三人で横浜へ行く
この章は二回続きになります。よろしくお願いします。
鎌倉から帰って、治は少し自分を取り戻した。治はまた朝が来ると学校に行き、遥とかなでと過ごし始めた。
しかし、三人の仲は次第に何をするにも意識するようになり、会話がちぐはぐになり、時には苛立ち、哀切さをおびるようになった。そうした二人の上に梅雨の湿った風とともに雨が降った。雨は時には駆け足で、あるいは少しずつ結末に向かって進む時を形として治たちに示してくれているように感じさせた。
三人はそうした時間の経過の中で、徐々にいずれは何らかの決着を見るのだということを予感するようになっていった。それは、不思議な感覚だった。苦しいような、それでいて微かな痛みに哀切さを伴っているのに、どこか奥底に不思議に心が躍るようなものが存在していた。
三人はお互いに視線交したり、とるに足らない会話をする中で、様々な色の感情を叩きつけたり、交換した。それは他の人とは明らかに違って、長く一緒に時間をすごしてきたものの深さを持っていた。
誰一人言い出さなかったが、三人は横浜へ行く日にすべてが決着して決まってしまうのだということを思うようになった。
しかし、治は幸福を感じた。ここには愛する人が二人も居る。それは何よりも換えがたく治にとって良いことであった。たとえ、それが苦しみを伴っていたとしてもだった。そして、その幸福は三人の行く末を思うとき、何よりも強く感じられるのだった。それは裏腹で奇妙な感情だった。
治はそういう奇妙な感情を感じるとき、よく分らないが、こう思った。もちろん人を強く愛すること、いや、人でなくてもいいかもしれない、何でもいいから強く愛することが私たちには必要なのかもしれないと。それがこの世界、いつか悲劇的なことが起こって、私たちを気まぐれにすくい去ることが避け得ない、この現実では、それだけがすべてをつなぎとめる錨なのかもしれない。あの人との出会いから治はそう思うようになったのだ。あり得ることにないものを目にすることで、私たちは自分のささやかな奇跡を意識するのかもしれない。治はそんなことを降りしきる雨を見ながら考えるのだった。
***
そして、とうとう横浜へ三人で行く日がやってきた。
その日、治は朝早くに目覚めた。治はトイレに行き、手と顔を洗い。鏡に向かった、自己認識は鏡を使うのではなく、手のひらを見たほうが精神衛生は良いという、心理学にかぶれた教師の話を思い出した。
治はあることを決心していた。それは、なんと言われようとも二人のどちらも選ばないことを決めていた。治はあれから考え続け、そのどちらもを選べなかった。かなでとアメリカで暮らしていくことも、遥とこの横須賀で生活を築いていくことも選択できなかった。治はどうしてもそこから先に行くことが出来なかった。治は頭を抱えた、そこから一歩も進めなくなったのだった。ある日はかなでとアメリカで暮らす夢想をめぐらしたり、ある日は遥と生活を描いたりした。治は自分をひどいエゴイストだと思った。
いずれにしろ、どちらに進んでも、出口はないと思った。治は自然に漱石の描いた三角関係の主人公たちを連想した。
漱石は割り切る事の出来ないものの象徴として三角関係を題材にした小説を数多く書いた。そうだ、親友の妻を奪い彼が外地から帰ってくると知って、円覚寺に逃げ出すように座禅に行った主人公は誰だっけ。そうかあれはこういうことを書こうとしたのだと、治ははっきりと思うのだった。
治はまたこうも思った。漱石によって百年前の小説に描かれた人間は、今のそこらにある小説よりもずっと率直に、治に対して様々なことを語りかけてくるように感じる。人は変わっていないじゃないか、いつだってこんなことを悩んでいると。それに、どうしてこの小説は人間をいつだって、こんなにも生き生きとしているものなのだと、感じさせるのだろうと。しかも、治はそれを自分だけが一番理解できる。自分こそ漱石の描いた主人公のままじゃないかと思うのだった。そう思って、あまりの自意識に治は自分を笑った。
『いやいささか、自意識が過剰か』と治は鏡を見ながら、ひとりごち顔をしかめて、自分の柳眉を右手の人差し指でなぞった。明るい肌色に、大き目の茶色の瞳、整った顎の線、大人になりきっていない少年の顔、中性的でうまく化粧をすれば、少女のように見えるかもしれないと治は思った。まあ、実行に移す気はさらさらないのだが。調子に乗って女声を出してみたが、それは若い青年の声だった。
それから台所に行ってシリアルに牛乳を注いで、自分の部屋にもって行くとスプーンですくって、ザクザクと食べた。トウモロコシの風味と甘みが広がった。
テレビをつけると、日曜、朝の情報番組をやっていて、政府が臨界前核実験に成功した事を報じていた。この小型核弾頭は中距離ミサイルに搭載され、日本の抑止力を高めると力説していた。液晶の画面にはミサイルが噴煙を上げて空高く上っていく映像が流れた。治はその報道にもう何も驚かなかった。なにせここは三島由紀夫が生きている世界なのだから。
シリアルを食べてしまうと、まだ足りなかったので、台所に戻り、トーストを焼いて、何もつけないで食べる。今日は歩く事になりそうだし、少しは食べておかなければならないと思ったのだ。
庭を見ると純一郎が体操をしていた。ゆったりとしたペースのラジオ体操だった。自衛隊時代に身につけたものだろうか、治には良くわからなかった。でも、健康的で微笑ましい光景だった。庭からは朝の強い日差しが入ってきていた。今日は真夏ほどではないが暑くなるだろうと日差しを見上げる。
デニムにブラウンのシャツを着て、アクセサリー代わりに、腕時計をした。もう一度鏡を見て、髪と自分の姿をチェックして、歯をみがいて、デッキシューズを履いて、外へ出て、純一郎に挨拶をした。
「これからちょっと横浜まで行ってくる」
「おう、そうか、行っていらっしゃい」
治は家から出て、階段をあがり、坂を走って駅へ向かった。治の心にはかなでと遥に対しての気負いは少なくなっていた。
治の気持ちとは反対に気持ちのいい朝だった。
坂を下りて、ヒデヨシの前を通り、アーチの通路をくぐって、駅前のバスロータリーに着いた。バス案内所にある時計を見ると、十時五分前だった。改札前にある、揚げ物を売っている食べ物屋の横にかなでが居た。かなでは髪をハーフアップにして、薄手のカーディガン、下はデニム、薄ピンクのウェッジヒールを履いていた。いつもの制服姿のかなでではないのが、とても新鮮だった。治ははっとして、思わずかなでを見つめた。そうか、この子はこんなにも可愛らしい子だったのかと治は思うのだった。そして、自分はこの子を今日、永久に失うのかもしれないと治は思い悲しい気持ちになった。
そこに遥がやってきた。ゆっくりと、遥はカーディガンとフレアスカート、パンプスを履いていた。表情は満面の笑顔で、手を上げてこっちに振ってきた。華やぐような明るさと、溢れるような感情がこちらに向かってきた。確固とした自分への自信と自然さにあふれ、力の強い気品のようなものが遥にはあった。治はそうだこの少女はいつも寄りかかることなく、人間として立っているのだと思った。自分よりもはるかに。そして、彼女をも失うのかもしれないと思いやるせない感情を持つのだった。
治は何かここで、なぜか引き返したいどこかへ行ってしまいたい衝動に駆られた。恐れと、いたたまれなさからそう思ったのだった。しかし、それでも治は踏みとどまった。逃げてはいけないのだ。
「やあ、治、かなでおはよう」
「おはよう遥」
「おはよう」
集まると三人の間にピリッとした電流のようなものが流れていることを治は感じた。それを他の三人も感じているのだろうと治は思った。
「遥、それは良いから、行きましょうよ。もうすぐ、電車が来るわ」
遥と治は切符を買い。かなでは通学定期を使って、入場した。堤上のホームに上がると、電車がやってきた。治たちはそれに乗り込んだ。
車内では遥とかなでが小学校時代の話をしていた。給食の話や、担任だった教師の話をずっとしていた。治にはどうしてこんなに意味のない話を延々と女の子たちが続けることが出来るのかいつも不思議に思った。治は車外の流れる景色を目で追っていた。
電車は結構な速度で飛ばしトンネルに入ったり、出たりを繰り返しながら、雑木だらけの谷間にある踏切を過ぎ、山間の小さな谷戸にある駅に停まりながら、乗客を乗せたり、降ろしたりを繰り返し、平地の大きな駅に来て、快特に乗り換え進むと、徐々に丘の上まで、建物が並び始め、町並みがせせこましくなった。そして、右側に大岡川の青みがかった流れが見えてくる。ここまで来ると、先までビルのような構造物で見通すことが難しくなり、左に曲がって野毛の山をトンネルで抜けると、まもなく横浜へ着いた。
ここでJRに乗り換え、桜木町へ着いたのはちょうど昼前だった。駅前にはランドマークタワーが見え、先には波型のインターコンチネンタルホテルが見えていた。どういう訳か治は目の前の光景を無機質で無愛想ととるか、都会的な風景ととるか、迷った。少し前なら、こうした風景を好ましく思わなかったが、今はそう思わなかった。僕らはこうした時代に生きている、どうしようもない事じゃないかと治は思うのだった。この宇宙に対していつも諦めるのは人間のほうなのだ。
「治、あんたなに考えているのよ」と遥の声がした。
「ああ、いやなんでもなく、オサレなところだと思ったりしていたんだ」
「まあ、いいわ。でもこれだけは聞いておいて、あなたの前には二人の素敵な女の子がいて、その子たちはあなたの事を思っているわ。だから、そんな顔をして風景なんてぼうっと見上げていないで、私たちのことを見なさい」
治は遥の言葉に驚いた。遥のとなりにはかなでがいて、心配そうな顔をしていた。かなではあの浦賀での一件以来、治を心配しているようだった。かなではあの会食のことを気にしているようだった。
***
三人は無言で歩き出した。
治はランドマークタワーの方へ行ってみることを提案した。久しぶりに展望台にでものぼってみようかと提案した。二人は顔を見合わせ頷くとそこへ行ってみることになった。
ずいぶん昔、万博の時に設置された。ランドマークまで続いている平行式のエスカレータに乗り、観覧車の方を眺めると、海風が流れていて心地よかった。
治の前にはかなでが居て、後ろには遥が居た。
突然に遥が「治、私はあなたを愛しているわ。他の誰よりもよ。カナよりも私はあなたを愛しているわ」と小声でささやいた。
治は突然のこの不意打ちの告白に電撃を受けたように衝撃を受けた。この囁きにどう答えて良いか分からなかった。
遥のささやきが聞こえたのだろう。前を歩くかなでがこちらを見ていた。治と視線交わす。かなでは求めるような、何かを伝えようとしている目で、治を見ていた。可愛らしく、魅力的な少女は、真っ直ぐな感情を向け、それは魅惑的な輝きをはなっていた。治はそれをみて何とも言えない居心地の悪さを感じた。
この幼馴染たちと長くを過ごしてきたが、今日のような感じ、距離の隔たりや感情のほとばしりを見たことはなかった。治は平静にしていたが、心臓はドキドキと脈打ち、手のひらには汗がにじんでいた。治は展望台にいったとしても、景色なんか目に入るものかと思った。
それでもランドマークに入り、高速エレベータで上の展望室に行った。そこには多くの人がいて、非日常の眺望に歓声をあげていた。ここに来るのは久しぶりだった。
遠くはけぶっていたが、足元の建物や船、駅に停まっている電車はミニアチュア、そう模型のようで、それが現実感を遠のかせた。高いところから、見ることは何か超然とした観念を治に抱かせた。しかし、下の蟻のように動いていくゴマ粒のごときひとりひとりに人格と感情、その人間が負っているものがあるのだと刹那に意識させられた。それは今の治がそうだったからである。
三人は無言で立ちんぼで、景色をぼんやりと眺めていた。
それから誰も口をきかなかった。さっきの遥の一言で微妙に空気が変わってしまったのを治は感じた。ランドマークから出るとレストランには行かないで、スターバックスに入り、レーズン入りのマフィンと甘ったるいラテを頼んで、昼食代わりにすることになった。誰も食事を楽しむ雰囲気ではなかった。それでも何とか話した。
「スターバックスとは治らしい選択だね」と遥がはじめて話した。
「まあ、どうでもいいだろう。出たところにあるんだから」
「私はどこでもいいけど」
店の空いている席に三人で座った。休日の昼下がりだったが、何とか奥の空いている席に座ることが出来た。
「二人に話したいことがある」治はさっきの展望室から飛び降りる気持ちで切り出した。
「えっ、何?」
「何?治君」
「僕は君たちのどちらも選ばないよ」
遥は二回瞬きをすると、治をみた。かなではため息をつくと呆れている感じだった。いい反応ではなかった。
「何?治あんた何いきなり言ってんの?」
「そうよ、何でこんなところでいきなり言っちゃうの?」
「だって、今日はこれを話すんだろう。だったら僕の答えを言っておきたい」
かなりしらけた雰囲気になった。
「治君、私と遥のどちらも選ばないって、あなたは最終的にどうしたいの?」かなではラテを一口飲むと、低い声で言った。
遥も真剣な視線を向けてきた。
「じゃあどうすんのよ。あんたはそれで良いかもしれないけど私は?カナはどうなんの?」
治は答えに窮してどうともなれと思った。出口がないのなら、深刻になるのなら、コメディー映画の間抜けな主役みたいにやってやれと思った。そして、男なんて女よりもずっと単純に出来ているから仕方がないんだと開き直った。自分が悪役になればいいと思った。どうせ、自分にはこんなことしか出来ないのだから。後先を考えないやり方だが、治は必死だった。何とか分ってもらおうとした。
「これまでどおりにやって行きたいってことさ、三人で楽しく笑いあって、子どもの頃からやってきたようにだね」
「いい加減にして、馬鹿だね治は。もうそんなことできっこないじゃない」
「だめすぎて言葉にならない。大体言い出したのは治君じゃない?」
「それはそうだけど、カナだって少佐や希恵さんを持ち出して、僕を説得しようとしたじゃないか?」
かなでは黙ってしまった。
「ふーん、かなではそんなことを治にしていたんだ。あいかわらずの策士ぶりだね」
「あなたに言われたくはないよ。あなたは子どもの頃から、治君を、あんな方法で自分のものにしてきたじゃない。遥、あなたこそ策士だし、汚らしい女よね」
「何とでも言いなさい。カナ、あなたもそれをやってみたら良いじゃない?」と遥は言った。治はかなでがそれを出来ないと知って言っていることが分った。
いやな感じだった。頭から誰かに手で押さえつけられるような重苦しさと、行き場のない感情がテーブルの上にコーヒーの香りとともに漂っていた。
遥は一瞬、下を向いていたが顔を上げると「別に3人のままでもいいのよ」と笑った。
「三人のまま?」治は意味がわからず聞き返した。
「そんなことできるわけない」かなでが強く否定した。
「空疎な言葉はいらないわ。関係だけが、存在をいつも与えるのよ」
「そんなの関係じゃないわ」
「だったら、先には終わりしかないじゃない。カナ、治は選ばないと言っているのよ」
「だから、それは治君のエゴだから。改めてもらうの」
「治、あんたはどう思うのよ?三人のままでいいでしょう?」
治は返す言葉がなかった。治は誰も選ばないという選択をした。しかし、遥は三人が同時に付き合うという選択を示したのだった。治は強い衝撃を受けた。まるで、硬い陶器か何かで頭を殴られたときのような感覚だった。治はそれもあるのかと思ったが、何かが間違っている気がした。
「君はそれでいいのか?」
「いいじゃない。私たちで合意できれば、それで」
「いいわけないわ」かなでが立上って言った。
「神様でしょう、カナ?」と遥が意地悪に笑った。
「そうよ、そうよ」かなでは感情をあらわにした調子で言った。治がはじめてみるかなでの姿だった。
「遥、やめなよ。カナが困っている」治は見かねて言った。
「治あなたはどうなの?」
治はもうよく分らなかった。頭の中を泡だて器でグルグルとかき混ぜられているという感じがした。ただ、即座に否定は出来なかった。治は遥とかなでの間で、何を言ったらいいのか分らなくなってしまった。ただ、治は二人を失いたくなかったのだ。
治は悲しかったし、無様だった。もうどうにもならないのかと思った。何か方策はないのかと、追い詰められたように考えた。しかし、何も思いつかなかった。三人はそれぞれ別の方向を見つめてしばらくそうしていた。
お読みくださいましてありがとうございました。