四話
道場の日々は、息つく間もないぐらいに目まぐるしく、一般道場生の稽古を終えると、さすがに疲労を感じてくる。
しかし、本当に厳しいのは全ての日課を終えた後だった。
一対一の師の骨身を削った個人指導だ。
剣については些かの自負を持つ一平が、四十半ばを越えた美田村に連日恐怖を覚えるほどに叩きのめされ、激しい叱咤を受けるのだ。
それは、鬼神と化した師の厳しい武道への導きだった。
師は尋ねた。
「聞きたいと思っとったんじゃが。何のためにお前は剣に励む?」
一平は頭を捻る。
「そう聞かれても……」
「宮本武蔵は好きか?」
「僕的には理想の剣士です」
「武蔵は剣の求道者ではあったが、サムライだったとは言えん」
「…………」
「求道は自己の追究だが、サムライは利他にこそ誇りを持つ者なんじゃ。古今東西、求道者は幸せには成れん。お前はオタクっぽいので、そこが気になっておる。私としては、お前は求道者でなく、むしろ武士の道の方を進んで欲しい」
復学後も一平の心は目的のない風船のごとく宛もなく漂っていた。
剣は生きる支えではあったが目的ではなく、大学も虚しく色褪せている。
一平は糸の切れた凧のように不安と孤独の空を彷徨っていた。
鬱々として過ごす最中、三島武錬館の先輩、東体大助教授で剣道部監督の畠山純蔵から同大酒食会への誘いがあった。
畠山は武錬館歴中最強と謳われている先輩で、幼少時の入館以来、何くれとなく気にかけてくれていた。
会は、男女半々で和気藹々としていて存外に楽しかった。
一平には、積極的な女子大生からの刺激的なハプニングもあったりして、結構な憂さ晴らしとなった。
アルコールが増すに連れ、会は徐々に盛り上がってくる。
「東体大剣道部の糞ったれ共に!」大声で唱和しては飲み干す。
一平も負けずに大声で叫び返す。
「帝応大剣道部の糞ったれ共に!」そして、「糞ったれの人生に、乾杯!」
「馬鹿野郎コーチに、乾杯!」
「我らの青春に!」
「魅力的な女に!」
唱和しては飲み干し、飲み干しては唱和した。
歌あり、踊りあり、ハイになった一平は、鬱積の箍が外れたように二次三次と場所を変えて、強かに酔うまで飲みまくった。
そして、最後は畠山と一平の二人だけで、畠山が行きつけと言う原宿のショウパブ・シャンソンカフェで、お開きとなった。
翌朝、アパートのベッドで、一平は電話の呼び出しに目覚めた。
「一平クン?」女性の声。
(イッペイクン?)
「朝早く、御免なさい。竹原恵子です」
「タケハラ?」
「えー、忘れちゃったの?昨夜、デジャヴュで純蔵クンに紹介いただいて……」
一平は言葉を遮った。
「ああ!思い出しました。酔いボケしちゃってて、すみません」
昨夜の記憶が蘇えった。
原宿のショウパブ・シャンソンカフェ・デジャヴにタクシーで着いた時、二人は既に三次会まで終え、強かに酔っていた。
「ここのママは俺の憧れでな」
畠山は一平の肩を抱える。
店に入ると、それぞれのテーブルに仄かなキャンドルが揺らめき、着飾った酔い客を映し出している。
客同士の会話を縫うように静かなマイクの声が流れ、ラメ入りの黒衣を纏った長身で華奢な、西欧人風の女性がライトに浮かび上がった。
手風琴をバックに優しく語りかけるように歌いだす。
やや掠れて憂いを帯びた声。
目を閉じ、思いを込めて歌う表情が母の亜紀に良く似ており、一平の目は釘付けになった。
歌い終え、マイクを置いた歌い手はそのまま一平たちの席に来て、
「お久しぶりね。今日はどう云う風の吹き回しかしら?」と、親しげに畠山を抱擁する。
そして、一平に目を留めるや、驚いたように目を見張った。
二人の間に同席する彼女に、畠山は郷里の後輩と一平を紹介する。
竹原恵子はこの店の歌手兼オーナーで、画家であり、美大の講師でもあるとのこと。
彼女は「占いもするのよ」と、付け加えた。
著名な画家を父に、母親がパリジャンと言う洗練された淑女だ。
畠山が彼女に一平の事情を話すと、恵子もまた三年前に一平と同年の息子を交通事故で亡くした過去を語った。
照明が再び暗くなる。
青白く映える西洋人風男性が、しわがれた低音の念仏のような聴きなれない音調で歌いながらスポットに現われ、鮮やかなマジックを披露した。
脱いだ帽子から小鳥や鳩、そして、兎まで引き出し始める。
やがて驚きの中、「夢のゴールドを!」と、歌い唱え、その奇跡の帽子から金粉を次から次に掴み出し空中一面に振り撒く。
金粉は空中で星々のごとく煌めき、降り行くフロアーは蛍に敷き詰められた夜野のように瞬いた。
マジシャンはステップを踏みながら巧みに各テーブルを縫い、
「ダイヤモンド、エメラルド、ルビー、サファイア、幸せの玉」と、輝く色とりどりの宝石を帽子から取り出しては溢れるほどばら撒いた。
悲鳴に似た客の歓声を尻目に、奇跡の歌い手が闇の中に消えて、会場が再び仄かに照らし出されると、泡沫のごとく財宝は一瞬の夢と消え失せており、失望の溜息とざわめきのみが残った。
「共同オーナーのパトリース・ジェルマンよ」恵子は秘密事のように囁く。
一平は、その歌が時として自からに湧き起こる奇妙な旋律に似ているように思えた。
「スキタイアン・アルタイですって。と、言っても分からないわね?」
キャンドルに映える恵子は美しく、時折見せる聖母のような微笑みに一平は見入った。
そして、語らいは、知らず過ぎ去りし母との懐かしさに誘うが、我に返ると深い寂しさに包まれるのだった。
暫しの間、席を外していた恵子は何人目かの歌い手の後に再びスポットに現れ、静かに染み入るように語り始めた。
「紳士淑女の皆様、今宵、歌祭りショウパブ・シャンソンカフェ・デジャヴュにようこそ。秋も深まり木枯らしが吹き始めると、あの身を焦がす熱い情熱の日々が遥か彼方の蜃気楼のように現実性がなくなります。
この世で最も恐ろしいのは愛する人を失う事、そして辛いのはその素敵な思い出が消えていく事。もう春は来ないんじゃないかと思う恐れと不安に包まれる時、私は神様に祈るの、愛と希望を下さいって。
願い事って叶わないことが普通だけど、奇跡ってあるのだと思ったわ。今日、懐かしいボーイフレンドと再会したの、その友達は若くて可愛い友人を一緒に連れてきたわ」
それからちょっと右手を一平に上げて、
「御免なさい、可愛いなんて。それがとても驚いたのは、事故で亡くなった愛しい息子にそっくりなの。歳まで同じ、これって夢見ていた御伽噺が現実になった気分。多分、奇跡なのよ。絶対そう思うわ」
恵子は束の間、目を閉じて再び話し始める。
「彼はつい最近、この上なく辛い別れを経験し、今絶望の淵を彷徨っている。苦しみって苦しむことを止めた時終わるのに、何も見えない。唯、暗闇の世界。私は分かるわ。だって、私もずうっと何も見えなかったから」
見開いた彼女の視線には一平が居た。
「貴方の・・灯火をつけるために」
そして、静かに祈りを込めるように歌い始めた。
愛の語りかけ、果てしない闇の中に竹原恵子を通して一点の灯火が見える。
電話の向こうからクスクス笑うのが聴こえる。
「良かったわ、忘れられてなくて。貴方、お店に大切な物を置いて行ったのよ」
「まさか!・・ちっと待って」急いで昨夜着ていたジャケットとパンツのポケットを探ってみた。
「……あ! 財布がポケットから消えてます」
「失礼して落し物の中を調べてみたら学生証でしょう。電車の定期証に自動車免許証、カードに現金まで入っているわ。貴方、これがなければ困るでしょう? 今からお届けしましょうか?」
「とんでもない。其方に直ぐ参ります」
「今、青山のアトリエの方にいるので、来るのは難しいかも」
少し間を置いてから、「良かったら十二時頃、カフェ・デジャヴにいらっしゃれば? お昼を御馳走するわ」と、言った。
「御言葉に甘えて、そうします」
「でもこれ、全財産じゃなくって? 此処まで辿り着けるのかしら?」
「大丈夫っす。リッチなオカマ紛いのルームメイトが控えていますので」
「オカマ紛い?」
「彼、貸したがりやなんです」
「可笑しな人!」心地よい笑い声が耳に響いた。