変わる世界という名の変わらない世界
インターネットは新しい、それは素晴らしいという事が散々言われた。グローバリズム、テクノロジー、新しいシステムは「我々」を未来に導くと言われた。さて、それが言われて、その後どうなったか。
「我々」がスマートフォンを手にして、果たして新しい未来は来たか。新時代は来たのか。僕らがスマホを覗き込んで友人と普通のやり取りをしたり、ソーシャルゲームに勤しむのがそれほどの大した未来なのか。
最近では落合陽一という人が「日本再興戦略」なんてものを出した。「お金2.0」なんて本も店頭に置いてあった。それらは「流行り」の本であり、「店頭」においてあった。どちらも基本的にはシステム論であり、読んだ後、なんとなくポジティブになれるような本である。そしてただそれだけの本であると思う。
新しい未来が来る、これから素晴らしい世界が来るという話を腐るほど見てきたし、物理学者が「十年後には世界の謎は全て解けるだろう」と言っているのを見た事がある。その学者は十年以上経って、また本を出したが、世界の謎は全て解明などされなかった。彼は、笑ってごまかせばいいのだろうか。
僕は、彼らとは違う立場に立つ。僕の立場は、結局、権威と大衆人気しか意味のない世界では、「そんな立場すら存在しない」のであろうが、一応、自分の立場について記しておく。
僕は主体的な認識論の立場に立つ。認識論というのは、カントやウィトゲンシュタインのような超越論的な認識論という事になる。
哲学用語を使うと、きちんと理解していないだろうとか面倒な問題になるが、アバウトに考える。ベストセラー的な景気のいい、新しい未来を見せてくれると言う人は、基本的に、主体的な認識の変化については考えない。
僕はこんな風に考える。仮にこの世界が全て、(新しいテクノロジーとやらで)薔薇色に染め上げられたとしても、この「私」がいかなる認識を持っているかによって、全く違う世界を生きるのであると。そしてそれは語りえないのだ、と。
それは例えば、どんな風であろうか。ここに豚が一匹いて、豚にマラルメの詩の素晴らしさを滔々と語った所で、豚はマラルメの詩を理解しない。豚にとっては、餌の方が遥かに価値が高い。
我々の世界では、我々一人ひとりの主体的認識、その変化によって何かが変わると考えられるよりも、我々の外側の世界が変化する事によって幸福になると考える風潮がある。宝くじさえ当たれば、有名になりさえすれば、という発想は正にそれである。
もし仮に、この世界に、一人だけマラルメの詩を理解できる人物がいて、その人物のみがマラルメの詩に美を感じる事ができるとする。だが、その一人にとっての「価値」は他の人にとっては全く価値ではない。だから多数者は、マラルメなどには一切の興味を示さないであろうし、彼らはそんなものではない、「我々」にも理解できるものによって幸福になろうとするだろう。
新しい未来が来る、社会は変わる、世界は変革する、と人が言う時、その人自体は固定的であって動かない。ほんの一歩を足を伸ばせば違う風景が見えるような場合でも、多く人は足を伸ばさない。彼らは座して、自分を幸せにしてくれる何かがやってくれるを待つ。
この世に一人しか、マラルメの詩を理解できる人間がいないとしても、その人間は「マラルメの詩を理解できる世界」を生きる。他の人達にとっては無意味であり、他の人達にとっては存在しえないものであったとしても、そういう世界は「在る」と思う。だが、これは語りえない事柄である。
このたった一人の人物はそういう世界を生きる。それが幸福であるか不幸であるかは誰にも決める事ができない。だがとにかく、彼にはマラルメの詩は見えている。そうであるのだと思う。
僕はそんな風に物事を考える。もし、本当に素晴らしいものがやってきたとしても、我々の認識力が弱ければ、それ自体理解できないだろう。そしていつも、我々は我々を幸福にしてくれる何かを追い求め続け、常に、自分を変化させる事なく、自分の周囲のものによって幸福であったり不幸であったりするだろう。
主体的な認識が変化した時、世界は変化するが、語り得ない。が、それは存在する。「存在する」とはここでは、他者とは共有できない事柄であるから、本当は「存在する」とすら言えないはずである。が、僕は「存在する」と言う。これは思想ではなく、信仰である。
結論としては、これから先も、輝かしい薔薇色の未来は来ないであろう。そして現にそういう世界に生きる人は、ただそういう世界を生きるだろう。それは「彼」の世界であり、一般化された世界ではない。
一般化された世界がこの世界の全てである、いや、そうでなければならない、というのが、このグローバリズム・テクノロジー・科学重視の社会の特徴だろう。僕はそうではないと思う。
この「そうではない」は語り得ない。だから、この文章は本来、不可思議な文章という事になる。
それでもこの文章はこうして残しておく。僕ーーヤマダヒフミはそんな風に思う。では、そう思う事にどんな意味があるだろうか?
それは僕が語り得ない。それに関しては(正にそのポイントから)、他人が語り始める場所なのだろう。
〈この文章の考え方はウィトゲンシュタインから多く盗んでいる〉




