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ミシマユキヲ 続続続

 薄暗くなって、庭の草木や物干し台なんかが、見えなくなってくるまで、治たち三人は会話を続けた。話題はあちこちに飛び回った。

「北鎌倉から、鎌倉へ行く山道のルートを間違えたのは治よ」

 遥は少し意地悪な笑みを浮かべていた。


「あれは、地図が間違っていたんだって」

「でも、見に行かなければならないところは行けたんでしょ」

「まあね。その代わり、遠回りになって、時間をかなりすぎて先生に怒られたけどね」

 治と遥は中学二年生の時に行った。鎌倉の社会科見学の話をしていた。このあたりの中学は社会科見学で鎌倉に行く事が多い。治と遥の中学もそうだった。事前に見学のルートを授業中に班毎に決めて、見学箇所を回って行くもので、治たちの班は北鎌倉の駅で降り、円覚寺をスタートして建長寺やら、あじさい寺、銭洗い弁天を巡って、鶴岡八幡宮にゴールするコースだった。治は班長だった。


「治君、円覚寺って、夏目漱石が座禅したってお寺でしょ」

「そう、そうなんだ。あそこは漱石の『門』にも出てくる寺で、主人公が座禅した寺なんだ。あの場面は漱石の体験が元になっているんだ」

「相変わらず。治は小説が好きだね。写真をとりまくったんじゃない?」

「いやいや、それはしていない。別に鎌倉なんて近いから、休みの日にいつでも撮りに行けるからね」


「やっぱりいったんだ」

「それは一回くらいは」

「ねえ、治、『門』ってどんな話なの」

「あの話は・・・・・・『門』は親友を裏切って、その妻と結婚して隠遁めいた生活をおくる宗助という男の話だ。宗助はあるめぐり合わせで親友と再会しそうになって、気が変になって円覚寺で座禅をするんだ」

「ふーん、何ともいえない話だね」

「まあね」

「治君は句碑の方へはいかなかったの?」


 かなでが話題を換えてくれたようだ。

「帰源院だね。あそこは一般の参拝や見学は出来ないんだ。中に漱石の句碑がある『仏性は白き桔梗にこそあらめ』という句だ」

「相変わらずだね」

「これは僕の趣味だからね」


「いつものリアリズムは?治君」とかなでが言った。

「リアリズム?なにそれ」

「リアリズムか、ああ、あれか、僕はとりあえずリアリズムと言う言葉を使う事を、控えようと思う」

「へえ」


 フラットな感じのアクセントでかなでが言った。

「まあ、現実とは信仰すべきものではないと思ったんだ。結局、人間は、その人自身の言葉、それに他の多くの人の言葉によって自分を形作っている。全くもって不確かなものなんだ。よって、自分が思うなんて絶対点はないんだよ。だから、絶対的なリアルとか、幻想とかはそもそもない。そういうものの中で人間は暮らしているわけじゃないんだよ。そんな単純なことを再認識した」


「なるほど、よく分らない理屈だけど、治君が大好きな思想?哲学的な事でなく、じゃあ、事実はどうなの?ありのままのファクトは?」

 かなでの言葉には少しだが苛立ちが含まれていた。

 なぜ、こいつは怒っているんだろうと治は思った。


「事実か。それは、変らないし、変ってしまった」

「そうね。私が現れたからね」

「確かに、それが僕たちのファクトだ。変えようのない事実だ。でも、僕たちはまた再会して、いまここでこうして生きている」

「そう、生きている。三人がいる。そして、これから、どうするか、それがファクトよ」


「だが、元の世界があり、僕たちはその世界を覚えている」

「じゃあ、元の世界に戻らなければならない?」

 遥が言った。


 治は何も言えなかった。そこは遥のいない世界だ。僕とかなでのいた世界だ。

 かなでもまた何も言わなかった。

 治は再び遥の居ない世界には戻りたくないと思った。ただ、元の世界に遥を連れてゆけるのならそれは別だと思った。それが出来なければここに居ても良いのではないだろうか。治はそう思って自分に驚いた。


 治はかなでを見た。かなでと視線を交わす。かなではどうなのだろう。

「私は、遥が居なければだめだと思う。ずっとそう思ってきたのよ。私たちは、たぶんどんなに苦しくても、三人からはじめなければだめだと思うの。治君は?遥は?どう思うの?」

「ああ、カナの言うとおりだ。遥はどう思うんだ?」

「ええ、私もそう思う」


「でも、今の状況も分らないのに、方法も分からないのに、帰るなんて無理でしょうね」

 かなでは言った。正論だった。

「じゃあ、今のまま、ここで暮らしていくと言うのはどう」


 遥は極めて気楽にこう言った。

「今はそれしかないだろうね」

「でも」


「カナ、まあ、いいじゃない。ここで私たちは食べて寝て、起きて、学校へ行って、私たちでまた生きていったら」

 遥はこう言った。

 治はかなでが示した事は確かに事実だと思った。しかし、三人のことをいきなり突き詰めてみても、何があるのだと思った。今は遥にまた会った、その事だけで良いじゃないかと思ったのだ。

 かなでは何か言いたげに治を見たが、何も言わなかった。


*** 


 時間を見たら夕食の時間だった。三人は夕食を作った。治は玉ねぎを剥き、刻み、かなでは下のスーパーマーケットに行って、鶏肉を買ってきた。なぜ鶏肉かと聞くと「気分で」と言う言葉が返ってきた。

 鶏肉は圧力鍋で水から炊く。玉ねぎも炒めて、鶏肉の鍋に入れ、カレールーを投入する。かなでが引き出しから、トマトの缶詰を見つけ、入れようと言った。だいぶ昔の缶詰だったが、


まあ、大丈夫だと思い許可した。仕上げは唐辛子を少し入れて辛くした。

 出来上がったカレーは少し水っぽかった。まあ、スープカレーだと思えば良い、家庭料理なんてこんなものだ。

 冷やしたトマト、レタスと胡瓜を切って、ガラスの器に盛った。治は自分のものだけにフレンチドレッシングをかけた。幼馴染たちはどういう訳かフレンチドレッシングが嫌いだった。治は大好きなのだが。


 遥はわかめと豆腐の味噌汁を作った。あまり出汁が効いていない薄味の味噌汁だった。かなでは残った玉ねぎを切って味噌汁に入れると言ったが、治はだめだと言った。明日の弁当に玉ねぎと豚肉の炒め物を入れるつもりだったからだ。

 二階にかなでが純一郎を呼びに行ったが、純一郎はどこかへ出かけていた。

 テーブルの上に料理を運び、飯を皿によそい、カレーは深めの容器に入れ、良い匂いが広がった。


 スプーンでカレーと飯を掬うと治は口に入れた。少し辛いがうまかった。りんごでもすって入れるとまろやかになるのだが、残念だがなかった。

 食事を取りながら、かなでは自分の回りが変化していた事を話した。それは、両親が離婚していなかった事実、ただ、別居はしていた。もう一つは理子が不合格だった筈のフェリスに入学していた事だ。確かに司の言うとおりだった。


 かなではそれらの事実は僕たちの知るものとは違うが、起こり得ないことではなかったと評した。

 確かに、理子は模試の成績はかなでと同じくらいだったし、体調が万全であがらなければ、十分に合格する可能性はあったわけだ。両親の別居は良いのか悪いのか判らないけど、その線もあり得た事だとかなでは言った。


 遥は自分がここに居ることについて、失踪について、良く認識できていない事をかなでに話した。

 かなではその話を注意深く聞いていたが「何がなんだか、わかるわけがないね」と言った。

 開け放たれた庭からは、少しひんやりとした空気が流れてきていた。やはり微かに野薔薇が香っていた。


「歌でも歌うか」と治が言った。

「やめてよ、治君の歌はまずい」

「治の歌ね、猫を追っ払うのには役に立つかもね」

「傷つくなあ、冗談だよ」と治は笑った。


***


 治はサンダルに履き替えて庭に出て、地を踏みしめた。自分の足の下には、土くれがあり、大気を吸うと肺に巡った。目の前には二人の少女が居た。

 かなでがそろそろ帰らなくてはならないと言い出した。治は汐入の駅まで送っていくことにした。遥も同時に送っていくことにする。


 いつもの階段を上がり、道へと出る。前では、はるかとかなでが歩いていた。二人は何かを話していた。

 坂を下り、街に出る。ヒデヨシの前では米兵たちは少なめだった。

 汐入の駅に着くと、かなでは遥と抱擁すると帰って行った。


***


 改札の前を抜けて、遥と商店街のバス通りを歩く、錆びた天蓋の付いている通り、通行人はほとんど居ない。昔に比べてここもかなり寂れてしまっている。

 遥と手をつないで歩く、遥は体温が人よりも高く、すぐにこちらの手が汗ばんでくる。

 遥と居ると穏やかな気持ちになった、不思議だと治は思った。


 右に折れて、谷間の狭い道、ゆるゆると続く坂道を、上って行く、両側がトンネルの踏切を過ぎ、細くなる道を進み、右側の砂岩積みの急な階段を登る。息が切れてくると、六畳位の踊り場があり、上からLEDの街灯が刺激の強い白光色で照らしていた。

 壁に向いコンクリートブロック一つ高くなって、祠があり、青面金剛像と風化して朽ちかけた地蔵が置かれ、陰になっていた。


 ふいに治は遥の手に引っ張られた。

 振り返ると野仏たちが据えられた段に遥は立っていた。

 遥の顔がちょうど治と同じ高さにあった。そう言えば昔からこの段差から背中を蹴られた事もあった。遥は微笑んでいた。

 遥は治の二の腕をつかみ引き寄せると、口を寄せ、治にキスをした。


 はじめは、口を合わせただけ、たどたどしいものから、熱の篭もったものへと変って行く。治もされるがままだったのが、互いの口腔を、舌で確かめ合う。治も遥に愛おしさが抑えられなくなった。

 治は遥を抱きしめて、しばらくの間、そうしていた。

 離れると、治は自分の体が激しい熱を持っていることに驚く。流れた互いの唾液が夜風で冷めると、そこにカレーの匂いがした。

 遥は「さっきのカレーの匂いだ」と言い笑った。


 また、階段を登り、坂を上がり、また、階段を上り、はるかの家の前へ来た。

 そこは、新しい家が建っていた。

「それじゃあ、また明日ね」

「うん、また学校で」


 そこで、治と遥は別れた。

 治はもと来た道を戻る。

 野仏の前を通り、踏切を過ぎて、坂を下り、バス通りに戻る。


***


 遥との蜜事ははじめてではなかった。十一歳の夏にはごく自然な成り行きで関係を持った。

 たぶんかなではそれを知っている。

 かなでとの関係はまた違ったものだった。彼女がクリスチャンだったからもある。


 治にとって、かなでは近しいが他者だった。治は時々かなでにまぶしさを感じた。かなでは知力に優れ、治は様々なインスピレーションを彼女から得た。

 二人はよくあの庭の見える部屋で、溢れる若さと情熱をもって、身の廻りの事から、日常のこと、世界のこと、哲学や文学など様々な事を真剣に語った。互いの意見はたびたび対立し、かなでは持ち前の知性を使ってそれを論理的に看破しようとした。治は簡単にかなでに圧倒されず、彼自身のユニークな考えで反論したり、彼女の思いもよらない角度から肯定した。


 かなでは知性的で油断のならない少女だったが、治もまたユニークで、間が抜けたところはあるが知恵者だった。かなでは治の言葉に頷き、笑い、時には勝ち誇ったように腕を組んだり、様々な表情を見せた。かなでは治の前ではありのままの姿を見せているようだった。何の気負いもなく、自由に。

 遥はそんなかなでと治を横でよく見ていた。


***


 汐入の駅前に来ると、治はコンビニに入って、無糖の紅茶と、八枚切りの食パンを買った。

 ベンチに腰掛けて、紅茶を飲んだ。様々な事があった。それらは全て事実だった。


 かなでの言う、事実は、ゆっくりと積み重なって行く、新しい現実が生まれ、その集積によって、言うなれば新しい王国が揺るがしようのない物となって築かれて行くのだ。そして、その先に新しい選択が待っている。人はその選択を選ばなければならない、生きてゆくために。


 なんだか眠気を感じた。自分は疲れていると治は思った。

 立ち上がり、飲みかけのペットボトルをレジ袋に入れると、歩き始めた。

 かなでの事を思った。これから、どうしたらいいと自分に問うてみた。もちろんすぐに答えなど出てくるはずもなかった。

 治は歩きなれた道をゆっくりと歩いった。


 つづく

そろそろ折り返したいと思います。また、よろしくです。

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