エピローグ
よろしくお願いします。
玄関から治は「ただいま」というと二階から快活な純一郎の「おかえり」と返事が返ってきた。それから、いつもの居間で、三人はコーヒーやらジュースを飲み、一息ついた。
三人は無事を確かめ合うと、なぜかなでが一足先に帰ったかと言う話になった。さすがに一言は言ってやろうと、遥は怒っているようだった。
しかし、かなでの話を聴いてみるとかなり違っていた。かなでが言うには自分は市営地下鉄のホームで気がついたのだそうだ。関内駅のかび臭いベンチで、そして、気転を利かして探し回るよりは、先に帰って待っていたほうが良いだろうと思ったそうなのだ。結局、遥が言った、かなではかまって欲しいから、先で待っていると言うのとはどうも違ったようなのだ。
かなでは自分が疑われているということが分ると、腕を振って怒った。
「なんで、治君と遥が私のことをそんな風に思っていたなんてショックだよ。私だって高校生なんだからもうそんなことはしないよ」
「そうか、それは勘違いだったな、すまなかった」
「治君!遥、勘違いじゃすまないよ。ひどいよ」
「でも、カナは前科があるじゃん」
「子供のときのことだよ」
「まあ、じゃあ、ごめん」
「ごめんじゃないよ」
かなでは腹を立て、それきり黙りこんでしまった。こうなるとかなでは気が済んで怒りが収まるまで、だんまりをきめこんでしまうのだ。仕方ないので、治と遥は謝罪の意をこめて、かなでの気がすむまで、チャーシュー麺をおごることになり、遥もカツカレーをおごることを約束した。かなではぶつぶつと文句を言っていたが、機嫌を直した。
まあ、バイトも何もしていない高校生にとっては痛い出費だが、大切な幼馴染が無事だったと思えばたいしたこともないと治は思うようにした。ただ遥は納得が行かなかったのか、かなでの首筋をくすぐったりして悲鳴を上げさせたりしていた。
それから治はかなでを駅まで送り、遥を家の前まで送った。
***
とまあ、そんなことがあって、二、三日たつとだんだんと状況が分ってきた。
この世界の日本は高度経済成長を遂げ、冷戦を終えて、シンプルな二極の構造を失って、複雑化した世界に突入し、アジア諸国は勃興して、物憂いかげりを見せた今日の日本とそっくりな世界だった。治とかなで、純一郎、斉田がいたあの世界、三人が帰ったのはあまり変わらない日本だったのだ。
現代史は三人が知るものと変わらず、三島由紀夫はミシマユキヲではなく、すでに故人だった。彼は史実どおり1970/11/25に市ヶ谷で割腹して亡くなっていた。あの世界の治の本棚にあったあのノーベル賞の受賞理由にもなった『櫻の夜明け』も書かれることは無かったのだ。治はとてもそれを残念に思った。
数頼みの退屈な政治は続きながらも、少しずつ、現実は変化して、きな臭さも漂い始めていたが、あのミシマユキヲの生きていた日本とははるかに平和に世界だった。
でも、この日本が治の知る日本と違っていたこともある。
個人的な事だが、まず、遥がずっと自分たちの幼馴染として一緒に育ってきたという年月がここでは現実だったことだ。治にとって忌まわしい、遥の失踪は無くなっていた。治は前の事と新しい記憶を持っていた。その記憶を思い出すと、治は実際に味わったはずのないことだと思うのに、ちゃんと感情が伴った。治はそれをなんとも奇妙に感じた。
治は学校の道すがらでそれを遥に言ってみたが、遥は「わからないけど、まあ、いいことじゃん」と言うと笑うだけだった。治はそれを聞くとそれ以上考えることをやめた。その通りで、良いことだったと、ただ思うことにしたのだった。
治は幸福な奇跡が、無慈悲な非日常を前に損なわれてしまわないように何もかもそっとしておくことにしたのだった。でも、全てではないにしても、このことをいつか小説に書いてしまうかもしれないなと思った。
もう一つは、かなでの境遇も少し変わっていたことだった。かなでのアメリカ行きは無くなっていたことだ。それはこの世界で、とても変な話だけど、日米安全保障条約が保たれているからだった。
あの日本では、安保は破棄され、米海軍横須賀基地は返還されて米軍は撤退することになっていた。かなでの父のグレン少佐はサンディエゴへの転勤を命じられ、それを断って、海軍を辞め、家族でボストンに帰って財団を継ぐはずだった。しかし、それはなく、グレン少佐は米海軍横須賀基地に勤務し、かなでの母親の希恵さんは医師として働いていた。そして、希恵さんは秋から都内の大学病院で研究に従事することとなり、病院の近くに住むことになり、別居と言う形になっていた。離婚は無くなっていたのだ。かなでのこのことを聞いてみると、よく分らないけど、そうなったのだということだ。
また、純一郎も斉田もあのことを覚えていた。治と斉田は時々、会話をするようになった。純一郎とも治はこの世界のことや、未来についてよく話をするようになった。前はそんなことは絶対に話さなかったのにだ。
とりあえず、そういうことがあって、三人は同じように生活して家族と過ごし、また元の生活に戻ることになった。
***
あとしばらくして最も驚くことがあった。かなでがフェリス女学院をやめてこっちに転校してきたことだ。ホームルームで自己紹介をして席についたかなでに、治は話しかけた。
「どうして?こっちに」
「そうね。私も思うとおりに生きてみようと思ったのよ。お父さんも一人になっちゃったからね」
「なんといったらいいか、私立、辞めて良かったのか?あんなに一生懸命に勉強して入ったのに」
「いいんだよ。フェリスに入ったのは、あれはほとんど母さんの為だったからね」
「そうか」
「あらら、厄介なのが来たね。まあ、また、よろしくだね」と遥が笑った。
「こっちこそよろしくだよ遥、だって、私が治君をあきらめるわけがないもの」とかなでが返した。
かなでの転入はちょっとした評判になった。この平凡な私立高校に起きた事件になった。かなでを見ようと、ちょこちょこと人が来たからだった。たいてい男子で、中等部以上だった。驚くことに女子や初等部の子も混じっていた。よく分らないがまあそれだけかなでには人を惹きつける何かがあるのだろう。
治にはそれが意外だったし、少し誇らしく感じたり、気持ちがざわつくことがあった。中には治とかなで一緒にいるところに来て、治を笑ったりするやつもいた。
でも、治がかなり不愉快に思ったのは、かなでがグラビアアイドルか何かと勘違いして、連中は何か囁きあってにやけたり、中にはかなでの胸を指差したりして、口笛を吹くものまでいたことだった。さすがに治はどうかと思い、文句でも言ってやろうとかなでに聞いてみたのだった。
「まあ、いいじゃない。男の子たちがこんな反応を示すなんて、共学でなきゃないことだし」とかなではどこ吹く風に言った。
「カナがそういうなら、良いけど」
「もしかして焼いてくれたの」
「そういうわけではないけど、なんか気分が悪く感じた」
「治君ちょっと・・・・・・はあっ、ははははっ、良いわ、まあ、治君らしいわ」とかなでは大笑いした。
横で聞いていた遥が、肩をすくめ治の背中を叩いてきた。
「カナが呆れている、治、あんたらしいよ」
「君たちは同じことを言うんだね」
「でも、まあ余計なことかもしれないけど、あんたがそんなのだと、カナを他の男に取られるよ」
「うん、うん、遥の言うとおりだよ。私だってこんなに人気者だし、どうなるかわからないよ。本当に心配したほうが良いよ治君」ジト目でかなでがこんなことを言った。
「まあ、確かにそれは困る」
「治、言ってくれるじゃない。私としてはカナが誰かとくっついてくれたほうが良いんだけどね」そう言うと遥は心底おかしいといった感じで笑った。
***
こうして世界は変わらず続いていくのかと思う。
でも、変わったことも多い。その一つがかなでとの仲が大きく進んだこともだ。
七月に入り、治は、かなでの部屋で、結ばれた。学校が終わり、「部屋に来ない」と言われていったら、一緒に食事をして、そのまま、なんとなくそうなったのだった。かなでの身体はとても魅力的だったということを治は覚えている。
クリアで新鮮な快楽と暴発する衝動という誰かの詩人の言葉を治は帰りの赤い電車の中で思った。それからは、大体、週に二回位はかなでと寝ている。
ずいぶんな変化だとかなでは休み時間に、笑ってこう云った。あんな世界に行ったから、色々なものが変わっちゃったんだそうだ。「自分は一度死んだから」とかなで言った。よく分らないけど、神様の問題はかなでの中で小さくなったのかもしれない。治は平家物語の授業を聞きながら、次はどんなことを試してみようとか、窓の外を見ながら考えている。
遥とも依然として関係は続いている。遥とは気が向いたとき、たいてい治の部屋でやっている。純一郎が留守のとき、遥の持ってきた洋楽をかけながら、治はいつものようにだらだらとセックスをする。
遥は当然、かなでの変化に気がついていて、やたらにかなでとのセックスについて聞きたがる。しかし、それは教えない。冗談なのか本気なのか「今度、カナも混ぜてやってみない」と遥は言う。治はそれを断っている。すると遥はあろうことか「私からさそってみる」と言い出した。治はそれもやめるように言ったが、遥が治の言うことを聞くわけがないのだ。まあ、とんでもない言い合いになって、蜂の巣をつついたような騒ぎになるかもしれないけど。
治は遥が帰った後、布団を片付けながら、一体全体、僕ら三人はこれからどこへ行きどこへ向かっているんだろうと思う。なんか南の島に行った、画家みたいな心境で。
***
まあ、こんな感じで、僕らは今を送っている。でも、何かが、解決したわけでもないし、はじまった訳でもない。この世の中だって同じかもしれない。家族だって社会だって、いつも全てがまだ宙吊りのままだ。ダモクレスの剣みたいに。
でも、治はいずれやはりどちらかを選ばなくてはならないのかもしれないと思う。またあの世界であったみたいに、喧嘩になるかもしれない。それとも、もしかしたら、ご都合主義のライトノベルみたいにというか、三人と付き合って、このままの関係をどこまでも続けていくのかもしれない。そんな馬鹿な、そんな夢みたいなと思うことだってこの世には起こりうるかもしれない。はたまた、二人と別れることだってあるかもしれない。未来は常に確定していないものなのだ。治はなるようになるだろうと思っている。
***
夏のはじめのひぐらしの鳴きはじめた日、治はかなでの家から帰ると疲れて寝てしまっていた。目覚めて、だんだんとクリアになってくる思考の中で、治はあの月に吸い込まれていくとき、あの世界に残った自分たちが居たことをはっきりと思い出した。なんで自分はそんな重要なことを忘れていたんだろうと思った。
あの世界に残った自分たち、彼らはどうしているのだろうか、核兵器もあって、戦争の気配すらした。もう一つの日本に残った彼らは、あの世界で、言い合いを続けているのだろうか、それともまったく違った関係を築いているのか治は考えてみた。彼らよりは僕らは幸せなのだろうか、そんなことを思ったが、よく分らなかった。
治は起き上がると何か本を読みたくなって本棚を見た。そして、あの本、あの世界でミシマユキヲが書いた。『櫻の夜明け』が本棚にあるか改めて探してみた。それは当然、本棚のどこにも見つけることは出来なかった。あの幻想的な物語はやはりどこにも存在していなかったのだ。治はどんな物語だったか、必死に思い出そうとしたが、言葉の美しい織物がおぼろげにしか描けず、あいまいな印象と憶測の霞に覆われはじめ。もう思い浮かばなかった。
治はため息をつくとごろりと横になりながら、あのミシマユキヲの傑作をまた読んでみたいと思うのだった。存在すらしていない物語を。
おしまい
お読みくださいましてありがとうございました。




