ミシマユキヲ
とりあえず出来たところまで、あまり推敲出来なかったので、出来についてはご容赦ください。
治が家帰るとすでに十時を過ぎていた。
治は台所に行くと、水を飲み。顔を洗った。
下に降りてきた、純一郎は治の顔を見ると「うん、一体どうしたんだ」と
言った。
「別に、どうしもしないよ」
「かなでちゃんと何かあったのか?」
「別に何もない。かなでとは駅で別れた」
「そうか」
「もう寝るよ」
純一郎はそれ以上、何も聞かなかった。治にはそれはありがたかった。
***
治は一階にある自分部屋に入ると、ベットに寄りかかって、ずいぶん長い間そうしていた。
治は西遥の事を考えていた。
遥がバス通りの側道を走っていく、後姿を思い浮かべていた。そして、あの踏み切りの向こうにいた遥、さっきまでのことをまた思い返した。
あれが本当に遥なのか、それとも、遥に似た誰かなのか、なんの確証もなかった。
しかし、治は、あれは遥だと思った。走り方、身のこなしが遥だったからだ。治は意識を持ってこの世界を捉え始めた時から、遥が自分の隣にいて、動き回り、言葉を投げかけ、その匂いを、身体を感じてきた。それらが、あれは遥だったと治に確証以上の確信を与えていたのである。
治と遥の関係は、言うなれば双子に近いものだった。
遥の母はこの地元で生まれ、結婚し、遥を授かった。
治の母、野口愛海と遥の母は従姉妹同士で、齢も近かった。母が自分の実家で治を出産したいと言って、この横須賀にやってきたのだ。
二人の母もまた幼馴染であり、親しく、仲が良かった。
そして、同じ病院で、治が先に生まれ、一週間後に遥が生まれた。
それからはなんでも一緒に育った。
かなでの母もまた同じ時期に同じ病院でかなでを産んだ。
三人の家は近く、いつも一緒だった。雪の日も、夏の日も、クリスマスも、正月も一緒にすごした。色々な思い出が洪水のようにあふれ出て浮かび、消えた。
治は泣きそうな気分になったが、それらの事を出来るだけ客観的に、冷めた視点で見ようと思った。治は今までそうして自分を守ってきたのだ。
すると電話が鳴った。治はすぐにその電話に出た。電話は治の通う学校の担任教師だった。
いっぺんに現実に連れ戻された。
今日はなぜ休んだ。明日は来い。単純な内容だった。治は適当に理由を見繕い、明日は行くと言った。担任は必ず来いというと切れた。
アンドロイドとの会話のような感情のない情報の交換、オートマチックで形式的なやり取りだった。前に読んだ記号学の本を思い出した。シニフィアンとシニフィエ、記号だ、この教師と会話は記号の交換なのだ。フェルディナンド・ソシュールは全く正しいとぼんやりと思った。この教師との間に人間的なつながりがないのだから仕方がない。
「もう寝よう」
とにかく横になりたかった。予習をする気はもうなかった。そして、食事をしていなかった事を思い出した。しかし、食欲はなかった。自分の横にはさっき買った弁当とパンが放り出されていた。治は弁当を冷蔵庫に入れておいたほうが良いと、立ち上がって、台所の冷蔵庫に入れた。パンは朝食べるので、流し台の上に置いておいた。
それから、冷蔵庫のコカ・コーラのペットボトルを取り出してコップに一杯注ぐ、炭酸が抜けた甘いだけの黒汁を一気に飲むと、すぐに歯を磨き、そのまま横になった。
その夜、治はほとんど眠れないまますごした。
***
外が明るくなってきたので、治は起きると、顔を洗い。歯を磨いて、台所に行って、昨日買ったパンをカフェオレで流し込んだ。それから、制服に着替え、時計を見た、電子式の時計だった。
2014年5月22日、6時5分木曜だった。いつもよりも一時間以上も早く起きてしまった。
本当はまた休みたかったが、治は制服に着換えると、部屋に行き、今日使う教科書とノートを無造作に鞄に詰め込むとテレビを点けた。
朝のニュースをやっていた。番組はスポーツの情報を伝えていた。男たちが球を蹴り合っているサッカーの映像が流れていた。治は熱心なサッカーファンではないが、それなりに興味があったので、それを目で追った。画面には治も知っている日本代表チームの選手が出ると、フリーキックで距離のあるゴールを決めた。
しかし、何かがへんだと治は感じた。
そう、彼の着ているユニフォームがなんだか見慣れないものなのだ。
治は確か、彼はイタリアで活躍していた筈だと思った。しかし、映像の彼は、どうみてもどこか別のクラブのユニフォームを着ていたのだ。
すると、テロップで「今期、スペイン一部リーグで三得点目」と表示される。
もしかしたら、治の知らない間に、移籍したのかもしれない。治は手元で電話を操作して検索してみると、彼は始めから、イタリアでプレーした事などなく、しかも、前の年の夏からスペインリーグで活躍していたことが記されていた。
腑に落ちなかったので、治はさらに見やすいノートパソコンの電源を入れると、ニュースサイトへと行ってみた。
そこには治の知らない情報が溢れていた。
大阪と京都では一月前から、小中学生の胸を切り裂き、心臓を持ち去るという連続猟奇殺人事件が起こり、社会を震撼させていた。また、イスラエルがシリアとの国境で地下核実験を行い、大きな問題となっていた。そして、ウクライナでは騒乱が続き、全く収束していなかった。
治は自分がおかしくなってしまったのではないかと思い、親指で自分のこめかみを押しながら、息を吐いた。
「なんだこれ・・・・・・・・・、なんだこれ、なんだこれは?」
治は平衡感覚を失い、椅子から転げ落ちそうになった。慌てて机にしがみつく、すると安っぽい机は大きく揺れ、机上の段の本が落ちてきた。治の好きな本、貰った本、まだ読んでいない本、格好付けるために置いてある本。
『ナボコフの文学講義』『銀河英雄伝説』『彼岸過迄』『罰せられざる悪徳・読書』『グレート・ギャッツビー』『海辺のカフカ』『抗夫』『舞姫』『午後の曳航』『マタ・ディスレンジャア』『文章読本』『羅生門』『二十世紀の文学批評』『野生の思考』『記号学の原理』『金閣寺』『夢・アフィリズム・詩』etc.
が治の頭に落ちてきて、したたかにそれらの本に拳骨を喰らわせられたのだった。
「いてー」
治は埋もれた本から顔を起こすと、本を片付けようとして、みたこともない本を見つけた。自分の蔵書のはずだと思うその本の題名は
『櫻の夜明け』ミシマユキヲ著と言う本だった。新潮文庫だった。本の装丁は三島由紀夫の文庫本と同じだ。白地の表紙に銀字で大きく『櫻の夜明け』と打たれ、横に大きな金字でミシマユキヲとあった。表紙の下部には銀色の桜の花弁一枚だけ、散っている。
治はその本を開いてみた。何かの冗談かと思った。誰かが作った本だろうと思った。しかし、治はこの本を購入した記憶はない。
本をめくっていくと、ずいぶんと淡々とした文体だった。いわゆる治がいつも読んでいる三島由紀夫の文体ではない。
しかし、要所に差し掛かると、言葉は濃く密度を高め、圧倒的な迫力を持って迫り、治を捕らえて放さなかった。治はしばし読みふけったが、全部を読んでしまうわけにも行かない。
巻末には解説があり、三島由紀夫からミシマユキヲへという部分が目に飛び込んできた。そこには、市ヶ谷の大講堂で自決する直前に三島由紀夫が自衛隊員と説得に折れた盾の会のメンバーによって取り押さえられ、警察に引き渡された事実、その後、実刑判決を受け服役した事、獄中で執筆を続け、出所後にミシマユキヲと筆名を変え、発表した長編小説『櫻の夜明け』でノーベル文学賞を受賞したことが書いてあった。
治の知る史実では三島由紀夫は1970年11月25日に市ヶ谷駐屯地において割腹自殺を遂げた筈だった。それが、その後も生存してノーベル文学賞まで受賞したというのだ。
治はネットで三島由紀夫を検索すると、この本に書かれたと同じ事実が出てきた。その上、三島由紀夫はその後、断筆すると、政治家に転身して、平岡公威として、内閣総理大臣を務めたことが記されていた。
治は文字通り絶句すると。世界がぐらりと揺れるのを感じた。治は良くわからなくなって、鏡に向かって笑ってみた。
一体この世界はどうなってしまったんだと感じた。しかし、夢ではなかった、治の部屋は外から注ぐ朝の日差しに満ち、窓から見える風景は現実の光景だった。
治は立ち上がり、自分がリアリズムを学ぶといって、壁に貼った、三島由紀夫が半裸で日本刀を持った、知る人には良く知られた、写真は、スーツ姿で笑っている写真に変わっていた。治は最近、三島由紀夫に傾倒してきたが、見たこともない表情だった。治の知っている三島由紀夫はこんな笑を浮かべたりはしない。
***
治はそのまま、座っていたが、時計を見るとそろそろ出かけなければならなかった。立ち上がるとブレザーを着て、鞄を持った。
二階に行き純一郎に登校するといい、玄関を出た。
そうだかなでに連絡を取らなければならない。あいつはどうしているだろう。かなでのことが治は心配になった。それに、あのことも、遥のことも話す必要がある。治は階段を上りながら電話を取り出すと、電子音を鳴らし着信があった。番号はかなでからだった。
「治君?えーと、治君、おはよう。あの変な事聞くけどそっち変わったことない?」
「ああ、おはようカナ、俺は大丈夫、君は?」
治はかなでが何を言いたいのか、わかった。かなでも、また、この不可解な事態に不安を感じ電話をしてくれたのだ。
「まあ、大丈夫。でも変なのよ。色々な事が変わっているというか、知らない事が起きているのよ。それが、とても色々ありすぎて」
「うん、そうだな。会って話がしたい。今日も来るか?」
「ええ、帰りに寄るから、待っていて」
「わかった、じゃあ、後で、気をつけて」
「うん、治君も」
電話をブレザーのポケットに入れると、歩き始めた。
このまま治は久々登校します。