錆びた歯車2
自分は何者か。
誰でも答えてしまえるような質問に、口が動かなかった。
それがとても心細く、悲しかった。
自分は、俗にいう記憶喪失というものだったらしく、ある時期以降のことが全く思い出せなかった。頭の隅に残る一番古い記憶は、優樹と出会ったときのことだった。
やけに寂しさを感じていたことを、覚えている。
夕焼け色に染まる、静かな公園。
誰一人いない公園で、俯きながらブランコに座っていた。
なんでここにいるんだっけ、と記憶を掘り起こそうとしても、何故か穴が開いたように何も出てこない。
わかるのは、自分の名前と―――なにかとても大切なことを忘れてしまったのだということ。
俯く自分に、影が落ちる。
変に思って顔を上げると、そこには自分と同じくらいの年頃の男の子が立っていた。男の子は人懐っこそうな笑みを浮かべ、言った。
「僕、優樹。皆からは、ユキって呼ばれてるんだ。もう暗くなるけど、まだおうちに帰らないの?なら、一緒に遊ぼうよ」
一人ぼっちで公園にいる自分を気遣ってか、それとも単なる持ち前の好奇心からか。
どちらにしても、行く当てもなく途方に暮れていた自分は、少なからず優樹に救われた。
その後、優樹は普通の家庭ではなく、施設暮らしをしていることを知った。
「レイも、帰る家がないの?」
「うん」
「じゃあ、うちに来れば?先生も、子供たちも、みんないい人たちだよ」
「いいの?」
「むしろ、なんでダメなの?」
こんな調子に、優樹と同じ施設に入った。
今となっては、優樹は別のところに引き取られ、一緒に住んでいるわけではないが。
施設に入る前。
居場所が一切存在しない、という状況は、ハッキリ言ってとても心細かった。寂しかったし、苦しかった。これからは、そんな思いをしなくて済むんだ、と思ったら気が楽になった。施設の人たちも優樹の言った通り、いい人ばかりだった。
そうして暫くすると、記憶がないことを気にしなくなった。
*
―――自分は、何者か。
今となって再び考えさせられるようになるとは、その当時は思いもよらなかった。
「お前、何者だよ?」
狂気を纏った鋭い視線が、床に座り込んだ玲哉に降り注がれる。手足が震え、動けるものならこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。
けれど、たとえ体が動いたとしても、それは不可能だった。
熱い空気が、玲哉を呑み込んでいた。
先ほどの、月明かりしか見えない薄暗い部屋から想像がつかないほど、部屋の中は眩しい。勢いよく部屋中を侵食する炎が、玲哉と男を取り囲む。
「ここに入ることができたことと言い、今のことと言い、理性も飛んでねェみてェだし、堕ちたわけじゃねェのか…?」
「お、堕ち…?」
「おい、ガキ。もう一度訊く…」
男は一歩前に出て、玲哉に近付く。
玲哉は怯えて後退しようとするが、腰が抜けて動けない。
「―――お前は、何者だ?」
名前と、記憶を失っていること。
自分のことであるのに、それしかわからなかった。
悔しくて、切なかった。
優樹に出会って、初めてその二つ以外にも”自分”を得られた気がした―――気がした、だけだった。
本当は、自分のことがわからない。
「―――答えねェなら、死ねや」
玲哉の沈黙を、敵対心と受けたらしい。
男は眉を顰めると、右手を玲哉に向けた。
てっきり殴られる、と思っていた玲哉は首を傾げる。
向けられた右手は、その場を動こうとしない。それでは一体、何が起こるのか。
まるで、手品師の手品を嬉々として待っている子供のような、ある意味好奇心に塗れた視線でその右手を見た。
「…ッ!?」
その右手が、じわり、じわりと赤く光り―――やがて、炎が現れたのだ。炎は段々と大きくなり、しまいには右手を呑み込むほど燃え盛っているにもかかわらず、燃えた右手に男は何も感じていないようだった。否、むしろ玲哉には、男が”自らの意志で発した”ように見えた。
男は冷酷な表情を、微かにも変化させなかった。
これだけ皮膚が燃えていれば、激痛を感じるはずであるのに。
どういう仕掛けかはわからないが、今の一連の出来事を見て確信した。
やはり、この男は炎を操ることができる。
部屋を侵食する炎も、この男の仕業だということだ。
「いや、ちょ、まッ…」
こうやって、分析している暇は露ほどにも存在しなかったはずだ。玲哉がそれに気付いたのは、男の右手から暴れだした炎の熱さが、玲哉の鼻を掠めたからだった。
体全体に感じる、壁のような周囲の炎の熱とは別の、痛みを感じるほどの至近距離での熱に、玲哉は無理矢理現実に引き戻された。
掠めた一瞬の痛さに、無意識に体が飛びのいた。思わず鼻を手で押さえるが、火傷の痛みで再び体が跳ねる。じわぁ、と痛みで涙が滲んだ。
「…演技か、それとも本当に…」
玲哉の様子に、男は眉を顰めた。あまりに抵抗の色を見せない玲哉に、ふうむ、と考え込んだ男。
そのとき、不意に声がかかった。
「演技じゃありませんよ」
落ち着きを払った静かな声は、もちろん、泣きべそをかいている玲哉のものではない。
玲哉を見下す男のものでもない。
かと言って、床に横たわった焦げた死体のものでもない。
「その人は、”こちら側”の人間ではありません」
「ああん?」
声が、だんだんと近づいてくる。
声は中性的で、女か男かさえ区別がつかない。だが、幼さが残るその中性的な声が、この危機的状況から自分を救っていることは確かである。
「…ハクか、そりゃ一体どういうことだ」
「言葉通りです」
男は、やけに丁寧口調なその声を聞き、玲哉に視線を戻す。
玲哉も訳が分からないような、困ったような、そんな表情のまま男に視線を向ける。
三秒ほど見つめ合った。
そしてその後、男は深く深くため息をついた。
途端、二人を取り囲んでいた炎の壁が、水をかけられていたわけでもないのに、みるみる萎んでいった。縮んで、やがて消えた炎。
残ったのは、床や壁の焦げ跡のみ。
熱に囲まれていたからか、炎がなくなると一瞬寒く感じた。冷えた空気を肺いっぱいに吸った玲哉は、気が抜けたように一気に息を吐いた。
男は面白くなさそうに、右手に纏わせた炎を消す。
「お前が言うからには、本当なんだろうけどな、ハク」
男の不機嫌そうな大きな声が、部屋に反響した。
玲哉は首を傾げ、自分を救った第三者がいることを思い出した。
きょろ、と辺りを見回すと、ちょうど入り口付近に人影が見えた。
「そうだとしたら、こいつはお前の力を上回ったって言うのか?」
男が、入り口付近の人影に視線を移す。
その人影は、思ったより小さかった。
命にも関わるこの危機的な状況を一転させた、玲哉にとってはまさに救世主のようなものだった。その声の主は、あろうことか、自分よりも小柄な少年だった。
少年の着ている制服は、この近くにある中学の制服だった。ということは、中学生なのか。
ハク、と呼ばれたその少年は、入り口辺りの壁に背中を預けていた。
腕組みをしながらこちらを見て、呆れた表情を浮かべている。
よく見ると、綺麗な顔をしていた。
凛とした中性的な声はとても印象的だったが、声だけではない。容姿も一見、どちらだか見当がつかない。
長い睫毛と、静かな光を宿す大きな瞳。まだ幼さが見え隠れする丸い頬は、肌の白さが際立って見える。それに加えて、小柄で華奢な体型は、もはや美少年というよりは美少女に近い。
唯一男だと実感できるのは、薄く平らな胸と、男用の制服を身に纏っていたことくらいだ。
「カナ、相変わらず可哀想なオツムですね」
「て、てめッ…」
しかし、ハクの形の良い唇から出た言葉は、その容姿からは予想もできない毒舌だった。
男はハクの嫌味に敏感に反応し、あの鋭い視線でハクを睨んだ。
しかし、ハクはさして気にも留めていないようで、そのままこちらに歩み寄った。
「半分正解で、半分間違い、とでも言っておきましょう」
「ああ?」
「まず僕は、この人の力に負けたわけではありません」
ハクは玲哉を一瞥し、カナ、と呼ばれた男に向き直った。
「僕は〈誘導〉の能力で、この廃ビル半径1km以内のあらゆる人間に、”ここには来ない”という意思の誘導をしました。けれど、それはあくまで”普通の人間に”です」
「あ?」
「今回の僕たちの任務は、”残った暴走者の始末”だったでしょう?”昨日終えた掃除”の残党の始末をしに、ここで彼を待っていた」
“彼”と言ったハクは、床に転がる焼死体に視線を下ろした。
中学生であるはずの彼は、驚くほどの無機質な視線を死体に向けていた。
まるで、この死体が死体でないかのように。
昨日終えた掃除―――玲哉はふと、今朝のサーベラスの集団を思い出した。
死体を回収し、去って行ったサーベラスの人間。そして、浮世離れした独特の雰囲気を纏った、白い髪の青年。怪しげなその人間たちを、気味が悪い、と感じていたのは、まだ記憶に新しい。
「僕がここに来ないように”誘導”したのは、非能力者です。それは、彼―――つまり”暴走者”もまた、能力者だったからです」
「おい、わかりやすく言え」
カナの苛立ちが、目に見えてわかる。
確かに回りくどい言い方で、なおかつハクの口調はとてもゆっくりしていた。それが、カナを焦らして煽っているのか、それとも落ち着いた性格故かはわからない。
ハクは、理解していないカナを鼻で笑うと、尚も落ち着いた口調で言った。
「つまり、この人も能力者ってことです」
「あ?それならお前の力が跳ね返されたってことなんじゃねえのか?」
解せない、というように眉を顰めたのはカナだった。驚いたように目を丸くし、玲哉を見下ろす。
「半分正解で、半分間違いって言ったのはそこです。僕の力を上回って”誘導”を弾いたのではなく、もともとその”誘導”の網に引っかからなかったんですよ。この人も能力者でしたから。ただし、この人は能力者であることをよく思っていないか、あるいは…元より自覚していなかったか、どちらかです―――違いますか?」
不意に視線が注がれ、玲哉は反射的に首を縦に振った。
「そう、そう!あんたたちの言ってること、何一つ、理解してない!!」
助け舟、まさに救世主だ。
カナやハクが言っている内容が何一つ”わかっていない”ということをハクが代弁してくれたことで、玲哉はやっと恐怖が体を抜けた。
ハクは、安堵する玲哉の様子を見て、息をついた。
「サーベラスが把握していない能力者も、相当珍しいんですけどね。
能力者はもともと、生まれた時から約10年間の間には、無意識に能力が使えるようになるものですから。人間が教えられずとも立って歩くように、本能的に使えるようになります。能力を使えば少なからず騒ぎになり、そうなればサーベラスの耳に確実に入ります。そうして、あらゆる能力者は必然的にサーベラスに所属し、保護されるはずなんです」
「ちょっと待ってッ」
玲哉は声を上げた。
「…サーベラスって、あんたみたいに、魔法みたいに炎を操る能力者が集う組織ってこと?」
玲哉の視線は、カナに向けられた。
カナは口をへの字に曲げ、何やら気に食わなそうにハクを睨んでいる。
結局玲哉の問いに答えたのは、またしてもハクであった。
「能力には様々なものがあり、人それぞれです。この人相の悪い不良は、炎を操ることができます。けれど、炎を操る能力者ばかりではありません。俗にいう超能力を使える人もいれば、大して使い道のない能力しか持ちえない人もいます。でもまあ、サーベラスが能力者の集まりってところは、その通りです」
「おい」
まるで教師が生徒に授業をするように、ハクは流暢に説明をした。
不意に、カナが口を開く。先ほどのような狂気じみた雰囲気はないものの、不機嫌さがあからさまに浮き出ていた。鋭い視線に、玲哉は身震いする。
「よくもまあ、べらべらと。いいのかよ、そんなことまで言って。こいつは、”こちら側”じゃねェんだろ?」
じろ、とハクを見たカナ。針のような眼光は、どうやら玲哉にとって少々トラウマになったようだ。玲哉は息を呑んで、カナから距離をとろうとする。
一方ハクは、愚問だとでも言うように、あからさまにため息をついて見せた。
「勝手に勘違いして、巻き込んだ張本人がよく言いますね?こちらの手違いで怪我をさせかけてしまったんですよ、こちらには説明する義務があるでしょう。そんなこともわからないんですか?大学生にもなって」
「ぐ…う、うるせ」
言い負かされたカナは、歯を噛みしめる。
やはり、と玲哉はカナを見た。
大学生だったようだ。よくよく見れば、左半分を後ろで留めた派手な金髪とは打って変わって、服装はそれほど派手ではない。真っ黒な文字が大きくプリントされた白いTシャツに、グレーのスウェットズボン。
言うなれば、そう―――部屋着のような。
不意に、気付いた。
ハクという中学生も、カナという大学生も、”普通の”人間なのではないか。と言うより、玲哉と同じく”普通の”生活を送る人間なのではないか。
そうだとしたら、もしかしたら自分の知り合いの中にも、彼らと同じように普通に生活をするサーベラスの人間がいるのだろうか。
「―――それに、”こちら側”ではないと言ったのは、先程までの話です」
ハクは、大きな目をすっと細めた。
「能力者だと分かった以上、あなたにはサーベラスに所属してもらいます」
「…え」
自分は、何者なのだろう。
記憶のない玲哉は、未だに彷徨い続ける。
そうして玲哉は、偶然的に、そして必然的に。
もう錆びて動かなくなっていた一つの歯車を、再び回し始めたのだった。