見えます」
「どれくらい見えていますの? わたくしからだと、どんなお顔かも分かりませんわ」
「確かに細かい表情は分かりませんね。ベールの外側の方が明るいので、私の方が見えているとは思います。はい、台から降りましょうか」
踏み台の上にいるエレノーラに手を貸す。白い視界の中、彼女が両足をしっかり床に下ろすところまで確認してから手を放した。
「ありがとうございます」
「私はもう着替えますね。動きづらくて、視界も制限されて、戦闘能力の低下が著しいので」
「まだ認めないつもりですのね」
彼女の誤った認識を改めるのは諦めるとして、今のうちに聞いておきたいことがある。私の顔がベールに包まれているうちに。
私は数歩下がり、エレノーラの視界に全身が映るようにする。
「あの……エレノーラ様から見て、どうですか?」
「素敵ですわよ。パトリック様も見惚れると思いますわ」
「パトリックは関係なく、エレノーラ様から見てどうですか? 私はドレスとかそういうのに詳しくないので、良く知っている人から見ると、どういう感じなのかがですね、気になるというか」
「そうですわね」
彼女は思案しつつ私を眺める。頭のてっぺんから、つま先まで。
あまりに沈黙が長いので、自分でベールを退かして様子を伺ったところ、布越しではないエレノーラの瞳が良く見えた。きらめく赤い瞳が、私の姿を映し出す鏡に思えてきて、隠れるようにベールから手を放した。
「ユミエラさんのスレンダーな上半身のラインが綺麗に出ていますわ。スカートは百合のように華やかに広がっていて、肩のレースも大人っぽく見えますわ! そして何より、先ほどのお顔が素敵で、ウエディンドレスは花嫁を際立たせるものだと良く分かりました。パトリック様も、きっと見惚れてしまいますわ」
ふーん。聞いたは良いが、特に何とも思わないので、私は素っ気なく返す。
「へー、そうですか」
そのとき、私がどんな表情をしていたのか。白い布に覆われたそれを、見た人物は存在しない。
神秘のベールに隠されて、歴史は闇に葬られたのだった。