四十六話
一平が運転するランクルは浪江の大堀の里に向かっている。
「ヒロコさんは一緒しなくて良いんですか?」
「お嬢はスケジュールが一杯やて」
浪江町内を抜けて、郊外に十分ほど走ると、大堀の小高い丘に鎮守の社然とした香取神社が在る。
「此処で、羅門とユメさんが式を挙げたのが、つい先日のようや」
椿の林立する窯場跡と泉に半ば浸っているユメの墓前に額ずく時、何故か一平は込み上がるものに涙が止まらない。
車は旧牧野邸跡に向かって走っている。
高ぶりが治まった一平は、極めて爽快な気分だった。
「先生は義理とは言え、姉弟の関係だった加奈子さんと、如何して結婚したのですか?」
「それは、お上品とは言い難い……」
修也が渡米中、牧野の養父が死ぬと、後追うように加奈子の母が亡くなった。
加奈子は終戦後もそのまま邸宅に住み続けた。
戦後の土地改正で、全ての農地を失い、敷地の切り売りと民報社の記者としての給与で、かろうじて邸宅を維持している。
帰郷した修也が、「家なんかに拘っていないで、東京か大阪に来るといい。田舎では姉ちゃんに引き合うぐらいの男もおらんと思うし」と、言うと、加奈子は首を振った。
「こんな背高のっぽ、貰ってくれる人なんか何処にもいないわよ」
加奈子は身長百八十のスレンダー、今で言うモデル体型だ。
「僕が弟でなきゃ、速攻でプロポーズしちゃうんだけどなあ」
「修ちゃんみたいならね」加奈子は満更でもなさそうだ。
「背の高さから言ったら、七ちゃんなんかもつり合うと思うがな。でも、奴もいい加減だし……」
加奈子は話の止めを刺した。
「そんなことより、自分のことを心配なさい。何時までもフラフラしていちゃいけないわ」
修也にとって、才媛にして美貌の加奈子は誇らしくはあったが、凛とした生き様と姿勢に気圧される。
それもあって、帰郷(アルバイトの外国文の翻訳のため)しても、ほとんど終日に俊英家か七郎家に入り浸っていた。
加奈子には、それがまた癪の種になり、どうしても説教じみてくるのだった。
それが、ひょんなことから思わぬ展開となる。
七郎の帰郷祝いなる酒を俊英宅で上げて、九時に帰宅した。
加奈子は既に自室に引き上げ、読書・執筆タイムに入っている。
修也の寝室には蚊帳が吊られ夜具が敷かれていた。
修也は消灯し、縁側に一升瓶を置いて迎え酒をする。
夏の夜は満天の星空で、湿り気を帯びた夜風に庭木が葉音を立ててそよいでいた。
加奈子の部屋の障子戸が開き、浴室に歩む気配。
(風呂か……)
突然、悪戯心が起こった。
何と、入浴を覗き見する無頼な企みだ。
浴室は渡り廊下で繋がっている離れ屋で、外を望むガラス戸は二重の生垣に囲まれている。
不埒な盗視者は音をたてず匍匐し、外垣を抜け絶好の覗きポイントに陣取った。
程なく浴場入り口のガラス戸が開き、髪を巻き上げた全裸の加奈子が淡い裸電球の中に白く浮かび上がった。
(凄い!)
修也は加奈子の生身の迫力と、見事なプロポーションに目を見張った。
加奈子は窓越しに修也の潜む辺りを見たが、何事もないかに膝を折り、かけ湯をとってから、徐に全身を入念に洗う。
修也には加奈子が、その抜けるように白い長身を浴槽に沈めるまで、官能的な儀式を見ているように思えた。
酔いが吹っ飛んだ修也は、部屋に帰ってからも加奈子の裸がちらついて眠れない。
翌日の朝食、何時も通り凛とした加奈子がいた。
「修ちゃん、元気がないわね。風邪かしら?」
加奈子は修也の額に自らの額を付け、「熱はないみたいだし、夜遊び症候群ね」と、微笑んだ。
それからの修也は参った。加奈子を見るたびに白い裸体がよぎり、あらぬ妄想を掻き立てた。
そして一週間後、耐え切れず再び覗きをしてしまう。
(自制が利かない!)
加奈子が「修ちゃん、此処のところ何か変よ。家に居てくれるのは良いんだけど……」と、心配そうだ。
修也は募る白い肉体への渇望と自制心の狭間に悶々としていた。
卓上スタンドの明かりが灯る時、酒を引っ掛け、酔った勢いで修也は加奈子の部屋に足を進めた。
障子越しに声をかける。
「話したいことが……」
「どうしたの?お入りになって」
加奈子は薄い白襦袢で、座式の机に向かって書き物をしていた。
(風呂上りの石鹸の香り)
修也は何も言わず逃げ出したい心境だ。
「話したいことって?」
加奈子がもじもじ座っている修也の膝に手を添える。
「一体如何したの?」
「此間、俊ちゃんのところから酔っ払って帰ってきたら、加奈姉ちゃんが風呂に入るところだったんだ。そこで、悪戯心から生垣に潜んで、……入浴する姉ちゃんを覗いた……」
加奈子は真っ赤な顔でしどろもどろに覗きを告白する修也に噴き出した。
「おかしいと思った。此処のところ様子が変だったもの。……でも、そんなこと二度としちゃいけないわ」
「それがその、裸が頭から離れなくって、……で、又しても覗きに行った……」
「…… ……」
「僕は懸想してるのか、此処のところ想いが募ってきて完全に参っている。多分、頭がイカレてる……」
加奈子は思いもかけない告白に声が出ない。
修也は声を張り上げる。
「姉ちゃんが……愛しくて堪らない!」
突然、修也は靠れるように正座している加奈子の膝を抱え込み、想いを込めてその上に顔を置いた。
束の間、我に返った加奈子は「修ちゃん、いけないわ!」と、慌てて立ち上がろうとしたが、頭に足を取られ、そのまま仰向けに引っくり返った。
開いた長い両足の間にすっぽりと修也が入り込んだ形に腰を抱え込んでいる。
裾から白い太腿が露出すると、襦袢の下に何も着けていないのに、修也は逆上せ上がった。
「止めなさい!」
毅然とした叱責の声に一瞬怯んだものの、離してしまったら二度と加奈子の顔を見れないような気がして、修也は振りほどこうとする加奈子に夢中でしがみ付いていた。
揉み合い、加奈子は息を切らし「修ちゃん、……如何して……こんなことするの?」と、離れようとしない弟に喘ぎながら訴える。
夜衣ははだけて捲くれあがり、汗まみれの乳房と下半身が目映く剥き出しになっていた。
修也は顔を起こし、想いの丈を込めて叫んだ。
「加奈姉ちゃんが好きで、好きで、堪らないほど、大好きだからだよ!」
加奈子は大きな瞳を張り裂けそうに見開いて修也を見詰めた。修也は今にも泣きそうな、必死の形相だ。
加奈子の全身から力が抜けた。
その夜は、何時までも風の雨戸を揺るがす音と、庭木を抜ける風が絶え間なく潮騒のように鳴り続いていた。
修也はキッパリと宣言した。
「姉弟なんて、所詮は書類上のこと。直ぐにも養子縁組を解除する。だから、俺たち結婚しよう!」
思い出を語る牧野老人は懐かしげだ。
「……美也子が生まれ、私たちは終生尊敬し合い、彼女がベトナム戦争取材で逝かれるまで幸せやった。一平君、愛と欲望の境はファジーであり、タブーなんて在りゃあせん」
一平は恵子を思い浮かべていた。
ランクルは旧牧野邸跡に着いた。
敷地は切り売りされ、何軒かの住居に細分されて、昔を偲ばせるものは何もなかったが、背後の山への登り口に、牧野家の社を祭る一坪ばかりの土地が残されている。
「お稲荷さんですね」
「牧野家の隠れ宗教や。一平君は稲荷がキリスト教由来だと言うことを知っているかね?」
「初めて聞きました」
「初期キリスト教である景教(ネストリアン派)が伝えたⅠNRⅠ(イスラエル、ナザレの王)がイナリに訛った」
車は大悲山に戻る前に、妙見神社から町を挟んで対面にある吉名の森に向かった。
「確認して置かなきゃならない所があるんや」牧野は自らに言い聞かせるようだ。
暫し舗装されていない道を進むと、牧野は右手の小高い丘を指差した。
「あそこに避病院が在って、立ち入り禁止区域やった」
「避病院?」
「伝染病の隔離施設や。そして、その奥に乞食たちの集団居住区だった洞穴群があった」
最寄の空き地にランクルを停め、牧野の導くまま洞穴群を目指し崖沿いの山道を歩む。
やがて、木々の帳が開き、広場の前に苔むした複階の横穴群が現れ、その中央に判別がつき難いほどに崩壊している縦五メートルぐらいの首なし磨崖佛が結跏趺坐していた。
「兵どもの夢の後。親に命じられて食料などの差し入れに訪れると、乞食たちが思い出話や経験談を聞かせてくれたものや」
「何故、首がないんですか?」
「奥州遠征の際、八幡太郎義家が切り取った。彼自身の出生の秘密を隠すため……」
「出生の秘密ですか」
「六本指の上、三つ目だったらしい」
「三つ目?」
「噂話として古書に記されているのやが、終生鉢巻で隠していたと……。義家は川で拾われた捨て子だった。源氏で義家だけが八幡の太郎と呼ばれているのは意味がないわけやない。八幡太郎をヘブライ語で解釈すれば神の御子や」
洞穴群を右手に半時、狭い谷間を縫うように走る複雑な獣道を潜り抜け、十数メートルも下ると、水芭蕉が一面に咲く湿地が在った。
靴を脱ぎ、裸足で次第に奥へと入り込む。そこは、草と樹々に埋もれ、昼なお暗く鳥の声も虫の音もない霧深く湿った世界。
湿地の水面に仄かな光が浮かんでは消える。
一平は耳鳴りと共に、ツーンと鼻に抜ける疼痛に襲われ立ち止まった。
(ダールラハアマ・ムング、ダールラハアマ・ムング)