ミシマユキヲ 続続
治は遥の手を引き、教室から少し離れた、階段のところへ連れてきた。北側にある階段はあまり人が使わない。すぐそこの教室には多くの生徒たちがおしゃべりをしているはずだ。しかし、ここはとても静かだった。
階段の踊り場に来ると、治は遥の手を離した。
遥を見ると彼女は微笑んでいた。
治は押さえられない気持ちになって、遥を強く抱きしめた。
「ちょっと、どうしたの治」
「遥、君は遥だ」
「ちょっと、私は遥だって、しっかりしなよ」
「ごめん。その、あんまり久しぶりだったから」
「まあ、久しぶりは久しぶりだけどね。いきなりだね」
遥は猫のような目を細めた。
「そうだけど、君は一体どこに?今まで一体どこにいたんだ?いや、すまん。少し興奮してしまって」
「それが分らないのよ。気が付いたら、私はここにいた。治は?ここは何か変よね。昨日、家で目覚めたら、こうなっていて、よく分らないまま学校へ行けって言われて来たの」
治は遥の顔を見た。遥は冷静だった。いや、冷静と言うよりも、どこか目覚めきっていないような感じだった。
「僕は、君のいない世界にいた。僕は君を毎日、どこかで探していた。君はいなくなってしまったんだよ」
「そう、私はいなくなっていたの?たぶん良くわからない場所をさ迷っていた気がする。意識のないまま、ここではないどこかで、ずっと離れた場所で、そこにいた感じがするの」
「遥、君はいなくなっていたことが分っているの?」
「・・・・・・よく分らない。でも、カナと話をしたことは覚えているよ」
「そうか」
さっきとは違い、遥の表情には不安が表れていた。治はそれ以上追及するのをやめた。
治は右手で遥の頬に触れた。柔らかな、血の通った感覚がした。
***
治はこのまま遥を連れて、学校をサボってしまおうかとも思った。しかし、さすがに、そういう訳にも行かなかった。
治はまだ幾つも遥に聞きたいこともあった。しかし、すぐに戻らないと授業が始まってしまうので、戻った。
教室に戻ると、まだ教師は来ていなかった。
遥と治が教室に入ると、こちらを見て、他の生徒たちが好奇の目を向けてきた。斉田は面白く無さそうな目で治をガン見してきたし、女子の何人かはくすくすと笑っていた。
***
確か英語の授業だった。治はまた違和感を持った。
始まったのは、古典の授業だった。太った色白の中年の女教師が教室に身体を左右に揺らして入ってきた。彼女は嬉しそうに『源氏物語』を語りだした。彼女は『源氏物語』が好きなのだ。
講義の内容は「箒木」の「雨夜の品定め」だった。頭中将や左馬頭が女性談義をして光源氏がそれを聞く話だ。治はその話を既に知っていた。なので、あせらず入り口に張ってあるカレンダーを見た。
そして、治はまた一つ気がついた。今日は5月22日金曜日、治がいた世界では木曜日のはずだった。一日ズレているのだ。いや、治がズレているのだろうか。いずれにしろ、今日は金曜だったのだ。治は木曜日の時間割で教科書を持って来てしまったのだ。治はもうたいして驚かなかった。だが、普段は興味のないヒップホップでも聴きたい心境になった。
その日の授業が終わってしまうまで、治は気が付けば遥を目で追っていた。
遥はその日の終わりには、クラスの幾人かと言葉を交わすくらいには親しくなっていた。治は遥がそういう性格だったことを思い出した。遥と話をしていると、とにかく気楽なので、いろいろと話してしまうのだ。治はそれを思い出した。
***
昼に遥と話す機会があった。
遥は自分のことが良く分っていないみたいだった。遥が居なくなったのは中学三年の夏だ。夕方、かなでと汐入の駅前で別れたあと、遥は消えた。同級生が例の坂の上にある京浜急行の踏み切りへ遥が歩いて行くのを目撃したのが最後だった。その事について、遥に聞いてみたが、遥はそれを覚えていないみたいだった。
「不安じゃないのか?」
治は遥に尋ねた
「不安って言えばそうだけど、でも、治もここにいることはよく分らないんでしょ」
「まあね。でも、俺は遥にまた逢えたから」
「私だってそうだよ」
「うん」
「・・・・・・そうだ、カナはどうしている?」
「カナもここにいる。カナは、やっぱり、ここが変だってことを知っている」
「そう、じゃあ、いろいろ話をしないとね」
「ああ、そうだな」
授業が終わると、別の学年の教師がやってきて、点呼を取り、あっという間に解散になった。鴻巣は研修とやらに行ってしまったので、治のサボりは今日はお咎めなしとなった。
遥と一緒に帰る。その前に、遥がこの学校を見たいといったので、案内する事にした。まだ、日は高く、明るい学校の中を歩く。
治は遥のことをいつも視界においておこうとした。そうしなければ遥が瞬間でまた消えてしまうのではないかと思ったからだ。
治には隣に遥がいて一緒に歩いている事が、やはり夢に中の出来事にように感じられたのだ。
「何か部活に入るの?」
「たぶん入らない」
「そう、遥は運動が得意だったじゃない?」
「まあね。でも、それは私のすることじゃないと思う」
「また、作詞するの?」
遥は作詞をして、歌を作るのが趣味だった。
「そうね。ここが、どんなところなのか分ってからね」
「そうだね」
治は笑った。話し方がとても遥らしかったからだ。
一通り校内を案内すると、街へとでた。
三笠公園の桜の若葉は硬くなり、つつじはとうに散っていた。少し暑いくらいだった。
市庁舎の方から公園を抜け、横須賀中央の駅のほうへ行ってみた。中央公園に行く、ここからは東京湾が見渡せる。遥が行ってみたいと言ったのだ。
かつてここには砲台が置かれていたという話だ。子どもの頃、遥とかなで、それに司に理子と良くここで遊んだ。
そして、遥はここから海を見るのが好きだったのだ。
「治、あの船を見て」
遥が言った。
「どの船?」
「あそこ、あの大きな空母が二隻もいる」
「うん?空母」
「ああ、あれか、確かジョージ・ワシントンだろう」
「じゃあ、もう一隻のは?」
その時電話が鳴った。着信にかなでの表示が出ていた。
「ああ、そうだ。カナからだ。はい、治です」
「ああ、治君、あのね、私、今まだ横浜の駅にいるの。ちょっと学校の用事があって、これから行くから、ごめん後でね」
「あっ、待って、あのな、遥に会ったんだ。いま自分の隣に居るんだ」
「えっ」
「あのな、カナ信じられないかもしれないけど、遥なんだ」
「・・・・・・」
「今代わるから話してみな」
「ちょっと待ってよ」
「ああ、悪い。後にするか」
「いえ、ううん、違うの、いいよ。代わって話すから」
治は電話を遥に渡した。
「カナ、ただいま」と遥が言った。後は何を話しているか聞こえない。
「ええ、そう、そう、わたしも良くわからないの」
しばらくして話が終わり、治の手に電話が戻ってくる。
「カナ、大丈夫か?」
「ううん、大丈夫じゃないね。なんと言ったらいいか」
「うん、お前の気持ちはわかる」
「いや、それはわからないと思う」とかなでは言った。それは否定だった。
「そうか?」
「そうよ。でも、いいわ。わからなくて当然だから」
「何か気に触る事をいったか?」
「ああ、違うの、違うのよ。混乱しているのよ」
「わかった。じゃあ、俺のうちで会おうよ」
「ええそうしましょう。あと、三十分したら汐入に着くから急いでいくから」
「あとな、カナ、急がなくて良いからな」
「むー、分っているわ、それはそうと君たちは今どこにいるの?」
「中央公園だよ。海を見に来たんだ」
「そう、じゃあ、あとでね」
「ああ」
電話は切れた。
はるかと治は坂を下り、平坂の坂上にもどり、図書館の方に曲がって、治の家に向かった。
***
三十分後、かなではやってきた。
遥と治は庭でかなでを待っていた。また、野バラの花の香りがした。
かなでは珍しく、階段を下りてきたときから、自分を失しているという感じがした。かなでは大体において冷静で、感情的にならなければ、冷徹な観察者であり、優れた判断力を持った知性的な人間だと治は思っていた。それが見るからに落ち着きをなくし、動揺していた。
庭への階段を下りたところで、二人は逢った。かなでは遥を見据えていた。唇は少し開き、両目は大きく開かれ、その顔には、驚き、困惑、恐れ、懐かしさ、親しみや対抗心が微妙な感情の動きと共に浮かんでは消え別の感情に変った。人間とはこんなにも複雑な感情を持ったものなのかと治は思った。
遥は微笑んでいた。しかし、治は遥も激しく動揺しているのを感じていた。
「まあ、ここにいるのもなんだ。あがって話をしよう」
治は言った。
「そうね」
「うん、ひさしぶりだねカナ」そういうと遥はかなでの手を握った。
かなでは、治は初めて見たが、泣いた。
それから治は二人をいつもの居間に通した。
蚊取り線香に火をつけると、置き、窓を大きく開け放った。椅子を持ち寄り、座った。治の右にかなでが座っていた。左には遥が座った。
何を話したら良いか、沈黙を破ったのはかなでだった。
「私はもう何があっても驚かない」
「うん」
「私はよくわからない」
「でも、じぶんはこうして三人が再会できた事がとても嬉しいよ」
治はこう言って、二人を見た。
「まあね。でも、ばかだなあ、治は」と遥が言った。
「えっ、どうして」
「気楽だからだよ。だってここは変なところじゃないか」
「そうね。治君は気楽よね」とかなでは間を置かず言った。
「おい、俺だって、深刻に感じているぞ」
「どうだかね」
「ははっはははは」
かなでが笑った。治はこんなふうに笑ったかなでを見るのは久しぶりだった。
遥も笑った。
治はいつもみたいに台所に行くとコーヒーを煎れ、かなでに出した。遥はコーヒーが苦手だといったので、紅茶を煎れた。
三人はしばらく、談笑した。
また、短いです。申し訳ないです。