錆びた歯車1
周りは火の海、熱い空気が肺に入る。
体中、汗が出るほど熱い。なのに、何故か頭だけは冷たい。思考が吹っ飛んで、血の気が引いていっているようだ。真っ白な頭の中で、ただ一つ。今朝学校に行く途中、交友関係があまり広くない自分にとっての貴重な親友との、他愛無い会話の内容だけが頭を巡っていた。
「―――サーベラスって、知ってるか?」
ごうごうと燃え盛る炎に包まれながらも、目の前の人間は余裕の笑みで俺を見下ろしている。
大学生ぐらいだろうか。自分より格段に大人びたその人間は、一見は駅などに屯っていそうな、ガラの悪い男であった。が、決定的に違うところがある。
目の前の男の目には、狂気が見え隠れしていた。
まるで、人をうっかり殺してしまいそうな。
こんな人間には、会ったことがない。
そして、もう一つ。
もし、見間違いではないのなら、この男は―――ここら一帯を呑み込んでいる炎を"操っていた"。
*
数時間前。
「え、何あれ」
高校に行く途中、珍しく遅刻せずに余裕をもって歩いていた玲哉は、ある人だかりを見つけた。人だかりだけではない。もう一つ、見慣れない集団が見えた。真っ黒なローブを纏った人間が、数人見える。
真っ黒なローブは全身を覆っていて、なんだか気味が悪い。
「え、もしかしてあれ…」
隣で、こちらも珍しく遅刻せずに玲哉と合流した、幼馴染の優樹が声を上げた。
「”サーベラス”…じゃないの?」
「は?”サーベラス”って、あの?」
サーベラス、噂ではよく聞く名前である。
国が認め、今や警察と同様の、治安を守る正義の組織となりつつある。
新聞やニュースでも、今や有名な組織ではある。だが実際は、噂ばかりが広がり、実体はよく知られていない。
実体がわからない、謎のヒーローの存在を知らされた大衆は、口々に噂をする。
何やら普通ではない力を持つ、化け物集団。
怪しい教えを吹き込む、宗教団体。
国を乗っ取ろうと企む、犯罪組織、など。
何度も言うが、実体は知られていない。
「なんか、怪しい雰囲気あるじゃん」
「た、確かに…」
「ちょっと行ってみようよ」
「あ、ちょ、待て…!」
人だかりに吸い込まれるように駈け出した幼馴染、好奇心に負けて玲哉も後に続く。
人だかりは既に百人ほどに及び、何かのイベント状態だった。人だかりは、取り壊しが確定していた廃ビルの出入り口を囲んでいた。
「あの」
「ん」
「ここ、何かあったんですか」
優樹が、野次馬の一人に声をかける。
野次馬の男は、話しかけてきた優樹と隣の玲哉を見ると、声をひそめた。
「ああ…なんでも、大量に人が死んだらしい」
「え」
玲哉が、驚きを隠せずに声を漏らす。
「君ら、サーベラスって知っているか?今回の事件、どうやらその組織が絡んでいるらしくてさ。真っ黒なローブ被っている奴ら、見えるかい?あれが、サーベラスの人間だ。今回の事件の死体を回収しに来たんだと。皆、物珍しくて集まったってわけよ」
「なるほどねぇ」
優樹は頷くと、玲哉の顔を見た。
笑顔のところを見ると、満足のいく答えを得られて嬉しいらしい。
優樹は昔から、そうだった。
好奇心旺盛で、何でもかんでも気になるらしく、あっちへ行ったりこっちへ行ったりする。そこが玲哉としては、羨ましくもあった。
けれど、後になって思い返してみれば、無理矢理にでも優樹のこの好奇心をへし折ればよかった。そんなことが、頭を過ってたまらない。
ざわっと野次馬たちがざわめき、何事かと周囲を見回す。
すると、人だかりが一斉に動き出した。
「え、なに、なに…」
玲哉も、流されるように人だかりと共に動いた。
廃ビルの出入り口から、人が出てきたのである。大きな袋をそれぞれ俵担ぎした、真っ黒なローブの人間が、五人。
そして、人だかりを端へ寄せて道を作る真っ黒なローブが、二人。
計七人が、人だかりが避けた道を悠々と抜ける。
途中で、携帯電話のシャッター音が何度か聞こえた。
「うわ、勇気あるな」
隣で優樹が呟いた。
確かに、話題としては一級品であるが、写真を撮ってサーベラスの人間に目をつけられでもしたら、と思うととてもそんな気分にはなれない。
去っていく七人。その内五人は、灰色の大きな袋を持っている。”あれ”にはきっと、死体が入っているのだろう。そう思うと、気分が悪くなる。
野次馬たちは、去っていくローブの集団を目で追っている。
優樹も、同様に。
しかし、玲哉だけは目を離した。
得体の知れない存在の、気味の悪さ。
まさにそれが、好奇心に勝ったのだった。そして、その慎重とも言える性格が、玲哉自身を巻き込んでいくとも知らずに。
目を離した玲哉は、廃ビルの出入り口に視線を移した。
「あ、れ」
七人ではなかった。
「…ッ」
もう一人、いたのだ。
野次馬たちは、相変わらずローブの集団を見ている。
視線は、廃ビルの出入り口とは逆方向。
しかし、玲哉だけは”その人”を見てしまった。
真っ黒な服、であるが、ローブではない。
袖のない真っ黒なパーカーを着た、青年。線が細いからか、サイズが合ってないからか、パーカーが大きく見える。
深く被ったフードからは、真っ白な髪が見えた。その真っ白な髪の下から覗く金色の瞳が、玲哉の目を見た。
「!?」
目が、合った。がっつり合ってしまった。
玲哉は、反射的に目をそらす。暴れた心臓が、なかなか落ち着かない。
金色の、瞳。
一瞬見ただけだったのに、深く印象に残った。吸い込まれそうなほど綺麗で、しかしどこか冷たさを感じる瞳だった。
「え…」
もう一度見ようと、再び視線を向けた。
しかし、そこにその青年はいなかった。
「あ」
玲哉は、はっと我に返る。
「おい、ユキ」
「え、何?」
未だに視線を外せない優樹の肩を掴んだ玲哉に、優樹は渋々玲哉に視線を戻す。玲哉は、携帯電話の画面を優樹の目の前に出すと、顔をひきつらせた。
「ち、こ、く」
玲哉と優樹は顔を見合わせ、一斉に悲鳴を上げた。
*
「―――で、放課後、裏庭掃除を任されたってわけ?」
くすっと笑ったのは、玲哉の数少ない友人の知里であった。
裏庭の隅で、玲哉と優樹を楽しそうに眺めている。
「見てないで手伝えよな」と優樹は不貞腐れるが、知里は笑って誤魔化すだけだった。
黒縁眼鏡に黒髪の知里は、優等生であった。物腰柔らかでありながら、知的な雰囲気を纏う知里は、入学してから学年一位の成績を保っている。
ちなみに、玲哉も優樹も下の中(たまに下の下)である。
「今日は、余裕だったんだよ。なあ、レイ」
「そうそう、ちゃーんと余裕をもって学校に向かったんだよ」
優樹の言葉に頷いた玲哉は、口を尖らせた。
「ちっくしょ、ユキがつられてなきゃ…」
「レイだって興味津々だったじゃんッ」
玲哉と優樹を交互に見た知里は、二人を宥める。
「ふうん、何かあったの?」
「サーベラスって知ってるか?」
「サーベラスって、あの?最近、有名になりつつあるよね。この前なんか、立て篭もっていた銀行強盗をたった五分で片づけた…って、ニュースで言ってた。警察より、有能なんじゃないかって皆騒いでるよね。僕は、その分得体が知れなくて気味が悪いと思うけど」
知里の言葉に、玲哉は頷いた。
「今朝、そいつらを見たんだよ」
「へえ、珍しい」
知里は、目を丸くする。
「サーベラスって、実在したんだ?新聞では写真も載らないし、テレビにも映らないよね。ネット上での目撃証言では、真っ黒のローブを被ってるって聞くけど、それだって定かじゃあないし」
「いや、実際そうだったし…」
優樹が、顎に手を当てる。
「なーんか、気になるんだよなぁ」
「何が?」
知里が首を傾げる。
優樹は知里に訊かれ、考え込んでしまう。やがて、顔を上げると言った。
「あ、そうだ。サーベラスって、正義の味方だって認識だったんだよ、俺。けど、ちょっと違うのかもしれないな。雰囲気が怖かったし…人を、殺すみたいだしさ」
その言葉に、思い返した玲哉も賛同した。
実際に、ニュースで聞くサーベラスは正義の味方そのものだった。
人助けをする組織、警察官と同等の組織。
謎に包まれながらも、功績を積んだサーベラスは、確実に人々の心を掴んでいた。
しかし、今朝見たサーベラスは、ニュースなどで得る印象とは少し違った。
もしかしたら、相手は犯罪者であったかもしれない。
サーベラスの人間に担がれていた袋の中の死体は、超がつくほどの凶悪殺人者だったのかもしれない。
けれど、ヒーローであるはずの真っ黒なローブの集団に、少なからず玲哉は、息を呑むほど冷たい印象を受けた。
そして、最後に出てきた八人目の人間も―――”普通”の人間ではないような、そんな気がしてならないのだ。
はっと我に返った玲哉は、あることに気付いた。
いつも穏やかで、柔らかい笑顔を絶やさない知里の雰囲気が、少しだけ変わったことに。
「―――そうだよ」
「サト?」
目を細めた知里。けれど、笑っているようには見えない。
「サーベラスは、正義の味方なんかじゃないよ」
玲哉は、息を呑んだ。けれど、知里の雰囲気の変化は、一瞬で消えた。
その後は、いつもとなんら変わらない知里だった。
だから、玲哉は気にも留めなかった。
「レイ、ユキ」
知里から声がかかり、玲哉と優樹は一緒に振り返る。
「今日は、早く帰りなよ」
もし、知里の変化がもうちょっと確実なものだったなら、自分は知里の”忠告”をもっと真面目に聞いていたのかもしれない。
もし、優樹の好奇心を無理やりにでもへし折っていたら、人生で一度もサーベラスと出会うことはなかったのかもしれない。
もし、今日もいつもと同じように遅刻していたのなら、”始まり”は訪れなかったのかもしれない。
もっとも、こんなことを考えたところで、もう意味はないけれど。
*
せっかく早めに掃除が終わったのに、と玲哉は嘆く。
もう自宅に近いというのに、忘れ物に気付いた玲哉は、頭を抱えて学校に戻った。
明日提出の課題である。
これを出さなかったら、今度はトイレ掃除をさせられてしまうかもしれない。
面倒くさいとは思ったが、二日続けての放課後掃除だけは避けたい、という思いが勝った玲哉は、渋々学校に取りに行ったのである。
おかげで、夕焼け空はすっかり暗くなってしまった。
そうして玲哉は、見事に、すっかり、知里の言葉を忘れてしまっていたのである。
「あ…」
今朝人だかりができていた廃ビルの前で、ふと足を止める。
日が落ちて辺りが暗くなると、より一層気味の悪さが増していた。
「ああ、もう、怖い、早く帰ろ…」
玲哉は身震いした。
今朝の、サーベラスの集団が脳裏を過った。
何とも言えない恐怖、一刻も早くここから離れたくなる。
「あ、あれ…」
離れたかったのに、それは許されなかった。
ビルの中、無人のはずなのに光が見える。
「いや、ただの光じゃない…!」
闇の中で蠢く光、ゆらゆらと影を揺らしていく。あれは、炎だ。
「火事!?」
玲哉は携帯電話を取り出してから、首を垂れる。
そういえば、電池切れてたんだった。
消防車も呼べない、とりあえず誰かいないかだけでも確かめなければ。
中途半端な正義感が沸いた玲哉は、恐怖や気味の悪さを心の隅に追いやった。
勢いのまま、ビルの中へと走りこむ。
そのとき、玲哉は気付くべきだった。
廃ビルの外は、決して人通りの少ないところではない。にもかかわらず、通行人が玲哉の他に誰もいなかったことに。
「誰か、いませんか!!」
大声を張りながら走って、階段を一気に上がる。
火は二階から見えた、この先が燃えているんだ。そう思うと、足が震える。
けれど、止まらなかった。玲哉は勢いよく階段を上がると、扉を開けた。
「誰か―――」
「あ?」
「え、あれ」
人はいた。
けれど、状況が自分の予想とは全く異なっていたため、玲哉は呆然とした。
焦げ臭さはあるが、そこには炎なんてどこにもなかった。
どういうことだろう。
薄暗いビルの一室に月明かりが窓から差し込んでいるため、辛うじて部屋の中が視認できた。
部屋の中には、男が一人いた。
男は突然入ってきた玲哉に驚いていたが、特に気にも留めていないように、視線を床に戻す―――否、床に横たわる”何か”に視線を戻した。
目が慣れ、状況が見えてきた。
「人…?」
男の視線の先には、人が倒れていた。
「だ、大丈夫ですか…!!」
玲哉は反射的に近づき、足を止めた。
だんだんと、焦げ臭さの正体がわかった。
焦げ臭さは、この人から発せられていた。しかも、床に横たわった”人”は、既に黒焦げになっていた。もう、顔の原型さえわからない。
それに気づいた途端、吐き気が込み上げた。
「おい」
背後から、声がかかる。
まずい。
この人が燃えた原因が、後ろの男だとしたら。
この現場が、殺人現場だとしたら。
発見した自分は、口封じに殺される。
「…あ」
そうとわかると、足から力が抜けた。
薄汚れた床に座り込むと、震える手を握りしめる。
殺される。
ああ、こんなところ来なければよかった。
今更ながらに、後悔する。
「てめェ、新手か?」
ゆっくりと振り返ると、男が玲哉を冷たく見下ろしていた。
新手、という言葉は身に覚えがなかったが、弁解するほど余裕もなかった。
震える体は、一向に逃げようとしない。恐怖で、涙すら出ない。
それでも、と玲哉は無理矢理体を動かした。芋虫のように床を這いつくばり、手だけでも必死に動かす。
「よォ、ガキ」
背後の声と同時に、辺りが一気に明るくなる。
ぶわっと熱い空気が押し寄せ、軽く咳き込んだ玲哉は、目を見張った。
炎に、囲まれた。
あの古臭かった廃ビルが、一面火の海と化していた。
逃げ場なんて、もうどこにもない。
背後にいた男はいつの間にか玲哉の前に立ち、笑っていた。
「サーベラスって、知ってるか?」
男の問いに、玲哉の頭の中は真っ白になった。