5-04 さんぽ! 散歩いくよ!(動物病院)
◆5-04 さんぽ! 散歩いくよ!(動物病院)
日本での話。私の家では白い犬を飼っていた。犬種を聞かれても返答に困るくらいの雑種で、たまにサモエドっぽいと言われる。子犬の頃に母が知り合いから貰ってきた。
今では動物全般に怖がられる私だが、あの頃は飼い犬にナメられていた。父や母それに妹の言いつけは守るのに、私の言うことは全く聞かない。小学生の頃、グイグイとリードを引かれて、涙目になりながら引きずられるように散歩していた記憶がある。
犬というのは利口なもので、特定の単語は間違いなく聞き分けることが出来ていた。ジャーキーや散歩という言葉を聞けば、尻尾を思い切り振って喜びを露わにする。
あの日も、母の口から「散歩」のワードを耳にして小躍りしていた。信頼しきった飼い主に誘導されるがまま車に乗り込み、動物病院で下ろされる。抵抗虚しく抱き上げられて診察台に乗せられた愛犬は、裏切られた事実が信じがたいと潤んだ目で母を見上げる。
その様子を見て、私はゲラゲラと笑っていた。
そして今、私は笑われる側になっている。
「あまり動かないでくださいね」
診察台の犬がごとく白さで。私は動きを制限され、複数人に取り囲まれ、体中に得体のしれない物を巻きつけられていた。
裏切り者パトリックはいないので、共謀者エレノーラを見つめる。助けて。
「素敵! 素敵ですわ!」
駄目だ。エレノーラも私の体を好き放題している連中と同じ部類の人間だ。
私は、ウエディングドレスの試着をやらされている。尻尾を振りながら服飾店に飛び込んだ姿は、さぞ無様であったことだろう。好きなだけ嘲笑うが良い。
ボスらしきおばさまの指揮の下、四人のお姉さま方が、体のあちこちに巻き尺を当てたりと忙しそうに働いている。
着替える前に消えてしまったパトリックに向けて、私は怨嗟の声を上げたりもした。それを意に介さずにテキパキ作業するお姉さまたちは、恐らくボスおばさまに洗脳教育を施されているに相違あるまい。
こんな所に長くいたら命が幾つあっても足りない。ウキウキ気分で入店して、パトリックに「試着も採寸も、ちゃんとやれよ」と釘を刺され、よく分からないままにウエディングドレスを着させられ……おかしいと気づいたときには手遅れだった。
逃げよう。逃亡にあたり、一番の障壁となりうるのはパトリックだ。ここにはいないけれど、別室で待機しているのかな? それとなく探りを入れてみる。
「パトリックはどこにいます? せっかくなんで、見て貰った方が良くないですか?」
「お披露目するのは絶対に本番がよろしいですわ。だからわたくしが見張りをやっていますのに」
「別室にはいますよね?」
「いませんわよ。パトリック様は別な用事を済ませてくるらしいですわ」
監視役のエレノーラは重大な情報をサラリと吐いてしまう。
彼不在で、いつでも逃亡可能だと分かり、心に余裕が出てきた。そうなると気になることも浮かんでくる。
騙し討ちのかたちでウエディングドレスの試着をさせられているのは、私の逃走を警戒してのことだろう。王都に来る前に真実を告げられていたら、私は外出を断固拒否していた。それは分かる、分からないのは試着の必要性だ。
こうして実際に着てみて、サイズはピッタリ、委細問題なし。もう終了で良いにも関わらず、謎の儀式的な調整は未だに続いている。
難しい顔をして指示を出し続けるおばさまに、私は言う。
「ピッタリですよ? もう完成でいいんで、やめにしませんか?」
「駄目です」
「いや、あの」
「そこ、もっと詰めても良さそうね……そう、それくらい、仮止めしておいて。スッキリした分、フリルをもう一段……うーん、全体のバランスがね」
彼女は私の提案をピシャリと断り、以降はドレスと向き合うばかりであった。ボスを倒せば他はどうにかなると思ったが、流石ボスだけあって手強い。
不利を悟った私は、恍惚とした表情のエレノーラに標的を移す。
「エレノーラ様からも言ってくださいよ。これで十分でしょう?」
「大丈夫ですわ。ぜーったいに、もーっと素敵になりますもの!」
違うの。更に良くしようと試行錯誤したが悪化してしまう……ってのを怖がっているんじゃないの。小さすぎて着られないとか、大きすぎてゆるゆるとか、最悪を回避できれば合格なんです。
サイズは問題ない。事前に、採寸はしているんだもん。数字のみでここまでピッタリの物が完成すれば十分じゃないか。
これ以上の調整をしてどうするんだ? 結婚式までに少し太ったら終わりだぞ。
「今くらいが、少し余裕があるくらいが丁度いいですって。数ヶ月あれば多少は体型が変わりますよ」
「きっと今の体型を維持できますわ。ユミエラさんはすごい食べても太ったりしませんもの」
「私、そんなに食べます? 普通くらいですよ」
「んー、ユミエラさんは食いしん坊ではありませんわね……ある分は全部食べちゃうだけですわ」
つい先日、パトリックからも似たようなことを言われたぞ。
食べる量に関する不名誉な表現はさておき、太る方面での説得はもう一歩で達成できそうだ。今日から式当日まで、どれだけ暴飲暴食するかを力説すれば何とかなる。
この世界において、毎食ラーメンスープ完飲に相当する表現を考える。毎食パスタ……弱いな、甘い物で例えた方が無難だろうか。
頭を捻っていると、ボスおばさま……たぶん店主さん。店主さんがキッパリと言う。
「数日前には現地に行って、ギリギリまで調整するので問題ありません。たかが数ヶ月、そこまで体格は変わりません」
「……じゃあ痩せます。断食を続けて、ミイラ一歩手前くらいまでになります」
「そのときは詰め物を入れます」
ああ、そう。痩せた分だけ綿でも入れれば解決だね。
痩せるのでも駄目か。即身仏に興味はあるが、わざわざ結婚式の前にやることではない。
ガックリと肩を落とせば、白いレースやらフリルやらが纏わりつく自らの身体が視線に入ってくる。
南国に生息するやたらと派手な鳥を思い出した。あの飾り羽はオスがメスに求愛するためにあるらしい。
何が求愛の飾りだ。ヒトという種族が繁栄した一因は言葉の存在だ。複雑な発声器官を有し、脳のコミュニケーションを司る部分が発達している。そのヒトが、なぜ飾りを介して愛を伝えねばならないのか。服やらメイクやらで着飾っている暇があったら、言葉を飾れ。
……いいや、ヒトが着飾るのも無理はないか。言葉は無力だ。私は言葉で試着中止を提案したが、受け入れられることはなかった。逆に私も、言葉で調整の重要性を説かれたが、考えは変わらなかった。
どれだけ言葉を紡ごうとも、人間を変えることは難しい。どれだけ素晴らしい装飾が施された言葉でも、素直で飾らない言葉でも、無力なときは圧倒的に無力だ。
「私たちに言葉が与えられたのは、祝福でしょうか呪いでしょうか」
「あまり動かないでください」
人間の素晴らしくも嘆かわしい特徴についての思想を深めていたら、怒られた。はぁ、哲学者が不要の時代か。
曖昧すぎるコミュニケーションツールに嫌気がさした私は、逃走経路の選定を開始する。外界へ行くことは容易でも、純白の拘束具を処理するのが面倒だ。破損させた場合の損失額は想像もつかない。脱いでから逃げるか、逃げてから脱ぐか。着替えの確保も忘れないように。
計画の組み立てで忙しいというのに、エレノーラが口から無力を吐き出す。
「あ、逃げるのは駄目ですわよ」
「……そんなこと、考えてないですよ」
「あら? 急に大人しくなりましたので、逃走計画を練っていると思いましたわ」
思考が、読まれていた。
百歩譲ってパトリックなら分かる。でも、エレノーラちゃんに見透かされるほどに、私の考えることって単純で分かりやすいの?
急に押し黙ったのはあまりに分かりやすすぎたようで、彼女はやはりと表情を険しくする。
「どうして、じっとしていられませんの?」
「あまりに無抵抗だと、また似たような状況に放り込まれるじゃないですか。ドレスの試着は大人しく受ける、という負の実績を作ってしまうのです。初回は避けられなくとも、二度目三度目の受難を回避するため、できうる限りの抵抗をするのです」
結末は同じでも、過程の振る舞いは重要だ。エレノーラやパトリックが「とほほ~、もうユミエラに試着をさせるのはこりごりだよ~」ってなるくらいはやっておかないと、次以降が必ず来る。
私もちゃんと考えているのですよ。厳しい世間を乗り切るための処世術を披露したのに、エレノーラは心底呆れた様子だ。
「もうっ……。嫌なことも少し我慢すればすぐに終わりますのに」
あれ? 呆れているだけでなく、割と本気で怒っている雰囲気が感じられる。エレノーラの機嫌を損ねるようなことしたかな?
脱走を考えてはいたが、行動を起こしたわけではない。ユミエラ平常運転の、しかも未遂で、彼女がそこまで気分を害するとも考えにくいし……。
何を言えば良いか分からず、わずかな沈黙の時間が流れる。それを終わらせたのは、エレノーラの悲鳴だった。
「ああっ!」
「えっ? どうしました?」
「わたくしったら、無意識で酷いことを。ユミエラさんの花嫁衣装なのに、嫌なことでも少し我慢すればいいなんて……」
どこら辺が酷いのか私はしばし考え込む。普通に考えてドレスの試着は嫌なことだし、嫌なことを嫌なことだと明言するのは、全く酷くない。
何をそこまで気に病むのか、エレノーラはうつむき気味になる。
「ごめんなさい。わたくしまでドレスを煩わしいと言ってしまっては、ユミエラさんも本当に煩わしくなってしまいますものね」
「本当に煩わしいですよ」
「花嫁衣装は、一生に一度しか着られませんわ」
一生に一度で良かったんですけど、これと本番で二度です。という発言が口から反射的に漏れ出そうになったのを抑える。揚げ足取りだよね。
顔を上げた彼女は、私の目を真っ直ぐと見て続ける。
「だから、晴れ姿のユミエラさんには、幸せな気持ちでいて欲しかったのに……。ごめんなさい、わたくしの押しつけですわね」
「私は幸せですよ?」
「……逃げようとしましたのに?」
「世間一般、というかエレノーラ様の感覚で、ウエディングドレスを着る行為そのものが幸せなのですか? 今からドレスを着たとして、エレノーラ様は嬉しいですか?」
「わたくしが? 結婚の予定もありませんし。ドレス自体は可愛らしくて素敵だと思いますが、あまり嬉しくは……」
そうだろうと思った。
本来であれば幸せなことをしているのに面倒さを隠さない私を見て、エレノーラはやきもきとしていたのだ。だからちょっと不機嫌そうに見えた。
彼女は幸せの本質と、幸せに付随するものとを混同しているのだと思う。ウエディングドレスだけを着ても仕方ないと言うあたり、彼女も心の底では理解しているのだと思う。
「ウエディングドレスを着たら幸福になるわけじゃないんですよ。結婚式が楽しいわけでも、婚姻が嬉しいわけでもないんです。好きな人と、これからの人生を一緒に歩めることが幸せなのです」
「そうですわね。主役はユミエラさんで、ドレスではありませんわ」
「運命共同体になると誓うために婚姻手続きを踏んで。みんなにそれを報告して、華々しく祝ってもらうために式を挙げて。その舞台に相応しい綺麗なドレスを着て。キラキラで目立つそれらに目が行きがちですが、重要なのは結婚相手を愛していることなのです」
エレノーラは目を潤ませていた。そんなに泣ける話だったか? ふと気がつけば、巻き尺やまち針を持ったお姉様方も手を止めていた。
作業音が消えて静寂に包まれた中、ボスおばさまの拍手が響く。
「素晴らしい。我々に出来るのは人の幸せを大きくすることだけ。不幸な人を幸せにすることは出来ない。時々、忘れちゃいそうになるから気をつけないとね」
「分かっていただけましたか。では、もう調整はここまでにしましょう。着替えの用意をお願いします」
エレノーラの不満を解消するための会話であったが、見事な着地点に降り立つことができた。実力行使で逃げ出さずとも、言葉で何とかなっちゃったなあ。
手早く着替えて合法的に逃亡しよう。ボスおばさまの終了の合図を待っていたが、彼女は正反対の内容を口にする。
「それとこれとは話が違います。ほら、あなたたち、止まってないで作業を続けなさい」
意味があるのか分からない作業が続く。穴を掘れと言われて、掘り終わったら埋めろと命令される……そんな人たちに付き合わされる地面の気持ちだ。何のためにやっているのかも理解できなければ、いつ終わるのかも分からない。
私がため息をつくと、エレノーラは更に大きなため息をついた。そして言う。
「わたくし、ユミエラさんはユミエラさんなりの幸せを求めればいいと思いましたわ。でもやっぱり、言いますわ。もう少し嬉しそうにしてください」
「そうは言われましても……面倒なものは面倒ですからね」
「はぁ、あのユミエラさんでも、いざドレスを前にすれば喜ぶと思いましたのに」
メカメカしい装備を作れると信じていたのに、真っ白なドレスを見せられて喜ぶ人類はいない。ガス溶接機をプレゼントすると言われて、ポケットティッシュを貰ったときと同じくらいに悲しい気持ちになりますよ。
エレノーラはどのような希望的観測をしていたのだろうか。私が、花嫁衣装を眺めてウットリして、着てからは鏡の前でくるくる回って……ありえないでしょ。
絶対にありえない自分を想像して辟易しているうちに、謎の作業は終了したようだ。