4-14 幕間 パトリックは月を見上げる
◆4-14 幕間 パトリックは月を見上げる
ドルクネス領の屋敷。その主であるユミエラがいなくなってから丸一日が経とうとしていた。
秋も深まり冬が近い。夜の寒さを気にすることもなく、パトリックは夜空に浮かぶ月を見上げていた。
「今日中には帰ってくると思ったんだがなあ……」
彼女が月に行くなどという世迷い言を言い出して、リューと飛び立った後、パトリックは魔法で風を起こして後を追った。
高所への恐怖心を失っていない彼にとって、自分の魔法と言えども空高くへ飛ぶのは避けたいことだ。
しかし、ユミエラを心配する気持ちと、本当に月に行って帰ってこないのではないかという不安が少し。ユミエラ墜落時の周辺被害を危惧したのと、ユミエラが面倒なことを言い出す恐れが大部分。
「どうして追いかけてこなかったの? 私がいなくなってもいいの? ……とか言い出しかねない……」
諸々の複雑な事情が混ざり合った結果、追いかけたのだが……彼の手はユミエラに届かなかった。リューを引き止めたところまでは良かったのだが、ユミエラは単独で更に上昇を続けたのだ。
空の覇者ドラゴンの限界高度の少し下は、呼吸が苦しくなるくらいに空気が薄い。風……ひいては空気を操るパトリックの魔法も効力が弱まる。
更に高みを目指すには純粋な推力が必要となる。パトリックは高レベルの火属性魔法使いならば飛べると考えていたが、酸素が薄ければ炎も弱まる。火属性に適性がなく、ライターほどの炎しか出せない彼が勘違いするのは仕方のないことだった。
「……後先を考えずに進むべきだったのだろうか」
風魔法を封じられたパトリックだったが、ユミエラの背を追う手段は存在した。
彼女と同様に、純粋な魔力のみを噴射し反作用で飛ぶ方法だ。高位の火属性使いが飛ぶ方法と同じに思えるが、実情は全く違う。
とにかく燃費が悪い。すこぶる悪い。
人間は筋肉の収縮で動いており、必要なエネルギーは血液で運搬している。通常の属性魔法を走ることに喩えるなら、ユミエラが使用した純粋な魔力で飛ぶ方法は、血液を噴射して移動しているに等しい。
常人は思いつきすらしないし、自らの体が動く前に魔力切れを起こすであろう非常識極まるやり方だった。
貴族の出であるパトリックは元々の魔力量も多く、加えてレベル上昇分が上乗せされているが、一分を持たずして魔力が底をつくだろうというのが彼の見立てだ。
パトリックはずっと上げていた首を戻して、ユミエラの行方について考える。
「空へ上がれば上がるほど息が苦しくなる。あれより上に行けば、水中のように息ができなくなるかもしれない。月までの距離は……星よりは近いだろうが……」
地上と月までどれほど離れているのか、彼は想像もつかなかった。
仮に星々と月が同じ大きさなら、月の方がずっと近いことになる。しかし、小さな星が近くに、大きな月が遠くにある可能性もあるし、巨大な星が遠くにあるかもしれない。ならば太陽は? あの熱量に近づいたら燃えてしまわないだろうか。
それらについて、パトリックは今まで考えたこともなかった。学者のやることだ、分かったところで何になる、と思考を放棄していたことを後悔する。
思い返してみると、ユミエラは自然科学の分野に精通していたようにパトリックは感じた。
何かの折に、空が青い理由を知っていたし、この世の物質が微小の粒で構成されていることも話していた。
いつもの冗談だと聞き流してしまったが、コーヒー牛乳なるものを出す茶色い牛や、割り箸という食器が原料のめんまという食べ物も、本当は存在しているのかもしれない。
そんなユミエラが断言したのだから、異世界の人類が月面着陸したという話も真実かもしれない。
パトリックはもう一度、空に浮かぶ月を見上げた。
「ユミエラ、月にいるのか……?」
返事が無いことを理解しつつも、彼女へ問いかける。
しかし返答があった。彼の足元、暗がりの地面から声が聞こえる。
「いや、無理でしょ。いくらお姉さんでも月には行けないよ」
「……レムンか」
「お兄さんと一対一でお話するのは初めてだね」
辺り一面どこも影と呼べそうなほど真っ暗だが、闇の神レムンは丁寧にパトリックの薄い影から姿を現した。
どうにも胡散臭く、常に良からぬことを企んでいそうな少年の登場にパトリックは顔を歪めた。
「あれあれ? ボクってお兄さんに嫌われるようなことしたっけ? あ、お姉さんの近くにいる男全員が嫌いな、嫉妬深いタイプ?」
「お前、機会があればユミエラを殺す気でいるだろう? 俺も対象か?」
「ううん。お兄さん程度はどうにでもなるから違うよ。遅くなったけどレベル99おめでとう」
「ユミエラの件は否定しないんだな」
「そりゃあね。世界の時間を巻き戻したり、平行世界間を移動したり、そんな危ない存在を放っておけるわけないもんね。……まあ、レベル上限が無くなって手の出しようが無いから、対抗手段を見つけるまでは敵対しないよ」
あっけらかんと答えるレムンに気を抜きそうになるが、パトリックは警戒を解かなかった。
この腹黒い神は理由もなしに影から出てきたりはしない。ユミエラ不在の今だからこそ出てきたのだと、パトリックは考えた。
「ユミエラに用があるなら出直してきてくれ」
「影の中にいてもお姉さんには気づかれちゃうからさ、今ならここにも入れるなあって。何となく来てみただけ。お姉さんはお出かけ中なんだっけ?」
「月に行っている」
「月ねえ……。いくら物理的に高く飛んだところで、辿り着けるはずないのに……」
やはり月には行けないのかとパトリックは納得しかけたが、レムンの言葉に違和感を覚えた。
「物理的に高く飛んだところで……? それ以外の方法なら行けるとでも言うのか?」
「……お兄さんが知りたいのは、お姉さんが今どこにいるかってことでしょ?」
レムンは分かりやすく話を逸らすが、パトリックは月への行き方に興味はない。ユミエラの居場所を知っていそうな、意味ありげな口ぶりに思わず食いついてしまう。
「ユミエラの居処を知っているのか?」
「まあね。普通に地上にいるよ。今はお兄さんの所でお世話になってるみたい」
「……辺境伯領のことか?」
「ううん、もっと遠く。お兄さんの家でお兄さんと二人で過ごしてるってこと」
パトリックは、お兄さんが自分を指している言葉だと思い、まずアッシュバトン辺境伯領を思い浮かべた。
しかし会話を続けた結果、どうも彼の言う「お兄さん」はパトリックを指す言葉ではないと分かった。人物名を頑なに言わないレムンの性質が面倒だ。
「そのお兄さんと言うのは、どこの誰だ?」
「お兄さんはお兄さんだって」
「もっと詳しく」
「お兄さんのお兄さんだよ」
レムンがわざと分からないように話しているとしか思えなかったパトリックは、それ以上の会話は無駄だと打ち切る。
分かったのは、ユミエラがどこぞの男の家で世話になっていることだけ。パトリックは行き場のない苛立ちを感じた。
あのユミエラと一緒にいても問題ない男が自分以外に存在したことに、焦りも感じている。
パトリックは複雑な感情が渦巻き、表情を曇らせる。それを見て、レムンがニヤニヤと意地悪そうに笑っているのにも気がついていない。
「あ、誰か来たみたい。それじゃあボクはここで。じゃあね!」
パトリックが彼のいた場所を確認した頃には、影が僅かに揺らめいているだけだった。
耳を澄ませば、蹄の音が聞こえる。この屋敷に夜の来客は珍しい。馬で来たということは街の外から来たのだろうか。
パトリックは屋敷の正門に向かって歩き出す。
彼は閉ざされた門を一瞥した後、軽々と塀を飛び越えて表の通りに出た。
暗がりの中、蹄の音が近づいてくる。程なく体格の良い軍馬が確認でき、馬上の人物に目を凝らした。
「あれは……ルーファスか?」
ルーファスはアッシュバトン家の家臣の一人だ。パトリックは十歳ほど年上の彼に、遊んでもらった記憶がある。
同年代ということもあり、今はギルバート付きの家臣となっていたはずだ。
辺境伯家の連絡要員として来るのは不自然であるし、兄から内密な話でもあるのだろうかと憶測をつける。
軍馬は速度を落として、屋敷の前で止まった。
ルーファスは馬から降りて、パトリックに話しかける。
「夜分に失礼、アッシュバトン辺境伯家より……パトリック様でしたか」
彼は近づいてようやくパトリックの顔を認識したようだった。
なぜ夜に門の前に立っているのか疑問に思ったであろうが、すぐに懐から封筒を取り出す。
「やはりルーファスだったか。なぜここに?」
「こちら、若様からの手紙です。ここでは読めないでしょうから――」
「問題ない。ここで読める。急ぎだろう?」
パトリックは手早く封筒を開けて、月明かりのみを頼りに手紙を読み始める。
ルーファスは影を作らないように手紙を覗き込んだが、全く読めなかったようで首を傾げた。
彼が覗いてくる辺り、この内容は知っているのだろうななどと思いつつ、パトリックは兄の文字を読み進める。
一通り読み終えて、兄の顔を思い出し思わず呟く。
「レムレストとの戦争に負けろ……か」
レムン君は好きなだけ責めてください。
悪意100%で真実を分かりづらく言っています。





