クローバーハーツ 続
お待たせいたしました。
治が目覚めると、地の底へと潜り込み、マントルを通過して、さらに向こうのブラジル辺りまで突き抜けてしまったような感覚を感じた。それくらい爽快だったのだ。
時計を見るとまだ六時半だった。治は起き上がり、トイレへ行き、丁寧に顔を洗った。
治は着換えると、台所に行き、ベーコンをフライパンで焼いたものを食パンに挟んだサンドを作った。それとバナナを一本、インスタントのコーヒーに牛乳を入れたカフェオレをつくりトレイにのせて部屋へと戻った。それから、ゆっくりと食事を取りながら、昨日の純一郎の言った事を思い返していた。
治は「仕方のないことだと思う」という言葉を思い出した。すると、心にモヤモヤとしたものが泥流のように湧き上がった。頭では純一郎の意見は一つの意見だと思えても、どうしても治はそれを認めることが出来なかった。治はテレビを見ながら、食パンを食べながら、考えをやめる事ができなかった。
治は自分が感じる憤りは果たして何だろうと思った。自分はなぜ純一郎の言葉にわだかまるのだろうか、そう治は思った。
純一郎は暴力を肯定していた。それがあるものとして、その行使がロボットのように認知と思考、対処というようなシステムで語られる事に自分は抵抗を感じたのだ。それが祖父の人生と仕事から身に染め付けられたようなものだとしても治は認められなかった。
純一郎の論理は明確で現実的だった。つまり、それにはそれで応じ、相手に倒される前に、相手を倒すという論理だった。力の強いものが力の弱いものを力でねじ伏せる、人間がずっと昔から続けてきた行為だった。歴史の中にあっては幾度と無く繰り返された行為であり、今も地球上のどこかで、たぶんこの瞬間も誰かが犠牲になっているものだった。治がどう考えてもそれは現実に存在していた。では、治は無力なのかと思った、そう、無力だった。
どうしようもないものだったら、暴力は肯定されるのか、個人ではない国家なら暴力の行使は許されるのか、限定された形なら、或いは正義のためなら、治の考えはぐるぐると回った。腕を組んだり、自分の顎を撫でてみたりしたが、答えは出なかった。
ふと、治は自分がなぜ暴力についてこんなにもこだわるのか、思った。治はカフェオレをトレイに戻し置くと、すぐに思い当たった。
遥だった。治は遥が居なくなったとき、治はあらゆる事を想像し、耐え難い苦しみを味わった。治は遥が連れ去られナイフで刺され血だまりに倒れる姿、頸を締められている姿を想像した。治の頭にはあるかも分らない光景が思い浮かんできてしまうのだった。その度、自分が想像した暴力を自身で憎み、恐れた。
そして、毎朝起きると、治は遥がそんな目にあっていないように毎日祈った。治はそれから、なるべく暴力を自分から遠ざけた。ニュースを見ていてそういう事件が出てくるとすぐにチャンネルを変えた。治はそうして暴力に対する強い嫌悪を持つようになったのだ。
治は純一郎の残していった新聞を開いた。『日米安全防衛協約発効迫る』の見出しが大きく打たれていた。
***
学校に行く時間になった。窓から外に目をやると、雨が降りはじめていた。窓の外にある八つ手が濡れ、その枝分かれした舌ような葉先から雨だれが滴っているのが見えた。治は少し早めに出た方が良いかもしれないと思った。治は最後の一欠けらの食パンを口に放り込み、立ち上がり、二階にいる純一郎に声をかけ、鞄を持ち、傘をさして庭に出た。
階段を登ったところで、向こうから「治君」という元気な声がした。崖の上の側道を赤い傘をさした少女がこちらに向かって来るのが見えた。セーラーに臙脂のタイ、かなでだった。かなでは前に言っていたように、わざわざ、汐入で電車を降りて、治を迎えに来てくれたのだ。治はかなでの姿を見ると、嬉しいような悪いような複雑な気持ちを感じた。
「おはよう」と治は言い手を振った。
「うん、おはよう」とかなでは一瞬、白い歯を見せた。
それから二人で傘をさし、ゆっくりと歩いていく。治はなぜかかなでの顔を見られなかった。
治とかなでは何も話さなかった。朝迎えに来る必要はないと治は言おうと思ったが、言えなかった。かなでは自分と遥との間にあるものを知っていて、それが何かのきっかけで電光石火に形を成したり、先において先に進んでしまう事を恐れているのだろうかと治は思った。ならば、治はかなでの好きにさせるべきだと思った。
「ありがとうカナ」と治は言った。
「べつにいいよ」
かなでは恥ずかしいのか顔をそむけた。
遥はヒデヨシの先のトンネル下で治を待っていた。
「おはようカナ、治」
「おはよう遥」
「おはよう」
遥はいつものように元気だった。
合流して、すぐそこの駅まで歩く。駅まで来ると、かなでを改札まで送る。今しがた、上りの電車が行ってしまったので、次の電車が来るまで間があった。
「かなで、いつも何時くらいに帰ってくるの?」
「そうね、だいたいは四時過ぎくらいね」
「学校の子たちってだいたいみんなどこから来ているの?」
遥がかなでに通学している学校の事を聞いていた。
「色々ね。鎌倉や港北、平塚から来る子もいるし、みなとみらい線や根岸線で東京から来ている子もるわね」
「東京からも来るんだ」
どうと言うこともない会話をする。
「理子とは同じクラスなの?」
「理子は違うクラスよ。それにあの子は変わっていたわ。見違えるように明るくなって、周りに気配りをしたり、はっきりと意見を言うようになったわ。それで、今やというか、理子を慕う子も多いわ」
理子は受験を成功させ、新しい学校で自信をつけ、性格にも大きな変化があったようだ。
「なんと、まあ、あの理子がねえ」
「まあね、たぶん、そういう一面があの子にはあったのよ。それが環境の変化と本人が自分に自信を持つ事で開花したわけね。私としては今の理子も良いと思う。あの子は優しくなったもの」
「なるほど、でも理子は元から優しかっただろう」
「まあ、それはそうだけど、自信がなかったから何に対しても受身だったというのも大きいわ。理子って、けっこう不満をためていたもの」
「あー、確かに、理子はいじけやすかった。私は何回も愚痴を話されたよ」と遥が言った。
「それは遥が話しやすいからだと思う。私はつい理詰めで話しちゃうから」
どうでも言い話をしていると、時間はすぐにたった。かなでは時計を見ると、鞄をもちかえて「もう行かなきゃだめね、じゃあ、また」と言った。
別れ際に「私も、治君と同じ学校へ行けば良かったよ」とかなでが言い微笑んだ。治は驚き何か言おうとすると、かなでは改札の向こうへ急ぎ行ってしまった。
治と遥は学校に向かった。
***
遥と一緒に傘をさし、歩く。遥は寒いのかカーディガンを着ていた。傘は明るい黄色だった。
朝の国道には車やバスが溢れ、これからはじまる一日へと向かおうとしていた。
雨が降り注ぎ、水は路面に、車のフロントに、街路樹の葉の上にも、等しく降り注いでいた。雨、車の音、歩く音、話し声、あるいは救急車のサイレン、それらを聞いていると、治はなぜか自分は生きているんだという強い実感を感じた。
「昨日、久々に寝る前に歌詞を思いついたんだ」と遥が言った。
「作詞?ひょっとして歌を作ったの?」
「一八四八年のマーブルチョコという題名なの」
遥は作詞して歌を作り、歌う。その歌ははっきり言えば微妙な出来だったが、治はその歌を聴かされるのが好きだった。
「どんな歌?」
「きいて治、歌ってみるわ。まだ途中までしか出来ていないけど」
遥は雨の降る十六号国道を歩きながら歌いはじめた。
雪の校庭に朝日が差して
私は真っ白の中にたった一人
空は灰色、寂しく立っていたよ
誰かがやってきては校舎に入っていく
私はそうやっていつも見送っていた
ある夜、私の中に金色の風が吹いた
鐘が鳴り響き、革命がいきなりやってきた
私は生まれ変わるような恋をしたのよ
空から色とりどりの粒が降ってきた
朱、青、黄、ピンク、緑が散らばって
モノトーンの校庭を変えたのよ
私は笑って、駆け出し拾ったわ
よろこびのマーブルチョコレート
あなたを想うマーブルチョコレート
治は遥の歌を久々に聞いた。歌詞の出来はともかくとして、遥の持つ無邪気さ、ひらめきがそこにはあった。遥は子どもの頃からそうだった。
治は目の前の少女を愛おしく思った。
「遥の歌には飛び出すような元気さがあるよ。それと僕を驚かせる。ところで一八四八年とはどんな意味なの?」
「別に、なんとなく付けてみたの。一八四八年って何があった?」
「一八四八年は確か、ヨーロッパの色々な国で革命が起こったんだよ」
「ああ、それよ、なんとなく革命って感じがしたのよ。だって、恋はその人にとって革命じゃない?」
「なるほど、確かに、当時の各国にとっての革命は」
「ちがう、ちがう、うーんそう言うことではないのよね治。実際の革命ではなくて、その人の革命に意味があるのよ」
「その人の革命?」
「そうよ。もちよ。ある日、点と地がひっくり返って、何も無いところに橋がかかるの。私たちは右往左往して、でも心には花が咲くの色とりどりの、みたいなことを私は歌いたいのよ」
遥の話には取りとめがない。イメージのままに言葉が広がり、突拍子も無いものにつながる。しかし、治にとってそれはいつも新鮮な驚きをもたらした。
「人にとっての革命か、いいたとえだけど、もっと個性的なたとえは?」
「治、あなたは文学君だからそういうけど、ここはそれでいいのよ。だって、歌ってわかりやすくなければだめなのよ」
「なるほど、そうか。雪の平原にマーブルチョコが降ってくるなんて、発想が面白いよ」
「たったそれだけ、治、もっと褒めてよ」と遥はおかしそうに笑った。気が付くと、いつの間にか歯科大学の前へときていた。雨の公園を歩いていく。
***
学校に入り、玄関から北側の階段までくると、遥がふと後ろから言った。
「ねえ、治、カナのことはどう思っているの?」
「どう思っているって?」
「治はカナのことが好きなのかってことよ」
治は歩みを止め振り返って、遥を見た。遥はほとんど表情を変えていなかった。しかし、口元が結ばれ、そこに微かに力がこめられている事に治は気が付いた。
「なんで今、そんな事を聞くの?」
「さっきカナが治を見て微笑んでいたから、ああいうカナの顔はじめてみたからね。それで修はどう思っているか聞きたくなったんだよ」
治はどう答えるべきか少し逡巡したのち、こう言った。
「ああ、好きだよ」
治の言葉は特にかすれる事も無く、はっきりと音をなした。
「私のことは?」
「好きだよ。もちろん」
「はじめて言ってくれたね。はじめて聞いたよ私」
「そうか?僕は何度か君には言った覚えがあるけど」
「いやいや、下向いてなんかウニャウニャ言っているのは聞いたけど、はっきりと聞いたのははじめてだよ治、でも、それって、ずいぶんひどいじゃない」と遥はおかしそうに笑った。
「ごめん、でも、遥が今はいるから、そう言えるんだ」
「私がいるから?どういうこと?」
「遥が居なくなって、僕は全ての事が分けがわからなくなったんだ。僕は毎日君を探していた。それはとてもつらい事だったんだよ」
「そう、治は私のことを想っていてくれたのね」
治は頷いた。
「でも、遥が居ない間、僕は毎日会うカナのことも好きだと思った。でも、カナにそれをまだ伝えていない」
「なぜ伝えないの?だって今、カナの事好きって言ったじゃない?」
「それは確かに言った」
「だったら何で?」
「どうしてだと思う?」
「それは、ああそうか、私がいなかったからね」
「そうだね。君がいなかったから、僕はカナにそれを言えなかったんだ」
「どうして?遠慮する事はなかったのに、私なんて死んだのかもしれないじゃない?言えばよかったのに。私はそうなっていても何にも言わなかったよ」
「それは僕には出来ないよ」
「カナは言わなかったの?」
「カナも言っていないよ」
「なんで訳わからないじゃない。どうなっているの?どうして、こんなふうにするの?私がいない間に変ったたんだね」
「仕方がなかったんだよ」
「こんなの、どれを取ったって、そのうち三人とも悲しくなるだけじゃない」
遥はうつむくと、言った。
「どうにも出来なかったんだよ」
「今までどおりはだめかな?」
「何もかも・・・・・・変ってしまったんだよ」
遥は少し泣いていた。治はもう何も言う事ができず立ち尽くしていた。
誰も通らない階段は朝の日で明るかった。
「ねえ、治、私とカナのどっちを選ぶの?」
遥はついに行き着いた問いを治に発した。その問いに治は答えを述べる事が出来なかった。
そこで、ちょうど予鈴がなった。その鐘はある意味救いの鐘だった。何も話すことなく、治と遥は教室に向かった。
一時間目は数学だった。とても数式を考えたりする余裕は無かった。治の心は、雷雨の前のように、徐々に乱れ始め、どうしてあんな事を言ってしまったのだろうと思った。
治は向こうに座っている遥を見続けた。遥もこちらを見てきて、何度か視線を交わす事もあった。
昼は二人で食べたが、ほとんど会話は弾まなかった。
遥はその日は母親と出かけるのだとか言う話で、学校を出たところで別れた。治はゆっくりと歩いて家に帰った。
かなでは学校が忙しいらしく、今日は来られないという電話が来た。
***
それでも、毎日が過ぎた。治は朝起きて、かなでと遥といっしょに学校へ行った。この雨の日を境に、治と遥とかなでの関係は緩やかに、傾斜に落とした玉が転がりだすように、動き始めたのだった。
6月に入り、少しづつ空は機嫌を損ねたように、曇りがちになった。世界は様々なことが起こり、また、現れ消えて行った。
そして、治はかなでと遥の三人で、横浜に行く事になった。
お読みいただきありがとうございました。