桟橋の先に 続
引き続き、前回の続きです。
よろしくお願いします。
その後はトランプをして遊んだ。僕たちの昔からの流れだった。ポーカーを始めた、このゲームは遥がいちばん強い。何を考えているかわからないからだ、それに遥に言わせれば、治とかなでは表情が隠せないのだという話だ。
「ねえ、かなでさあ、久しぶりに横浜へ行かないかって話をさっき治としていたの。今週の休みに行ってみない?」
「横浜って、何か買いに行くの?」
「まあ、それはたぶん何か買うだろうけど、久々にみなとみらいから赤レンガの方へいってみるとかそんな話だよ。大桟橋から、横浜港を見るとかそんなコースだね。君は毎日、横浜へ行っているから、どうかと思ったんだけど」
「いくわ」
「そう、なら、行ってみよう」
「だって、私は山手の方だし、授業が終わったら、時間もないし、そのまま帰ってくるだけだから、みなとみらいとか行かないしね。たまには行ってみてもいいかなと思うの」
「なら決まりだね」
「土曜日にするか」
「だめよ土曜日は理子の家に行くの」
「じゃあ、日曜日しようか」
「そうねそれがいいわね」
「じゃあ、十時に汐入の駅で待ち合わせにしよう」
「了解、そこから横浜まで行って、JRで桜木町へ行く、それからみなとみらいへ行って、どっかで休んで、汽車道を通って、赤レンガの方へ行くのよ」と遥は言った。それが希望らしい。
あとはブリッジ、七並べ、ババ抜きをやった。治はいつものように、こんなゲームのどこが面白いんだろうと思ったが、幼馴染たちとあれこれと冗談を言い合い、遊ぶと、とても面白かった。何ゲームかやると、さすがにいい時間になった。
遥が立ち上がると、「今日はちと帰らなくてはならないのよ」と言った。
「かなでは?何か食べにいくか?コンビニで買ってきても良いけど」
「あーいや、私の家で食べない?治君」
「いつもの冷凍食品?」
「またそれを言う、残念、違うわよ。お父さんが帰ってきているから、バーべキューをするの。それで、治君を連れて来てということなのよ」
「これから君の家に行くという事?」
「まあまあ、近いでしょ、いい肉もあるからいらっしゃいよ。どうせ簡単なものを作って食べるだけでしょう」
「まあ、確かに、なら、久しぶりに君のところに行ってもいいか、少佐はお元気?」
「元気よ。今は大した勤務じゃないから」
治はかなでの父親のグレン少佐に敬意を持っていた。少佐はいつも何か確固たる物を まとっていて、スマートで朗らかだった。それに、理屈の無い力の強さが感じられた。治にはそれがまぶしかったのだ。
「そう、それは良かった。せっかくの機会だから、じゃあ、行こう」
「良かった。父は治君に久しぶりに会ってみたいと言っていたのよ」
「そう、少佐が僕にね。じゃあ、ちょっと着換えるから待っていて」
治は着換えるために自分の部屋に向かい。ジーンズに白いシャツを着て、少佐に会うというので鏡を見た。そこにはいつもの自分が映っていた。それから洗面台に行って、顔を洗い、口をゆすいで、水を少し飲んだ。
居間に戻ると、かなでと遥が椅子とテーブルを端に寄せて立ち上がって治を待っていた。
庭に出るとふと塩の臭いが強くした。治はああやはり初夏が来たんだなと感じた、この匂いがするのはこの港町にあっては初夏の事だ。初夏の湿気が地を這うように満ちた日に、その湿気に乗っかるように、この匂いが海からやってくるのだ。
三人はゆっくりと、駅へ向かいそこで、遥と別れた。遥は笑って手を振って交差点の向こうに歩いていった。遥はあれから治に何も、言ってはこなかったし、治も何も言わなかった。ただ、その事がまた現れてくることを恐れていた。遥もそれがわかっているから何も言わないのだろう。
治とかなでは浦賀に向かった。
両側を小山に挟まれた駅、山の中腹をトンネルで穿ち、その間を築堤でつないだ上に汐入の駅はあった。
そこへ、コンプレッサーの間抜けな音を響かせて、赤い電車が走りこんできた。これに乗っていけば、かなでの住む浦賀までは十分位で行ける。
席は空いていた。かなでと一緒にシートにもたれた。うっすらとクーラーがかかっていて、車内は涼しかった。電車は一つ一つと停車して、久里浜への分岐部で特急を待ち合わせしてから、しばらく走って、浦賀に着いた。
浦賀は終点の駅だ。電車はゆっくりとスピードを落とし小山をトンネルで抜けると、転轍機をわたり、駅に到着する。大きくも無い駅舎を出ると、バスの小さなターミナルがあり、そのすぐ目の前に大きなトタン屋根の工場が見える。それは造船所であった建物である。
浦賀は大きく陸地に切り込んだ、谷間の入り江が駅の前まできていて、その地形を利用した造船所は古くからこの街を支えた。しかし、今は、緑色の大きな人気の無いハンガーと、錆びにまみれ、吊りのあげの部分を切断されて、不恰好にされたクレーンが寂しげな姿をさらしている。
治は子どもの頃からこの街を知っていたが、造船所が閉鎖されて、ずいぶんと変ったなと思う。
治とかなでは駅を出て通りを真っ直ぐ警察署の方へ歩いた。かなでの家は西浦賀にあるのだ。二人はゆっくりと造船所の横を歩いていった。かなでは手を出してきて、自然に手を繋ぐ事になった。造船所の壁はレンガ積みですでに年月によって風化し、所々、崩壊して時間の景色を呈していた。かつての正門の横を曲がり、商店街を抜け西浦賀に入った。
そのまま、海を左手に、きれいに整備された歩道を真っ直ぐ歩いて、渡し舟の渡船場を横目にして、小さく沖に出た陸軍桟橋を過ぎて、海の傍らに建つマンションに入った。どこにでもありそうなつくりの十階建ての集合住宅、かなでの家は一階にある。
***
マンションの玄関をかなでに開けてもらって、そのまま進む、左に折れて、一階の一室がかなでの家だ。元々は汐入に住んでいた。かなでの母親、希恵の実家がそこにあったからだ。かなではそこで祖母の面倒を見てもらうことが多かった。また、少佐は任務で本国や国内の基地を飛び回って、横須賀に帰ってくるのは稀だった。今思うと、かなでは孤独だったのかもしれない。治と遥が遊びに訪れると、幼いかなでは決まってままごとをしたがった。そんな事を思い出した。
白塗りの、鉄製の扉を開けて、中に入ると、バーべキューソースの匂いがしていた。バラの花柄のアメリカ製壁紙が貼ってある、短い廊下を抜けリビングの外、庭に向かって窓が開け放たれてあり、緑の芝生が見え、さらにその先には浦賀の入り江がすぐそこに見えた。建物後ろ側が海に面して、庭を造ってあるのだ。治はこのつくりは気に入っていたし、いつもここに来ると少し羨ましいと思うのだった。
相変わらず湿気があるが、これほど海が近いとそよ風もあって心地よい。
庭に目を移すと、緑の芝生の上に折りたたみの、キャンプ場で使うような白いテーブルと椅子が四脚でていた。テーブルの上にはコーラやビールが並べられ、切り分けられた肉と玉ねぎやピーマンなどの野菜が皿に並べられていた。
海側の端の方で、かなでの両親が、あれこれと日本語と英語交じりで何かを言いながら、トンクでコンロの上の肉をひっくり返していた。辺りには炭火で肉の焼ける、食欲を刺激する匂いが漂っていた。
入ってきた、娘と治に気がついて、母親の希恵さんが治の手をとって、歓待してくれた。少佐も男らしい無骨な手で握手をしてそっと肩を叩いてくれた。
「治、久しぶりだね。君もだいぶ大人になったね」と少佐は日本語で言った、日常会話はとくに不十はない。
不意に大きなかもめが頭上を飛んで行った。
大きめの皿に、焼けた野菜と肉が盛られて出てきた。少佐は「どうぞ」というとそれを治の前に置いた。
今年、少佐もすでに四十八くらいを過ぎたと思う。そして、飛び回る事は少なくなってきた。治には米軍の事は良くわからなかったが、まだ、軍人として落ち着いてしまうのは早いのではないのか、それともある種のコースに少佐が乗っているのか分らなかった。
少佐は軍人だが物静かな人だ。背丈は高く、痩せ型で締まった体をしている。歩き方も大きな歩幅で歩く。髪は黒髪で、瞳はかなでと同じ色をしている。そして、とても機用である。皿に盛った料理は少佐が取り分けたものだが、適当に盛ったというわけでなく、きちんと盛り付けられている。
焼けた肉はしっかりと中まで火が通っていて、ソースは甘めの味がして、とてもうまかった。治はこの味を何回か味わった事がある。
かなではこの光景の中にいると、どこかアメリカ人のような感じがした。治はかなでの普段とは違った身のこなし、表情、少佐とのやり取りがそう感じさせるのだと思った。
だんだんと日が暮れてきた。
「治君どう、ずいぶんと久しぶりだけど、こういうの?」
「うん、とてもありがたいよ」
「楽しいでしょ」
「うん、確かに」
「治、君に今日は話があったんだ」と少佐が言った。
「話ですか」
「ああ、そうだ。君には突然の話かもしれないが驚かないで聞いて欲しい」少佐は治の目をしっかりとみて話してきた。
「はい」
「私たちは、来年には日本を離れようと思うんだ。私は海軍を退役して、家族でボストンの実家に戻ろうと思う」
「あっ・・・・・・」治は思わず驚いて少し間の抜けた小さな声を出してしまった。
「ついこの間決まった事なの、治君には黙っていたけど、今日話そうと思って、呼んだのよ」
治はかなでと視線を交わす。
「じゃあ、学校は?」
「学校は辞めるわ。そして、向こうのハイスクールに編入する事になるわ」かなでは言った。
「こっちでなるべくなら卒業して欲しかったけど、まあ、仕方ないわね」と希恵さんが言った。
「そうですか」
「治、やはり驚かせてしまった様だね。まあ、色々と機会が重なった事からこういう話になったんだよ。日本政府は同盟を縮小するから、横須賀のベースは自衛隊に返還される。それで、私はサンディエゴに転勤を命じられた。司令部付きのデスクワークだ。同期じゃ栄転だというが、そんなどこかの市役所の役人みたいなことをするために海軍に入ったわけじゃない。私はそんな事はやりたくない、船に乗って海と一緒にいたいんだ。それが出来ないのなら、いっそ退役して、財団の仕事を継ごうと思ったんだ。元々、私は海軍に入隊するとき退役したら財団の仕事を継ぐことを父に約束したんだ。それが少し早くなってしまったという事だね。でも日本も気に入っているので離れる事は私としてもとても悲しい」
「そうですか、では、その財団と言うのは」
「君には話したことは無かったかな、財団というのは、曽祖父が名の知れた投機屋でね。彼が大昔に作った財産を私たちの家族は管理したりしている。もう事業はあまり展開していないが、主に財産を運用して得られるお金で、様々な社会活動や教育事業といった非営利の活動を助けているんだ。それと曽祖父は余裕がなかった時から、あるリベラルアーツカレッジの発展と経営をずっとサポートしてかかわってきた。うちはそんなことをしているんだよ」
治ははじめて聞く話で驚いていた。かなでの父である少佐がそういう事業をしていたとは思いもしなかった。しかし、かなでが日本を去ると言うのは実感が無かった。それに、治はかなでを愛していたし、かなでもまた同じ気持ちではなかったか。
「治君ね。それで、私と一緒にアメリカに来て欲しいのよ」とかなでは治を覗き込むように言った。その瞳は期待に満ちて、激しく感情が高ぶっているという感じだった。
「僕がアメリカに」
「うん、君は娘のベイビーの時からの友人であり、私としては君が娘の傍にいてこれからも大切な友人として支えて欲しいと思っているんだ」
「治君は、かなでが好きよね」と希恵さんも笑っていた。かなでは真っ赤になってうつむいていた。
「私たちの家にホームステイしてハイスクールに一緒に通ったらいいさ、それと学業の合間に財団の仕事を覚えていって欲しい。私たちは君のことを気に入っているんだよ」と少佐は事も無げに言った。
「それは」
話はまたいきなり別の方向へ進んだ。かなでがアメリカに行き、それに治が付いてきてほしいと言うのだ。かなでの両親は明言をしなかったが、やがては自分たちの娘と結婚を前提にして欲しいという話なのだろう。
「治君、別にすぐでなくてもいいのよ。卒業したらでもいいから、こちらに来て欲しいのよ」とかなでも恥ずかしそうに言った。
治は軽く口の端を開け、間の抜けた表情をしていた。
少しそうしていた後、治は顔を上げて、何か不思議なものを見る様にかなでを見た。かなではいつものように特に動揺した風でもなく平静だった。かなでは微笑んでいた。
「なに治君?」
「なんでもないよ。カナ、なんでもない」
ここで、治は自分が全く違った、ひどく間違った考えを持っていたことに気がついたのだった。それは自分たち三人の関係に対する認識の違いだった。かなでは、かなでが考える未来を見据えていた。そういえば治はこの少女はそういう人だったという事をはっきりと思った。それは昔からかなでがこう思った事は必ず実行し、勝ち取ろうとする事だった。自分は何を考えていたのだ、かなでは今の関係を変えず、三人で同じ輪を均等の力で支え回していくに違いないと勝手に思っていたのだ。それは思えば虫のいい、都合のいい治の思い込みだった。
食事は静かに、すすんだ、少佐も希恵さんも落ち着いて言葉を選んで話す。さっきの話はもう全く出てこなかった。
食事が終わる頃には、治は何かひどく孤独な感じを抱いていた。しかし、なぜかその孤独な感じをこの家族たちにかなでに気取らせてはいけないと感じていた。
治は後片付けを手伝い。別れを告げ、かなでの家を後にした。
かなでが浦賀の駅まで見送ると言いだしたが、治はそれを断った。別にかなでを避けたかったのではなかった。独りになりたかったからだ。
***
治はゆっくりと浦賀の駅に向かって歩いた。マンションを出て、少し歩くと、小さなL字の桟橋が見えてきた。その先には浦賀の湾を渡る渡船の船着場が見えてきた。
治は歩きながら、遥の事を思い返さずにはいられなかった。遥はあの学校の踊り場でかなでと自分のどちらを選ぶのだと聞いてきた。そうなのだ。遥もとっくに今までどおりには居られない事に気がついていたのだ。それなのに自分は一体なんだ。遥との再会はその瞬間から、停められていた時計と三人の歩みが動き出す事は当たり前の事だったのに、自分はなんたるうつけ者だったのだろう。
治はそう思うと、これまでずっとそうしてきたこと、遥との関係やさっきまでのかなでとの食事などが、なんだか罪を犯していたかのように罪悪感をもたらすようになってきたのだった。自分が今までかなでと遥にやってきたことは客観的に見たら安っぽい色事師ではないかと治は思った。すると、自分が身の毛がよだつように、みすぼらしく、汚いもののように思えてきたのだった。吐きはしなかったが、むかむかして胃の中のものがせりあがってくるのを感じた。治は不意に、目前の桟橋の先に行って、海に身を投げてしまいたいと思った。もちろん治は実行しなかった。ただ、そう思ったのだった。
「すまない」と言う言葉が出かけたが、瞬時にそれは誰にだと思った。僕たちはずっとずっと生まれた時から一緒にいて、そして、最後には遥かかなでかどちらかの誰か一人を捨てて、二人にならなければならないのか。だったら、「すまない」なんて声を誰にかけるのか、それは自分になのか。治は自分をなんてひどい男だと思った。じゃあ、何とかしなければいけない、しかし何とかできる考えは全く浮かばない。
「どうしたらいい、どうしたらいい」と言葉に置き換えられない感情を抱えて治は歩いた。
かなでを嫌いになったのかと治は自分に問うてみたが、そんな事は無かった。かなでは微笑み、治の心は跳ねるように、そこに気持ちが向かうのを感じた。遥が微笑を浮かべ、それから、大声で笑っていた事を思い出した。治は抱き寄せたいと思った。
しかし、治はなぜか、そこで躓いた。真っ平らな地面に手をついて立ち上がり、埃を払った。手の甲がすりむけ血がにじんでいた。
「かなでがアメリカに行ってしまう。遥をどうしたらいい。僕はどうしたらいい」治はそればかりを言い訳のように思った。
つづく
お読みいただきありがとうございました。
だいぶ見直しましたがおかしな点があればお知らせください。
次回は「三人で横浜に行く」です。よろしくお願いします。