三人で横浜へ行く 続
よろしくお願いします。
どうしようもないので、治は二人を促すとスターバックスを出て、帆船が見える方へ歩いた。船はレンガ造りの古いドックに、ピンで留められた標本の蝶のように優美だった。
そこを横切り、梅雨の晴れ間、強い日差しをおくり、熱気のこもった大気が湿り気と色々な匂いとともに、あたりを変えていた。治はここを子供のころから何度も歩いてきたが、なんだか別の場所みたいだった。
汽車道は散歩の老夫婦や、写真を撮っている観光客、修学旅行の学生が歩いていた。その中を三人がバラバラになって歩き出した。
汽車道はかつて大岡川の河口から、この先の新港埠頭の赤レンガ倉庫と外国船の波止場までを結んでいた鉄道の石積み築堤を遊歩道にしたものである。かつてはその名のとおりここを汽車が走っていた。舶来の貨物や、輸出品の生糸、外国へ向かう旅行者が海上の堤の上を通り、往還していたのだ。もちろん戦争のための物資や人員も。
しかし、今や貨物はコンテナへと変わり、全ては別の新しい埠頭へと移転してここでの荷役は全くない。したがって鉄道も無用の長物になり、観光客の往来のための遊歩道になっている。横浜は観光客に魅力がなければやっていけないから、こういう来訪者が喜ぶものをそこらに作ってある。
みなとみらいから赤レンガ倉庫方へ歩いて行くにはここが一番近い。三人は子どもの頃から時々ここへ遊びに来た。遥もかなでも汽車道を通って、赤レンガへ行き、その先で船をみて、山下公園へ行くのが好きだった。なぜかと聞かれても良くわからない。まあ、治はこの二人といることが好きだったんだと改めて思うのだった。その道をこうしてまったく別の気持ちで歩いているのはどうしてなんだろう。なぜ、自分はいつも自分からめちゃくちゃにしてしまうのだろうかと治は思った。
途中で西部劇の映画に出てきそうな、アメリカ製の鉄橋を渡り、ホテルの下をくぐって、赤レンガ倉庫へとやってきた。レンガ積み三階建ての奥に長い建物が二棟並んで建っている。左手の一棟は原形を保っているが、広場をはさんで右手のもう一棟は半部くらいの長さしかない。関東大震災で倒壊してしまったのだ。この建物はクラシカルであるが、実用本位の建造物として作られたためか装飾は簡略的であり、それが押し付けがましくなく治は好感を持っていた。いわゆる古きよき時代の建造物だった。
二棟の倉庫は文化施設や、商業施設に改修され、様々な用途に用いられている。昔は荷を捌く男たちが汗して働く場であったこの倉庫を、今や楽しみのために人々がここを訪れ、賑わしく別の喧騒に満ちている。それが治には救いだった。たぶん、遥とかなでにとっても。ここで、だらだらと歩き商業施設のある二号倉庫へと入って、中の椅子に座った。
ここでいつもなら、楽しく会話をするところだったが、誰も口をきかなかった。深い水底でじっとしているような、沈黙がなれていた。
倉庫の天井は波打ったコルゲート張りで、そんなに高くない。床はコンクリートが打ってあり所々、鉄骨の柱がむき出しになっている。中は倉庫だけあってそっけない造りである。
治は自分の両側に座る少女たちを見て何とかもう一度、仲直りをして元に戻るだと思った。しかし、自分はこの期に及んで何をやっているんだろうかという考えも浮かんできた。もう無理なのだ、このまま別れて帰ってしまうかという全くさっきとは正反対の考えも浮かんだ。こうも矛盾した考えをして、治はどうにかしていると感じた。これじゃあ、ただ、揺れているだけじゃないか。治は気分変えたくなってトイレに行こうと立ち上がった。
トイレでようを足しながら治は自分が全くこの現実を直視してこなかったからこうなったのだと、全ては自分のせいだと今度は考えた。いや、そう言って自分を大事にしようとしているのかもしれない。治は気分を変えることはできなかった。
***
戻ると、見たこともない表情をした、かなでが遥と話しているが見えた。遙は耳元でかなでに何かを囁いくと、かなでは頭を左右にふり耳をふさぐ仕草をするのが見えた。遙はかすかに微笑んでいた。
「どうしたの?何を話していたの?」
「遥は死霊なのよ。今、分ったのよ」かなでは治にこう言った。少し高い声で。治はかなでが何か冗談を言っているのではないことが分った。かなでの表情は真っ青だった。彼女の目は深い井戸の底をのぞいた時のような暗さみたいだった。
「死霊?」
「そうよ、この子、あそこにある鏡に姿が映っていないのよ」
「どこ?」
「ほら、あそこの雑貨屋の鏡よ」かなでは指差した。
その店は欧風雑貨を扱う店のようで、鏡は店の真ん中にインテリアとして置かれているようだった。治はその鏡を見た。そこには大きな鏡があった。楕円形で縁取りは金箔が貼られ薔薇のレリーフがあしらわれ、アンティークな感じがした。そこには確かに遥の姿が映っていなかった。治は信じられず何度も見返したが、そこに遥の姿は確かに映っていなかった。治は振り返って遥の目を見た。そこには変わらない遥が居た。しかし、治は足元がぐらりと揺れるような感覚を味わった。
「離れて、治君に近づかないで」かなでが叫んだ。
「まあ、カナどうしたの?いきなり、私だって治の近くにいたいのよ。出来れば、二人きりになりたいな」と遥は言い笑った。
かなでは治とはるかの間に割ってはいると、両手を後ろに回して、治を押さえた。
「だまれ!あなたは幽霊だわ。この世界はやっぱり狂っているのよ」かなではこのフロア全体に響き渡るような大声を上げた、多くの客や店員が不思議そうにかなでを見ていた。
「まあ、見てみなさいよ。カナ、私は写っているわよ」遥は平然と言った。
確かにもう一度みると、鏡には遥が映っていた。だが、さっきは写っていなかった。まるでホラー映画の一コマだと治は感じた。
治は自分の頬を触り、手を伸ばして、それから遥の頬を触った、そこには肉感が感じられ、実体を伝えてきた。しかし、ひどく遥は冷たかった。ひどく奇妙でおかしな、感じがした。
「やめて、触っちゃだめよ」とかなでは横に引っ張り治は倒れそうになった。
あたりは買い物客で喧騒に満ちていた。うっすらとクーラーがかかり、照明は明るく、不思議なことなんて起こるはずもないそんな環境だった。
かなでは震えていた。口は少し空いて、激しい恐怖を感じていることが伝わってきた。かなでの色素の薄い茶色の瞳は、大きく開かれ、いつもの理知的な輝きは失われていた。
「早く、治君こっちへきて、外へ出ましょうよ」そう言うとかなでは治をひっぱった。
治はかなでに引かれて、転がるように外へ出る。階段を降り、大きなガラスの自動ドアが開いて、外へ出た。遥はそれに黙ってついてきた。治は振り返って、遥を見たが、そこには特に変わったものを感じなかった。
***
三人は外へ出た。しかし、外には異様な光景が広がっていた。この世のものとは思えない光景が広がっていた。かなでは治と視線を交わした。
「あー、もうこれは何なの?」とかなでは両手を打ちつけるようなしぐさをした。
見上げると空にちょうど広場を挟んで一号館の上には、三個の月がかかっていた。変わらぬ白い満月、一つは三日月で金色に、もう一つはやはり満月で紅い色をしていた。
あたりは闇に包まれていたが、月光のやさしく、輝くような光が降り降りていた。歪でそれでいて神聖な、この世のものではない銀世界が広がっていた。見慣れたはずの赤レンガの広場は月の支配する異界だった。なんでこうなったか分らない。
多くの人々が普通に歩いていた。彼らはこの光景が、ここに、この場に訪れていることに気がついていなかった。この怪異は治たちだけに、訪れているようだった。彼らには光が満ちた世界に見えるのだろう。初夏の陽光が降り注ぎ、海からは潮の香が立ちこめ、この赤茶色の年月を経た建物を見上げ、その重なり合った記憶や事由に感嘆を述べているのかもしれない。
治はこの驚くべき、光景の中でも、時間が流れていることに気がついた。治は奇妙な事態にかかわらず。頭のどこかが冷静だった。
***
かなでは治の手を引くと必死になって走り、ちょうど倉庫の外れ、海が見えるところへと来た。かなでは治を遥から守り、引き離すことしか頭にないようだった。かなでは空を一度見て信じられないものを見るように、目を背けると、強く引っ張った。
横浜港は、水銀の一面に月光を受けて絹の反をたゆる水面に広げ、どこまでも、どこまでも広がっていた。海原に、白く抜かれたベイブリッジと多くの船があるのが見えた。ネガフィルムで見るような映像の世界が広がっていた。
さらにかなでは倉庫の裏手に回る。そこは大震災で倒壊し、燃えて黒々とした税関の遺構が公園として保存されている場所へとやってきた。
かなではそこまできて、追ってきた遥に叫んだ。
「なんなのよ。もう私と治君の前に現れないで」
「カナ、待てよ。何だよ。遥は別におかしくはないだろう」
「治君、あんたばかなの、この子はお化けなのよ。きっと死んでいるのよ。だって私は最後に会ったのは私なんだから、この子はさようならして、あの公園の先の踏切へ昇って行ってこの子は消えたのよ。それから居なくなったんだから」とまくし立てた。
これは治の知らない事実だった。
「カナ、そうだったのか、ではなぜ?」なぜ、かなでは自分に対して黙っていたのだろうか、治は思った。
「私はこの子とひどい喧嘩をしたの、ひどい事を言って傷つけたの。だから、もしかしたら私が遥を居なくさせてしまったのかもしれないって思っていたのよ。私はそのことをずっと思っていて、治君に知られたら、嫌われるって思って、ごめんなさい。私だって、遥のことはずっと心に抱えてきたのよ。本当よ」
治はかなでのこの告白を聞いて、遥に対して尋ねなければならないことがあることに気がついた。治はずいぶん前からそれを訊かなければならなかったのだ。だが、それを遥に問うのが怖かったのだ。治は意を決し尋ねた。
「遥は死んでいるのか」
ずいぶんと長い間、沈黙が流れた。治はその間、跳ね続ける心臓の音を聞きながら、遥を見続けていた。
「私は生きているよ。そして死んでいる」と言った。
「どういうことなんだ遥、知っているんだったら教えてくれ」
「私にだってこういうふうなんだから、分らないよ。でも、私だってつらかった。ずっと治に会えなかったんだから、治が目の前に居て、私も居るんだから」と遥は言い微笑んだ。
「やめて、私はぁ、治君を心から愛しているんだから、お願い。遥の想いはわかるけど、もう死んでよ。ついて来ないで、生きている私たちに何かを言わないで」かなでは狂乱に近い声を上げた。
「それは無理だね。だってここは、こういう世界なんだから、私は生きていて、治も生きている。カナあんたも居る。お願いきいて、私はここのことをこう思っているの。ここはたぶん三人の思いの世界であり、理想の世界なのよ。私たちが三人がきっとこの世界を呼び出したのよ」
遥の言葉には証がなかった。しかし、治はそれが真実ではないかと感じた。しかし、かなでは違った。
「ちがう、あなたは死んでいる。愛することが出来るのは生きている人だけのものなの」
「カナ、まて、ちょっと」
「治君は黙っていて、お願い遥、私から治君をとらないで、死んだ人は死の国へと還ってよ」
「それは、出来ないよ。治は私のモノだ。私は死んでいないから。カナ、私を見て、ほら生きているじゃない。この白日の世界で」
「嘘、だって鏡に映っていなかった。それにこの空と月の異様さを見て、あなたが起こしたんだ」
「カナ、待て、少し落ち着いて」
「落ち着く?治君!見なさいよ。月が三つも浮かんでいて、遥が生きていて、私たちに語りかけてくる、こんな世界に私は居たくないのよ」かなでは両手を広げて、左右に振ると、天にある月を指さした。
天にはいつもの満月が、その左斜め上に金色の三日月が厳かに光をたたえていた。そしてもう一つは鮮やかな、動脈を流れていた血のような、色をした満月が浮かんでいる。
終わりが来ていている治はそう感じた。自分は何かを言わなければならないと思った。意味があり、少なくともこの場をおさめる言葉を。
「なあ、やめてくれよ」治はどうにか声を上げた「どうして、二人とも、もう一度あえたことを喜べないんだよ。生きていることも死んでいることなんてどうでもいいじゃないか?そういう世界ならそれで良いじゃないか」
「治君やめてよ、お願い現実を見て」かなでの金切り声がそれを遮る。
治は何の現実かと思う。そうだ、遥が死んでいるのではなくて、自分とかなでもすでに死んでいるのではないだろうかという可能性が閃いて頭に浮かんだ。治は思考の中心点を失っていた。だが、そう思ってもまるで恐怖を感じなかった。
「やめない。僕はもう一人としても居なくなるのは嫌なんだよ。あのさみしさとかなしさを味わいたくないんだ。今日までいくら考えても、何も浮かんでこなくて、僕は・・・・・・、もう何だっていい、一人も失いたくないんだよ」治は大きな声で叫んだ。
「治そんなに苦しまなくてもいいよ、三人で居ればいいじゃない」と遥が言った。
しかし、それは治が考えた事ではなく、遥の三人が合一するという話だった。それに治は賛同していない。治は遥に笑いかけ首をふるしか出来なかった。
「治君、正気に戻って、ここは狂った世界なのよ。私とあなただけでも正気でいなきゃ。そうよ、あなたが居て、隣で私に微笑んでくれるだけで、それだけで他の事は何もいらないのよ。お願いただ、それだけなのよ」とかなでがすがるように言う。
治はここでかなでの告白をはじめてきいた。ありのままの願い、それは治自身の願いに重なった。
「遥、あなたはいつも私から治君を奪っていこうとする」
かなではとうとう遥に跳びかかっていこうとした。治はそれを後ろから抱きとめてやめさせた。
「はっはは、それはそっくりそのまま返すよ。カナは治の歓心をいつも独り占めにしているんだよ。それだけ手にしていればいいじゃないか」
治はまたここで、何かいうべきことがあるはずだと思った。かけるべき言葉が、自分を慕っているこの幼馴染の少女たちに、いとしい二人に、心に届く。それは分っていた、しかし、何か意味のある言葉が浮かんでこなかった。
「こんなんじゃ、だれも救われないだろう」治はどうにかこれだけ言った。ひどい声だった。二人は何も応えなかったが、だいぶして、
「救いなんて終わりにあるわけがないよ」と遥が言った。治ははっとした。
「だいたい終わりに救いなんてないんだよ。終わりにあるのはたいていあきらめさ、救いがあるとしたら、それはいつも途中にあるんだよ」
かなでは泣いていた。遥も下を向いていた。
***
治はここで祈った。超然としたものではなく、ただひたすら何もないものへ祈ったのだった。よく分らないがそうするしかないと思ったのだった。
すると、強い風がやってきた。治たちは体を天に持っていかれそうになった。三人が見上げると、頭上でいきなり三つの月がだんだんと一つになっていくの見えた。治はそれを呆然と見上げていた。かなでも遥も同じだった。餅や小麦粉をこねてまとめたようにまとまり、横浜港に浮かんでいた。奇妙でそれでいてやさしい光景だった。燦燦と月の光が降り注いでいた。
するとゆっくりと三人はブレた映像のように見え始めた。治は自分を触ってみた、実体がはっきりと触感を通して感じられた。治は右手にかなでの手をとり、左手に遥の手をとって握り締めた。
急に暗くなり始めた。月が急激に光を失い始め、視界から徐々に光が失われていった。治たちは光が失われてゆく中で、細胞が分裂するように分かれた。治はもう一人の自分がこちらを驚いた顔で見ていることに気がついた。まるでアニメーションの中の非現実な映像のようだった。そして、向こうの治は悲壮な表情をしている。遥とかなでもそうだった。治は空中に信じられないの様な力で引かれ、舞い上がり、月の中に吸い込まれていった。
月の中は水がたまっていた。そこにはいくつもの時間が流れていた。治はそういうものがあらかじめこの世に用意されていることを悟った。そして、両手に感覚が無く、遥とかなでが居ないことに気がついた。いつの間にか二人を放してしまったのかもしれない。治は気がふれたように周りを探したが見つからない。
治は二人を探そうと、死に物狂いに手をふって、水の中を泳ぎ、光が見える方向へと進んで行き、突然に空中に放り出された。
下には横浜の町が広がっていた。そこへ急降下で落ちていった。そう、飛び降りて死ぬ人間はこんな感じなのかもしれないと感じた。自分はここで死ぬと思い、そして、治は意識を失った。
つづく
お読みくださいましてありがとうございました。
次回で終わります。