クローバーハーツ 続続
土曜日になった。治は部屋で壁に寄りかかって、音楽を聴いていた。バッハから、ビートルズ、マイケルジャクソンなど特にジャンルにこだわらず次々と聴いた。もちろんそれらは治の気に入った音楽だった。
治はとにかく気を紛らわせたかった。何か小説を読むという気分ではなかった。そうしないと考え込んでしまいそうだからだった。だんだんと音楽ばかり聴いていると疲れてくる。治はヘッドホンを外して放り出すと、部屋をごろごろと転がった。
そして、治は特におかしくも無く、笑いたくも無かったが、天井に向かって笑ってみた。出来るだけ可笑しい振りをして笑ってみた。なんだかそうせざるを得なかったのだ。治は自分は何をしているんだろうと思った。
笑うとは何だと治は自分に問うてみた。人は可笑しい時に笑う。でも、可笑しくも無い筈の時にも笑う。例えば、RPGとかで、魔王かなんかが勇者に倒されて「くう、ふっはははっ」とか言いながら、捨て台詞を言う。あの時、魔王は何が可笑しくって笑うんだろう。自らの負けの無様さに耐えられなくなったのをごまかすためなのだろうか。
それに人は無意識に可笑しそうな表情をすることもある。他人に対して優越感を感じると人は笑う事がある。あと、威張っている人間ほど笑われると怒り出す。可笑しくもないのに、単にごまかすために笑う事だってある。
それと、微笑というのがある。あれは実に不思議なものだ。どうとも取れる表情だ。良く言うたとえ、悪魔の微笑み、あるいは、天使の微笑みなどと人はいう。微笑みの国とか、あれはどこの国だっけ、アルカイックスマイル、ダヴィンチのモナリザや広隆寺の弥勒菩薩もそんな表情をしていたと思う。
ある人は微笑をはっきりとしない嫌なものだと言い、またある人ははっきりしないから良いのだと言う。
遥はよく子どもの頃から微笑んでみせた。そのあいまさ、その何ともいえない可愛らしさは治を幸せな気持ちにさせた。一方、かなではめったに微笑んだりしなかった。かなでははっきりとした表情をみせ、自分の感情を言葉で表現した。そう、かなでは良く、父親から習った英語で、幼い頃は雄弁に治に自己主張をしてみせた。その時のかなではまるっきりアメリカ人のように見えた。でも、かなでも時々、治を深く魅了する女性的な微笑を見せた。だが、その微笑みは遥の様に無意識に浮かんだものではなかったように思う。
どちらにせよ微笑みは治にとっても、よく分らないものだった。微笑みは笑いの一つではなく、微笑みは微笑みでしかないような気がした。治は外に目をうつした。
今日もまた雨が降っている。雨が風に吹き付けられ、ガラス窓をなめる様に流れていく。毎日雨が降っていた。湿気が身体や感覚をけだるいものにしていた。
***
遥が治にあの言葉を言った日から二週間程が過ぎた。
その間に様々な事が起こった。治の自転車が誰かに盗られ、それが見つかり、自分の手元の戻ってきたりした。学校にもまじめに通った。遥やかなでとも普通に過ごした。しかし、あの日を境にして、まず二人の間に深い地底を流れる地下水のように永く、表面には現れなかった感情が少しずつ、にじむような湧水のように、流れ出したのだった。押さえ込もうとしても、それは難しく、やがてそれに気がついたかなでが加わり、三人はそれを驚きながらも見つめ、努めて気がつかないふりをした。しかし、ふとした時、互いにそれに気がつき、それを見て誰かが、心に痛みを感じたのだった。
***
ある日、進路希望を提出して、治はそこに文筆業と書いて、次の日に担任の鴻巣に呼び出されたりした。放課後の進路指導室にいくと、斉田がいた。
斉田は廊下の壁にだらしなく寄りかかり、治を認めると、片手を挙げて
「よう、お前も鴻巣に呼び出されたのか?」
「そうだよ。お前も?」
斉田と治は壁に寄りかかって、鴻巣を待った。
程なくして鴻巣はやってくると、指導室を開け一番後ろの窓側の席に二人を座らせた。鴻巣はなぜか白衣を着ていた。鴻巣は息を切らしていて口を開くとこう言った。
「まあ、時間が無いので、言うが、とにかく君らの進路希望は受け取れない。ここで今書き直して欲しい」
「ここで?ですか」
「明日提出するからいいだろ」
「いやだめだ。学年主任に俺が今日提出しなければならんのだ」
「僕は書きましたよ」
「俺も書いたよ」
「あー、うーん、書いてあるが、野口治が文筆業で、斉田茂が役者だったな。これじゃあ困る」
斉田は茂と言うことが分った。
「なぜ困るんですか」
「君らのは具体性に乏しいんだ。文筆業と言ったって色々あるし、個人的にそれにどうとは言えんが、私としては就職なら(就職・公務員)進学なら(進学・○○大学)と書いて欲しい。他の連中のは見せられんけど、みんな具体的に書いているぞ。それに斉田のは何だ?役者ってお前、演劇とかやったことあるのか?」
「これからやるんですよ」
「ふざけるな。俺だって遊びでやっているんじゃねえんだぞ」
鴻巣はこう言うとため息をついた。斉田は鴻巣なんてどうでもいいと言う感じだった。
「じゃあ、先生は昔どう書いたんですか?」治は興味を感じたのできいてみた。
「ああ、俺か?俺は、おどろくな画家だ」
「画家ですか?先生それだって具体性が」
「へえ、先生は画家を目指していたんだ?それなのに教師やってちゃだめだろう」と斉田が言った。
「具体性の乏しいか?それとも教師なんて画家とは全く違う職業についているのが可笑しいか?」
「いや、そういうわけじゃないですよ。いや、意外だったもので」と治は言った。
「まあ、確かにな。その時もお前たちみたいに書き直したよ。画家から美術教師にな。ただ、今でも俺は絵をやっているし、教師もやっている。しかも数学のな」
「絵って何をやっているんですか」
「俺は油だね。それも人物画、自分の家族をモチーフにしている」
「油?」
「油絵だ洋画のことだな。俺はここを出て、地方の美大に行ったんだ。でも、結局、卒業しても、油絵では食えない。美術教師だって狭き門だ。そこで、俺は夜間部に編入して数学の教員免許をとって教師になったんだ」
「へーでも、絵なんて金がかかるだけで理解されないだろ」
「そうでもない。一所懸命描いた絵は誰かに評価されるし、描いた事は自分の中に残っていく。それだけで十分だ」
「自分から金を払ってでもやろうってのかよ」と斉田が笑った。治はさすがに失礼な奴だと呆れた。
鴻巣はそれを相手にせず新しい用紙を二人の前に出した。
「そういうもんだ。お前等もそのうちわかるよ。だから、そこに何かを書け、進路なんてそんなものだ」
治と斉田はこう言われ、何か書いておかなければならない気持ちになり、それぞれ、進学、私立大学文系と書いて提出した。治は帰りに一瞬、鴻巣の顔を見た。治はそれまで、鴻巣をアンドロイドのように思ってきたが、この男にも表情があり人間的な顔と明確な意思が存在する事を認めた。
***
開放され廊下に出ると、鴻巣は「気をつけて帰れ」と言った。
治はどうして教師はいつもこんな事を言うのだろうかと思った。別に自分は確かに子どもの範疇に入るだろうが、幼児ではない。もう十分に分別のつく年齢だ。治はこうした教師の気遣いが嫌いだった。それに、幾ら気をつけたって事故にあうならそれは仕方のない事だろう。それに鴻巣にうまく乗せられたような感じがして、モヤっとした感じが残った。
靴を履き、校舎を出たところで後ろから斉田がやってきた。
「おい、野口そこまで帰ろうぜ」と斉田が大きな声で言った。
「お前のどっちなの」
「俺は浦賀」
「じゃあ駅の方か?」
斉田と治は歩き出した。また、こいつと歩く事になるとはと治は思った。どうせかなでや遥のことを聞いてくるに違いない。しばらく歩いて、交差点のところで別れてしまおうと思った。
「野口、お前、鴻巣にむかついているだろう」
斉田がニヤつきながら話しかけてきた。治は良く人のことを見ている奴だと思った。そして、始終、笑っていた。
「まあ・・・・・・」
「そうだよな、ははっ、あいつ自分は教師って態度を崩しやがらねえからな」
この言葉に治は全くそうだと思った。
治は斉田を見た。治よりも頭一つ分背が高く、猫背だ。シャツのボタンをだらしなくあけ、そでをまくりあげ、ズボンも膝まで上げていた。頭は天パーで、顔は細面で目鼻立ちはくっきりとしていた。我の強そうな目には物事を思案する事のある人間の瞳の動きがあった。治はそれを認めると、頭が悪いと思っていたこの男に対する今までの評価を取り下げ、変えた。
「でも、さっきは鴻巣は面白いとおもったぜ。あいつ、絵描きなんて目指してたんだな。数学教師なのにね。ギャップ萌えだね。野口はどう思ったよ?」
「少しは人間味があるんだと思ったよ。でも、あんな事言って、上手くあしらわれたって感じだ」
「ははははっ、やっぱり野口は面白いなー。おめえがやっぱり一番面白いわ」斉田は大笑いした。
治はこいつはやはり人を観察して楽しんでいる。そういう奴かと思った。無責任な傍観者として、興味を惹く人間を探し出して、あれこれと慰みにしているのだ。治はやはりこういう輩が一番嫌いだと思った。治の中に怒りが持ち上がってきた。
「なにがおかしいんだ。人を笑いやがって、ふざけんな」と治は言った。それに治はここの所いらついていたところだった。おまけに空腹だった。この間のかなでのことと言い、こいつは腹に据えかねる。
「マジになんなよ、怒るなよ」斉田は両手を挙げると振って見せた。
「人を知ったように言いやがって、お前こそ何なんだよ。単なる覗きじゃねえか。お前のような奴は下劣だよ」
「なんだと」斉田は治の胸倉を掴んできた。治はそれを即座に振りほどいた。
「ここで帰るよ」
「待てよ、話は終わってねえ」
「お前なんかと話したくないんだ」
治ははっきりと言った。治は殴るなら殴ってみろと思った。自分は喧嘩なんてからきしやったことはないが、こんなやつと話していること自体しゃくだ。
「おい、ちょっと、待てよ」斉田は追いかけてきたが、無視して歩いた。歯科大の体育館の前に来た。
「なあ、野口、違うんだよ。俺はお前に興味があるんだよ。お前は他のやつとは違う感じがする。俺はまあ、始終ふざけている奴だと思われていて、それは事実だが、人に対して興味があるんだ。ああ、別にお前に変な関心を持っているわけじゃないぞ」
斉田のでかい声があたりに響いた。治は足を止めた。
「なあ、この間、恋人の事を色々と言ったのは悪かった。お前と話がしたいんだ。なあ、昼飯まだだろ。俺がおごるから、一緒に食っていこうぜ。ちょっと話したいことがあるんだ」
「僕のどこに興味があるんだ?」治は振り返って言った。
「そりゃ、あんなかわいい子たちと付き合っているからさ」
「それについてお前に話すことは無い」
「ああ、冗談、冗談、俺はさっきも言ったが役者を目指しているんだ。正確に言うと目指そうとしているんだ。だから、俺は人を観察している。それに気になった人間とは出来るだけそいつと話をしてみようと思っているんだ」
「役者って、映画とかの?」
「そうそう」
治は斉田の言う事をすぐには信じなかった。しかし、斉田の表情は真剣さを帯びていた。
「僕に興味って何に興味を持ったんだ?別に特別なところなんて無いぞ」
「いや、お前は他の奴等とは違っているよ。別の世界から来たような感じがするよ」
治はこの斉田の言葉に驚いた。
治は思わず斉田を注視した。斉田は歯を剥くと可笑しそうに笑った。
「まあ、だからちっとその事を含めて飯食って話をしようぜ。マックで良いよな?牛丼屋じゃ話が出来ないからな」と言った。
治もさっきまで全くなかった斉田に興味を感じた。あのことを何か知っているのかもしれないと感じた。それならこんな男でも話してみる必要もあるのではないかと思った。
「まあ、いいや、食事をつくるのも面倒だ」
「おお、悪いな」
治と斉田は三笠通りのマクドナルドへ行った。商店街の中ほどにある広めの店で、このあたりの学生たちの放課後の憩いの場になっている店だった。二人が入ると店は昼時ですこし混んで来ていた。同じ制服の見知った連中も見かけられた。
治はだいぶ腹が減っていたので、セットの他にハンバーガーを頼んだ。ドリンクはコーラにした。斉田は限定のセットを頼んだ。トレイを持って適当なボックス席に座る。
ハンバーガーは腹がへっていたから美味かった。会話もなく、二人はパンにかぶりつき食べ、フライドポテトを口に入れ、コーラを飲んだ。
しばらくすると、二人の前には包装紙や紙コップの山が出来ていた。
話の口火を切ったのは斉田だった。
「ここしばらく、お前を見ていたんだ。そして、俺は確信したんだ」
斉田はまた大きな声でいきなりこう言った。近くの中年の女性が驚きこっちを見てきた。
「なんだそれは、何を確信したんだ?」
「野口、なあ、お前はこの世界が幾つもあるってことを知っているか」
治は顔を上げて、斉田を見た。やはりこいつもここへと来た者なのだ。
「なあ、俺は紅い月を見たんだ。浦賀の駅を出て、家のある西渡船場の方へ帰り道で、頭の上にあった虹色の月が溶けて、山の中に消えていくのを見た。その日から、俺は少し変った世界に紛れ込んじまった。俺はしばらく自分がおかしくなったのかと思った」
「どうしてそれを俺に聞くんだ」
「それは、お前が遥という女の子をと一緒にいたからだ。あの子は変な言い方かもしれないけど、俺の居た世界の教室には居なかった。俺はお前とあの子が話しているのを聞くつもりはなかったけど聞いてしまった。それにお前の様子を見ていたら分っちまった。野口もこの世界とは別の世界から来たんだろうってね」
斉田の言葉には不思議な響きがあった。あるトーンで、人にある感興を起こさせる事のできる話し方だった。人の興味を惹き、不快でないくらいの下品さがあって、気を許したくなるような話かただった。治は思わず引きつけられ、治の直面している現実が全く違った色合いに色づけされたモノに書き換えられたような感覚を味わった。
「ああ、そうだ。僕も別の世界から来たんだ」
治もなぜか語りたい気分になって、月を見てからの事、かなでと遥との関係と再会、日本の現実が大きく変っていたことを話してしまった。治はなぜ自分はこいつにこんな事を話しているんだと思いつつも話すことをやめる事ができなかった。斉田はそれをだまって聞いていた。治は自分は誰かにこんなに話したかったんだということに終いに気がついた。
「なるほど、つまり、お前も訳がわからないうちにこの世界に来たと、お前もあの紅い月を見たんだな」
「ああ、見た。ウェルニー公園で水面に浮かぶ月が紅く溶けていったのを見たんだ」
「そして、お前はこの世界で、居なくなったはずの幼馴染のあの子と再会したというわけだ」
「そうだ。遥は商店街に居た。僕はそれをはじめ幻だと思った。僕はおかしくなったみたいになってそれを追った。でも次の日、遥は学校に普通に居たんだ」治は早口で言った。
「なるほどな、それにしても、そんことがあるのか、出来すぎた話だと俺は思うぞ」
「確かにそうだ。でも、なぜこうなったのか、分らないんだ」
「分るわけもないさ、確かめようが無いんだからな、それに俺たちは前の世界を知っているし、この世界に居るんだからな」
「斉田、お前は、そうだ。お前の周りで何か変わったことは起きなかったか。遥がいたように」
「それは・・・・・・俺の家族は変わりは無い。ただ、この世界では前の世界と違った事も多い」と言い斉田は下を向いた。
「確かにな、日本も別の道を歩んでいるしな」
「野口、お前はこの世界をどう思う」
「どう思うって」
「俺はこの世界は一つの願望を表した世界なんだと思っている」
「願望か、そうなのか?確かに遥ともう一度、会う事は僕の願望だったとは思う。でも、だからと言って、この世界が願望の世界だと言えるのだろうか」
「お前の言うとおりだ、だがな、ここはそういう世界なんだ。俺は少なくともそう思うんだ」
「斉田、それには何か根拠があるのか」
「はははっ、何もないさ。でもなお前の前にあの子が現れたように、俺にもあることが起こったんだ。それはある理由で口が裂けても言えないことだけど、俺はそこで思った。人にとってすなわち願望とは世界の事じゃないかってね」
斉田はこれまでになく真剣な目で両手を組みながら言った。
「なるほど、よくわからないが、お前はある経験をした。それを口では言えないがこの世界とあの異変についての何か重要な知識を得たと、そういうことか」
「そうだ。そして、俺は深く知り、それを理解した」
「まあ、何があったか知らんが、それだけでは」
「野口、あのな、俺たちは世界の神秘を信じるべきなんだ。この世界はもちろん俺たちがいた世界もだが、でなければ俺たちはこの現実をどう受け止めていいのか分らない」
「それはお前の哲学か何かか」
「いやそんな難しいのじゃない。あれを見た直感だよ」
「直感ね」
「そう直感だ。理屈じゃない。でも、それが実在しそこに信じがたい力と智慧が存在しているものだったら、それを人は感じ見たままを受け入れるしかないんだと俺は思うんだ」
斉田の話は雲をつかむような話だった。だが、治は斉田の話を否定する事ができなかった。
「確かにな・・・・・・」治は斉田の言う。存在したものなら、受け入れるしかないと言う事に反論を述べられなかった。それは治も同じ体験をしていたからだ。確かにそれは神秘的としか言いようのないものだった。
「俺はここしばらく良く分らない夢を見るようになった」斉田はつぶやくように言った。
「それは、どんな夢だ」
「気味の悪い夢だよ。外国ではないどこかの街だけど、血だらけの人間が転がっている。建物が壊れて、自動車が燃えている。そこを俺は一人歩いているんだ。そんな夢を繰り返し見るんだ」
「なんなんだよそれは」
「ああ、まさしく、なんなんだと俺も思うさ、でも妙な現実感がある」
「現実感?」
「そうだ、だけどな俺はこの夢を見る事で生まれ変わったんだ。はじめは吐き気しか感じなかったが、あの光景を繰り返し見ているとな、どうせみんなそのうちに死んでしまうのなら、やれるだけやってやろうと思うようになったんだ。それで俺は役者を目指す事にした」
斉田は笑っていた。治はもしかしてこの目の前の斉田が自分の知る斉田ではないのかもしれないと感じた。いや、もしかしたら斉田はやはり治が思いもつかないような経験をしたのかもしれないかもしれないと思った。精神の成長がこの男にあったのだと治ははっきりと感じたのだった。
「しかし、野口、お前どうするんだ?あの子らのどっちを選ぶんだ」
斉田はいつものように、治の事を聞いてきた。懲りない奴だと治は思ったがもう腹は立たなかった。
「どうしたら良いんだろう。僕は」治は驚くほど素直に自分の心情を口にした。
斉田は笑うと、治の肩を叩いた。
「まあ、なるようにしかならんだろうな。でも、遥って子が帰ってきたことは、お前にとってよかったんだろう。だったらよく考えてみるしかないだろう。後は、どうあっても話し合うしかないんじゃないのか」
「僕にはかなでも遥も選ぶ事ができないんだ」
「ふう、まあ、そう言うな。だったら、どこまでも先延ばしにしてみれば良いじゃないか」
「それでいいんだろうか?そんな事で良いんだろうか」
「さあな、俺はお前じゃないから、それはわからんが。先延ばしにする事が実は良い事もあるような気がする。あとはよく自分の気持ちを確かめて決めることしかない。すまんな、月並みなことしか言えないでな」
「ああ、別にいいさ、今日はお前と話が出来てよかったと思う。良くわからない事も多いが、意義があったと思う」
「野口、ありがとうな、俺はお前と話がしたかったんだ。だってこれを話せるのはお前だけだからな。俺は本当に誰かに話をしたかったんだ」
時計を見ると二時を回った所だった。治は立ち上がった。ゴミを捨て、店を出て斉田と治は横須賀中央駅に向かって歩き、セントラルホテルの前で別れた。斉田は京急に乗るために駅に向かい、治は汐入に向かうトンネルの方へ向かって歩き始めた。
治は歩きながら、ふと人間はどうとでも生きられるのだと思った。なぜなら、次々と起こってゆく出来事を前に様々な事を簡単に覆してしまえるのだから、だから、いつの間にか人は摩滅していくのだ。怒りも、理不尽さも、殴られて感じた痛みも結局は忘れていく、そうして、人は色々な事に慣れてしまえるのだ。
治は上り坂のトンネルを歩きながら、「リアリズム」とつぶやいてみた。しかし、その言葉はもはや治に何の力を与えてはくれなかった。治は生きた人間、そう斉田や鴻巣のような自分とは異なる人間との会話こそが何かを考えるきっかけになると言う事に気がついていた。でも、自分はどうしたらいいとそればかりを自問していた。
つづく
未完成で申し訳ないです。書ききることが出来なかった。