クローバーハーツ
お待たせしました。なんとか書きました。よろしくです。
雲が晴れて、道を月明かりが照らしていた。アスファルトが鈍色に見え、街灯も、家の門扉やコンクリート壁も柔らかな光に包まれていた。いつもの見慣れた光景が、ひそやかで、神秘的なものに変っていた。
坂を上り、祠の横を通って、庭に戻る。玄関から、台所に行って、流し台の上に買った食パンを置き、自分の部屋に戻った。
テレビのスイッチを入れて、学習机から椅子を出して座った。
治はリモコンで、チャンネルをあちこちに変えてみたが、見たいと思う番組は何一つやっていなかった。立ち上がり、本棚から小島信夫集を取り出すと「小銃」を読んだ。そのまま、目を通していると、どんどんと二回、戸を叩く音がした。
「治いるか」と純一郎の声がした。
「どうしたの純さん?」
治は純一郎を純さんと呼ぶ。
「話したいことがある。入って良いか?」
「うん、いいよ」
純一郎が入ってきた。
一人で居るのをあまり苦にしない性格の純一郎は普段はあまり治に話しかけたりしない。それが治の部屋までやってきて話をしたいという。たぶんよほどの事だ。
純一郎は六四歳で、三年前に妻を癌で亡くし、今は治と二人でこの家に暮らしている。純一郎は長く海上自衛官を勤め上げた。
純一郎は痩身で、姿勢もよく、若い頃から鍛え上げられたせいか、動きも機敏で、若さを失っていない。治の親戚には船乗りが多く、純一郎の父も商船大を出た船乗りだった。
「治、君も気がついていると思うが、ここは変だ。明らかに私の知っている事実と違うんだ」
治は顔を上げて、純一郎を見た。そうか、純一郎もまたこの世界へと来た者なのだ。純一郎は表向き平静な、顔をしていた。治は精神の揺らぎのない顔に、どうしてこうなれるんだろうと思った。
「うん、僕もそれは気がついていたよ。だって、ここには遥が居たんだ」
「なんだって・・・・・・、遥ちゃん?あの子が、あの子は居なくなった筈だ」
「でも、帰ってきて居たんだ。昨日、僕は遥を駅前で見かけた。その時は見間違いだと思った。でも、今日、遥は学校に転校してきて、普通に、まるで何事もないかのように、遥は帰ってきてそこにいた。僕が居なくなったことを聞いても、遥は自分が居なくなったことすら自覚していなかった」
「そうか・・・・・・そんな事が起きていたのか」
「うん、それから、遥をここに連れて来てカナと会ったんだ。カナは僕と同じで、この世界が別の世界だってわかっていた」
「なるほど、他にこの事を自覚している人間はどれくらいいるんだい?君の知る範囲で」
「僕とカナ、そして、理解しているというのか、遥も判っている。他の人たちはまだ良くわからない。でも、変な話だけど、あまり前と変らないというか、友達もほとんどそのままだよ」
「本当にそうか?何か少しでも他に変わったことはないか?そう、住んでいる場所や、今やっている事も変っていなかったのか?」
「あっ、そうだ、理子がカナと同じフェリスに行っていた」
「そうか・・・・・・私も、驚いた事がある。君は同期のSを知っているか?」
純一郎は海上自衛隊時代の同僚の名を上げた。
「あの人か、基地の開放日に護衛艦を案内をしてくれた人でしょ」
「そうあいつだ。本当に驚いたが、幕僚になったそうだ。あいつ優秀だったが、尖った考え方を持っていて、上に好かれていなかったんだ。それが、驚くべき出世じゃないか」
彼を治も知っているが、彼は戦前の軍人的な考えを持った人物だった。元々、自衛隊自体はそういう考えに肯定的な人間は少なくないが、攻撃的でかなり極端な考え方の持ち主だった。
「あの人が幕僚に、陽気でおしゃべりなんだけどね」
「そうだな、聞いてもいないのに話し出すからな、ただ、それはあいつの親切心からなんだ。始終、馬鹿みたいに喋ってはいないのさ。頭も切れるし、人間性は申し分ない。ただ、少しばかり考え方が極端だった。それが幕僚になっていた。全くどうなったんだと思ったよ」
「それをどうして知ったの?」
「退官した同期で何人か集まる話があって、それの連絡が昨日あった。あいつが家に遊びに来いと言ってな、その時、知ったんだ。世の中が何か変だというのは、今日、君が出かけたからテレビのニュースを見たときに気が付いたよ」
「おどろいた?」
「ああ、それはおどろいたよ。もちろん遥ちゃんの事もだ。だが、もっとおどろいた事がある。この世の中、この国が変っていこうとしていることだ」
純一郎は物凄く、真剣な眼差しをしていた。
「国が変っていこうとしている?」
「これを見たらわかる」そう言うと、純一郎は新聞を差し出した。そこには「日米安全防衛協約の発効来年に迫る」と大きく見出しが打たれていた。昨日の新聞だった。治は紙面をざっと読んだ。
そこには、日本と米国が日米安全保障条約を破棄し、新たに日米安全防衛協約なる条約を結ぶことが書かれていた。その内容は日本に駐留している在日米軍のほとんどがグアムか米本土に撤収することだった。新条約は新たな防衛関係をうたっていたが実質は同盟関係の大幅な縮小だった。また、紙面は日本が単独での核武装を計画している事に触れられていた。それに対して米国が大きく反対し、代替の案として韓国と日本に核爆弾を提供し、米軍の管理下で核武装することが書かれていた。しかし、日本はその案には賛成しないという。
「どうして、こんな事に?」
「私も気になって調べてみたが、二千年代以降、アメリカの後退もあり、日本は周辺国の軍事的な挑戦を受けることになった。これは私たちの世界もそうだったけど、こちらの方が激しかったんだ。実際に幾つかの事件もあった」
「憲法はどうなったの?」
「それも、変えた。この世界では、海上自衛隊はすでに原子力潜水艦や航空母艦を保有しているそうだ」
「純さんはどうおもうの?こういうことに?」
「私は、仕方のない事だと思うよ」
「仕方のない?核武装だよ」
「治、まあ、私の言う事を聞いて欲しい。私はかつて自衛隊で勤務していた時、常に職務と任務に誇りを持っていた。そして、強力な武器を預かっている事に責任感を感じていた。それは、武器を持つということはいつか誰かに使ってしまう可能性を持つ事だと思っていたからだ。だが、その事に恐れを持つと同時に使う時が来たら自分は引き金を引かなければならないと思っていたよ」
「確かにそれはわかるよ。でも」
「治、武器は暴力を秘めた可能性なんだ。人に向かって引き金を引けば、肉を切り裂き、血が流れ、もちろん多くの人間が死ぬ。だから、それが、あらゆる事を起こす可能性を、あらかじめ考えておくべきだと私は思う。実際にそうした歴史を私たちはかつて経験している。君は第二次世界大戦中に、アメリカ軍は同盟していたイギリス軍が裏切る可能性を考えていた事を知っているかい」
「それは全く知らない。純さん、でも、それはほとんど無いことだよね。イギリス軍が、ドイツ軍や日本軍と仲間になるなんてあの当時の状況から考えられないよ」
「そうだ。しかし、当時の米軍はそれを想像していたんだ。確かに有り得ないような、ばかばかしい想定かもしれない。ただ、こういう考えをする事は大切なのではないかと私は思うんだ」
治は純一郎は何が言いたいのだろうかと思った。そして、一つの言葉が浮かんだ。
「もしかして、純さんは現実主義について話したいの?考えられる事態はすべて考慮に入れるということを言いたいの?」
「そうだ、私が言いたいのは現実主義であれだ。状況は刻一刻と変化し留まる事はない。私たちはその変化の度に判断と修正を迫られる。だからこそ、客観的な現実把握とそこから拡張された想像力を持つ必要が、私たちには常にあるんだ。そして、私が思うのは普通の人たちこそそういう現実に直面する事を想定すべきだということだ。だから、冷静で、あらゆるリスクを考え判断を下す覚悟を持たなければならない。私はこの現実主義から、必要のない、愚かな争いが回避されると思っている。私が言いたいのはそれだけだ」
純一郎の意見は明快だった。現実主義とそれに導かれる論理が人間を暴力から遠ざけるという話だ。それは暴力について直視し、恐れを自覚するからだ。治は純一郎の意見を受け入れる事が出来なかった。治の中で純一郎に対して何かを言わなければならないと、様々な事が脳裏に溢れた。
「まさか、三島由紀夫が総理大臣になったから、こうなったの?」
「そう、彼は生きているんだったな、しかし、それは違うようだ。私もこの世界の戦後史を少し読んだが、彼は文化的な伝統の復興や、教育の改革に力を注いだ。もちろん、改憲や自衛隊の国軍化を進めようとしたが、あまり前進しなかった。状況が動いたのは彼が首相を退任した後だったよ」
「そうだったんだ」
「そうだ。結局、潮目のようなものが巡って来なければ、いくら押しても引いてもこういう事は動かない」
「純さんは三島由紀夫をどう思う?」
「すぐれた作家だろう。それ以外にいう事はない」
「もしかして、彼に会った事は」
「ないな。あの市ヶ谷の事件の時は、テレビで彼を見たよ。何でこんな事を起こすんだと思った。しかし、今となると不思議に彼の言う事を笑う事ができない。ただ、彼はさっき君と話した現実主義を持っていたんだろうか。そんな事を思うよ。治、君こそそこに彼の写真を貼っているが、彼のことをどう思っているんだ?」
「僕は、小説家としての彼を尊敬している。だって、あんなに一生懸命に物語について考えた人がいるだろうか?」
「なるほどな。君は小説家としての彼を尊敬しているんだな。私は、小説の事は良くわからない。小説家としての彼は魅力的な人物かい?」
「うん、とても、魅力的だよ」
純一郎は頷くと「いずれにしろ私たちはここで考えながら生きるしかいない」と言った。
***
治は純一郎が出て行ってから『櫻の夜明け』を手に取り読んでみた。常に夜明けにあって、桜の咲き続ける国、そこに暮らす人々は半ば神話の世界の神である。彼等は完全なる肉体を持ち五感の完成と発達を目指してあらゆる試みをしている。神々は死を目指している。しかし、神である彼等は死から遠い。彼等は死について、生について深く考えようとする。こう言うと、哲学的な話しなのかと思うがそうではない。物語は人間的なごくありふれたエピソードによって語られる。
やがて、彼等は夢を引き寄せる事で死を得る事を発見する。しかし、肉体は不滅である事になるが、それに対しては答えが出る事はない。最後に夏の陽光の下で緑が一杯になった桜が描きだされる。
治は緑の木をどう解釈すべきか考えた。ミシマユキヲが自身の何かを乗り越えた象徴か、それともまたそこからさらなる五感の追求を目指すのか、それとも生命の木は同時に死を孕んだ退嬰の存在でもあるということなのか分からなかった。
治はその後もしばし、ミシマユキヲの言葉とイメージがよみがえってくる中、寝つけなかったが、ほどなく疲れから深く眠った。
お読みいただきありがとうございました。ここは、書きすぎたかもしれないので、また、書き直すかもしれません。時間があればですが。次回からは、かなでと遥の話に戻ります。