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ゴールデンスランバー

よろしくお願いします。

 身を震わせて、目を覚ました。寒さを感じた。それは身体の芯からの冷えだ。骨と関接が氷塊のような冷たさを発して、肉の内側から神経にじくじくと鈍い痛みを与えていた。

 鼻の上に何かが乗っている。ほんの少し青臭い、木の香りと微かな汐の香が混ざっている何かだ。治は右手でそれをつまんで見た。椎の葉だった。治はそれをそのまま下に落とすと、辺りを見回した。


 太陽はすでにどこかへ姿を隠し、どこからか救急車のサイレンが小さく聞こえていた。いつもと変わらない、どうしたこともない休日の夕暮れ時だった。

 ぼんやりと目の前に、黒く塗られたクラシックな客船があるのに気がついた。治はそれが氷川丸だとすぐに分った。自分はベンチに座っていたのだ。

 ここは山下公園だった。すぐさま、治はこの船はかなでが好きな船だったことを思い出した。子供のころ一緒にここに来て、氷川丸を見ると船に自分が乗って父を迎えに行くという空想の話しをいつも治に話した。もちろん、それがかなでの願望であったことを知っている。

 そして、思い出した。自分はあの月に飲み込まれたはずなのだ。そこから無我夢中で這い出て、治は海の中へ落ちていったのだ。

 なぜ自分はここにいるのだろう。そうだ、遥は、かなではどうしたんだろう。そう、治は思うと、反射的に立ち上がった。あの子達を、探さなければならない。

 治は立ち上がって、海に落ちたはずの自分が濡れていないことに気がついた。そうだ、スマートフォンを出して、二人と話してみようと思った。無くしてしまったのだろうか、ポケットにはそれは無かった。


 強烈な悪寒と吐き気とめまいを感じ、よろめいた。治は深呼吸をすると、凍てついた身体の氷を振り払うように身体をよじり、少しずつ歩を早め走り出した。

 治はどこへ行けばいいのかわからなかった。遥とかなではあの月に連れ去れてしまったのだろうか。そう思うと、いてもたっても居られなくって、走り出した。

 取りあえず大桟橋に行ってみようと思った。大桟橋は二人の好きな場所だった。僕たちが横浜へ来た時のいつもの終着点だった。遥とかなではそこから海を望むのが大好きだったのだ。

 治は氷川丸から、芝生を横切り、大きなイチョウの下をみなとみらい方面へ走って行く、公園を出て、四つ角にあたり右に折れると水上警察が見えてきた。それほどもかからないで大桟橋についた。


 大桟橋は大昔から大型船の乗船場で、今は主にクルーズの出発地なっている。だいぶ前に立て替えられて、屋上はしゃれたウッドデッキになっている。そこからは横浜港が一望できる。

 正面から入って、二階のホールに入っていく。一面、板敷きで、イベントホールになっていて、木とワックスの匂いがしていた。照明はうす暗く、散歩の老夫婦がベンチに杖を立てかけて座っているだけで、ひっそりとした感じだった。治はあちこち歩き回ったが、二人はどこにも居なかった。

 治は胸の奥が不安で刺し込まれるような感覚を感じた。いてもたっても居られず。治は息を切らしながら、三階のウッドデッキに上がった。

 大桟橋には船は一隻も泊まっていなかった。広々としたデッキの上には、梅雨とは言え、涼やかな潮の香を含んだ風が吹いていて、汗の浮かんだ治の頬をなでていった。治は二人を探して歩き回った。


 まず、赤レンガの方を望む方へと歩いた。

 遠くに目をやると、街の灯りが万色の輝きになり、凪いだ水面に流れ出している。赤レンガ倉庫はすでに暮れなずむ濃紺の洋上の向こうにあって、足元から燈色にライトアップされていた。治はそれがなぜか非現実的に思えた。

 そこにも二人の姿は無かった。治は落胆と不安を感じて、先端を回って、ベイブリッジを見て、反対側にいった。しかし、そこには夜景に見入って、幸せそうに肩を抱くカップルしか居なかった。


 治はまた走って、大桟橋を後にした。開港資料館の交差点をわたり、日本大通の方に行き、関内の駅へと走った。県庁の前を通って、郵便局のところで信号にひっかかった。いつものように多くの車が行きかい。たくさんの人々が歩いていた。

 治は雑踏の中で、さっきあったあの奇怪な怪異などまるで夢の中のように感じた。自動車の騒音と排ガス、通行人の日常の話し声、自分がどうしようもないリアリズムの中にいることを感じ始めていた。


 あの月の中に落ちていったことは自分の幻想に過ぎなかったのだと思った。自分は果たして何をしているんだろうかと思った。自分だけがのけ者だった。

 全てがなかったことなのかもしれない。自分ですら、野口治でなく別の人間なのかもしれない。頭のおかしくなった道化みたいなものなのだそう思って、ひどくむなしい気持ちになった。治はいまだ思考の中心を失っていたのだ。

 街は真っ黒な闇の帳に落ちようとしていた。どこからかカラスの鳴き声がしていた。

 治はふと、斜め向こう側の歩道を遥らしき少女が歩いていくのに気がついた。治はそれが遥か本当はわからなかったが、遥だと確信した。今すぐ治は後を追って確かめたくなったが、交差点の信号に阻まれて向かうことが出来なかった。


 ひどく長い感覚で待たされ、信号が変わった瞬間、治は向こうにわたり、大声で少女を呼び止めようと叫んだ。しかし、声は騒音と距離で届くはずもなくなかった。治は焦りながら、走って地方裁判所の方へわたって見回した。

 治は辺りをまた見渡した。しかし遥だと思った少女は消えていた。なんど見てもどこに少女はいなかった。治は下を向くと、ひどくがっかりして、諦めて歩き始めた。

 そこで、肩を叩かれた。振り返ると遥が居た。遥は少し首をかしげ、瞬きをすると、治の頬に触れた。はるかの手は暖かく、治は自分自身に存在感を感じた。ああ、自分は生きているし、この子は死霊などではないと思った。治は腰が砕けそうになりながら深く安堵した。


「遥、どこへ行っていたんだ」

「治、あんたこそどこへ行ったのかと思ったよ」

「あそこから帰ってきたんだ。たぶんね」

「ああ、あそこ、そうわかっている。私たちは月に吸い込まれたのよ。信じられないことだけど」と遥は言った。


 遥はあのことを覚えていた。治はあれが自分の感覚のうちだけの出来事でないこと確認した。前後の感覚が戻ってきた。自分は少なくともある空間と時間上に存在しているのだ。

「そうか・・・・・・ならいいんだ。僕は君とカナを探していたんだ」

「そう、私もよ、カナはどこ?見つかったの?」

「いや、まったくどこへ行ったかわからないんだ。僕は大桟橋へ行ってみた。君は?」

「私は赤レンガに戻ってみたの。でも居なかったから、こっちへと歩いてきてあんたにあったのよ」


「そうか・・・」

「じゃあさ、カナを早く探しに行かなきゃ」遥はこう言った。

「でもどこを探せばいいか」

「気がついたところを手分けして回ってみたら」

「そうだな、そうしよう」

 それ以上、言葉を交わす必要は無かった。

 治と遥は携帯電話が無かったので、一時間後に関内の駅で再び落ち合うことにして、それぞれ別の方向へと向かった。


 ***


 遥と別れてスタジアムまで来ると、予報では全く言っていなかった雨が降り出した。

 ずぶ濡れになり、治は子供のときのことを思い出し、歩きながら、かなでのことを想った。強情で、うぬぼれに反して気弱で、愛情は深い女だと思った。 

 ああいうことがあった、こういうことがあったことを色々と断片的に思い出した。遥とかなでがよく、子供のころ読んだ本を自慢しあったり、その内容を話していたのを思い出した。図書室で借りた子供向けの本を競って読んでいたのだ。


 かなではだいたい最後には遥に言い負かされていた。そして、いつも治が助けてやって、ああ、それはわざとそうしていたのかと、今、気がついた。でも、その後、不満げにしている遥の手をとってあげたのなぜだろうか。なぜかそうしなければならないと思ったからなのだ。言葉の外のやり取りを男と女は無意識にするのかもしれないと、どうでいいことを治は思った。

 それからまた思い出した、あの二人はよく言い合いをしていた。治はそれをいつも放っておいた。自分の収めるとことの出来ないことだとして。今になって、ひどく無責任だと自分に腹が立った。

 治は走った、スタジアムの公園を時計とは反対にめぐってみた。格子越しに、野球場が見えた。誰ひとりいないスタンドとフィールドはひどく寂しげで、何も盛っていない空っぽの器を思わせ、それが今の自分自身のように思えた。そして、治はずいぶん疲れていることに気がついた。

 そして、ここにかなでと野球を見に来たことがあったことを思い出した。


 小学校の高学年になったころで、かなでとあまり話しをしなくなった時期があったことを思い出した。でも、その頃、ここに野球の観戦にやってきたのだ。友達が行けなくなったチケットを貰ったことから、チケットは二枚あって一緒に行きたいと思った相手はかなでだった。

 かなでと見た五月の日曜日の試合は先発が共に崩れて、打ち合いの締まらないゲームだった。退屈しながらフレンチドックとフライドポテトを二人で食べて、夕方には帰ったというそれだけだけの話だ。


 治は明るい五月の夕暮れ、隣座っていたかなでの美しい横顔をずっと見ていたことを思い出した。

 思えば、かなでとは長い時間をともに過ごしていた。しかし、治はその間、いつも心のどこかで遥を思い続けていたことも思い出した。治は不思議な衝動を感じて、空を見上げた。真っ黒な夜空から、滴るように雨が降っていた。


 自分は遥をいつまでも想い、同時にかなでに限りのない愛情も感じている。一体、そのどちらが本当で、どちらが嘘のなのだろうか、それともどちらも嘘か本当かよく分らなかった。

 ただ、また、失ってしまうのか、と治は思った。なぜか強くそんな気がした。今度はかなでが失われてしまうのだ。永遠に損なわれてしまう、いつも、いつも、すべて。そう考えると立ち止まりよろめくような、内臓のすべてが地面に向かって引き込まれるような恐怖を感じた。治は遥を失って感じていたあの感覚を久しぶりに感じたのだった。治は不安といえば生易しいものだけど、何かに押さえつられるような感覚でそこから一歩も動けなくしまった。

 何をしているんだ。先へと進まなきゃと治は思った。ずいぶんと立ち尽くして、雨の中、抜け殻みたいになって歩き出した。もう、何も考えられなくなったし、治はゾンビみたいに遥のいる。関内の駅までもどった。


 ***


 遥は関内の駅で待っていた。ずぶぬれになって切符の券売機の横に立っていた。

「カナは居なかったよ」と治は言った。

「そうみたいだね。こっちも見つけられなかったよ」と遥は言った。そっけない言い方だったけど、そこには心配しているというニュアンスが含まれていた。

「まあ、治、あんたひどい顔しているよ。地獄か何かの一歩手前まで行って来たって顔している」

「もう、居ないんだよ。また失ってしまったんだ。今度はカナを失うんだ」治は搾り出すような声で遥に言った。治は遥にそう言うと押し黙った。

 少したって「それはどうだろうね。携帯が通じないから、わかんないだけかもね。地元に帰ってみれば案外、帰っているかもしれない」と遥は予想外のことを言った。


「そんなことあるわけがないよ」

「うーんいや、あるかもしれないよ。治、あんた思い出さない?だってこれとまったく同じこと前にあったじゃん」

「あ、確かに、いやでも・・・あの時とは」

 治は遥を見つめた。気休めだと思った。

「いやね、あの子は、お姫様だと自分のことを思っているからね。まあ、昔からだけど、いやはやマジなくらいカナは面倒な女の子なんだよ。もしかしたら、いつもの気まぐれで、先に帰って向こうで待っているかもしれないよ。探してくれなきゃ嫌だとか思ってね。前だってそうだったじゃん」遥は真顔で言った。

 治は遥の意見に賛成できなかったけど、少し考え、それももしかしたらあるのかもしれないと思った。確かに前のことだけど、そういうことがあったのだ。

「そうだな、帰って確かめてみよう」

「途中で、カナの家に電話をかけてみればいい」と遥は言った。


 ***


 治と遥は雨に濡れたままJRに乗って、横浜まで戻った。

 そこで、何年ぶりくらいか分らないけど、公衆電話でかなでの家に電話をかけてみた。希恵さんが出てくれたが、かなでは家には帰っていなかった。治はひどく落胆した。

「まあ、あんたの家まで帰ってみな、そこに居るかもしれないよ」と遥は言った。

 京急線に向かう通路で、治は駅の電光板に明日の天気とともに、6月15日日曜日という文字を見つけたのだった。曜日のズレがなくなっていたのだった。治は遥にその事実を説明した。自分たちはまた違った時空の世界に居るかもしれないのだと。遥は自分が生き返ったのだからそれくらいもう驚かないといい笑った。

 電車はいつもどおりで、雨は金沢八景に来る前までに、降り止み、空には大きな三日月が浮かんでいた。


 ***


 汐入の駅を出て、案内板の前で遥は「疲れたから、先に行って、後から行くから」と言った。治は頷くと、ヒデヨシの方へ走った。

 ヒデヨシは相変わらず米兵たちで賑わっていた。米兵たちは肩を抱き合って、早口の英語で何かを話していた。チューハイをスナック菓子をつまみに、あおり、笑いあっていた。そこには悲壮感はまるで感じられなかった。治はそれを横目にすぎ、いつもの坂へ出て、そこを上っていった。早く家に着きたかった。

 そして、坂の頂上が見えたとき、そこにかなでが立っているのが見えた。かなではLEDの街頭の下で、電柱に寄りかかって、所在なさげにしていた。治はそれを見ると喜びと安心に満たされた。遥の言うとおりだったのだ。


 治は走って、そこに行くと、かなでは何も言わず上目で治を見つめた。その目には怒っているような、誘っているような、叱ってほしいような不思議な感情が渦巻いているのを治は感じた。まったくやれやれとだと思った。

 治は何も言わず右手を引っ張り、かなでを抱いた。しっかりと離さないように、しばらくの間、そうしていた。

 しばらくそうしていて、かなでを離そうとすると、かなでは突然「離さないで」と強く言った。


「わかったよ大丈夫、離さないよ」と治は言いながら、やっぱり遥を想ってどこか後ろめたかった。

 いきなり、かなでから治にキスをした。初めてのキスだった。治は驚いたがそれを受け入れた。

 短いキスの後、治は手を差し出すとかなでは手をとり、二人は手をつないで歩き出した。そして、家の前の祠まで来ると、そこに反対側の坂から先に来たのだろう、遥が立っているのが見えた。


「治、カナ、おかえりなさい」遥は腰に手をあて苦笑を浮かべて、手を振っていた。

 ちょうど、祠の上には明るい三日月が浮かび、三人をやさしくひそやかに照らしていた。

 治は「ただいま」と言い、手を振り、それから、かなでを見た。かなでは頷くとかわいらしく微笑んだ。

 治は今が本当に三人の時が動き出した瞬間なのかもしれないと感じた。でも、僕等はどこへ行き、どこに向かっているのかわからない。そして、この先どんなことが起こるのかもわからなかった。それにここが僕らの戻ってきた世界なのかも分らなかった。

 治は出来るならこの瞬間で時が止まって欲しいと思った。そして、三日月を見上げるとそっと願った。



お読みくださいましてありがとうございました。



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