四十一話
ミョウジン山荘に続く森の小径は、馥郁とした夜香木の香りが満ちている。
山荘の石門に、エンキが待っていた。
「ようこそ!我等が庵に」
シャラは長年の知己のように預言者に腕を預ける。
「よく私が来るのが分かったわね」
「シャラさんのことなら、何でも」
「私が手の内にあると仰りたいの?」
若者は笑った。
「私は蒼尻フェチの竜神かも」
ミョウジン山荘は、大きな洞窟から屋根がせり出すように設えられた二階建ての造りである。
中は意外に広い岩肌の壁面に囲まれた洞窟空間だった。床は奥深くまで無垢の木で板張りされ、裸足で歩くように清潔に磨かれている。
ダイニングを兼ねた広間には、小振りの楕円形テーブルに二人分の夕食がセッテイングされていた。
「部屋からの洞は鍾乳洞窟に続いていて、自噴の天然温泉風呂が隣接しています。宜しかったら、食事後の御入浴は如何ですか?」
「貴方と二人でってこと?」
「お許しいただければ」預言者は片目を瞑った。
「素敵!堪らない誘惑だわ」シャラは体を寄せ、さり気なく挑発する。
淡い照明、テーブルの上に用意された食事と野葡萄ワインは素朴そのもので、飾り付けの山野花と大きく盛られた季節の果物を除けば、拍子抜けするほどあっさりしている。
「手料理が気に入ると良いのですが。これ等の果物は今朝方、周りの山野から採取しました。こちらは貴女のために私が搾った蜜山羊の乳です」
「蜜山羊の乳ですって?代表会談と言う雰囲気じゃ無さそうね。昨日の……救いの御子は?」
「ユズキはラッサに向かっています。そう、シャラさんのドップラップに皆が感動しておりました」
「貴方には満足していただけたのかしら?」
「勿論!それに、あの痺れるような接吻!」
「あれは役得だったわ」
蝗の姿煮を箸でつまみ上げ、目を丸くする。
「これは冗談かしら?」
「昆虫料理はお気に召しませんか?」
「美味しいの?」
「蝗を野の蜜と豆醤で佃煮にしたもので、苦菜に包んで召し上がって下さい。野葡萄ワインの肴に結構イケると思います」
「香ばしく不思議な味」
「私の馴染みのメニューです」
「貴方は私たちの教祖とは大分異なった教主様だわ」
給仕が退いた後も、山小屋で二人だけの楽しい会話が続く。
食後のワインを呷って、落ち着いたシャラは徐に話を切り出した。
「今回の会談の目的はハンカとミロクの友好と今後の共同歩調、あるいは将来の合併を模索するためなの」
エンキは溜息を吐いた。
「貴女の言うこと、貴女の使命、貴女の考えていること、そして貴女の状況、私は貴女のことは全て隈なく知っています。……ですから、茶番は止めて、本音で話し合いましょう」
「どう言うことなのかしら……?」想定外の言葉にシャラは息を潜めた。
「テレパシーで、全て貴女のことは分かるんです」
「テレパシー?」
「シャラ、貴女はミロク教をハンカの支配下に組み込むべく、さもなければ、私を暗殺、あるいは篭絡して、社会的もしくは人間的に抹殺するために差し向けられた。
でも、何故か……私に強く惹きつけられ、ミッションに迷いが生じている」
シャラは紅潮した。
「貴方、背負い過ぎじゃなくって?」
「私には黄金の糸で私たちが結ばれているのが見えるんです」
「黄金の糸ですって?」
「嘗て、人は皆、雌雄同体のアミリウスだった。
分離した男と女の魂は、結び付けられている赤い糸を手繰りながら運命的に嘗ての片割れを求め合う」
「まさか、私がその何とかの女パートだとでも?」
「男のパートだったことも」
シャラは苛々し、声高になった。
「テレパシー?生まれ変わり?アミリウス?黄金の糸?私が貴方に参っているって?話にならないわ!」
憤然と立ち上がろうとするシャラを、エンキはテーブル越しに両手で抑えこむ。
「曇りを払って真実を見るんです!」
すると、シャラは抑えられているエンキの手から、電流のように何かが体の中に流れ込むのを感じた。
「……貴方は何を?」
シャラは我が身に起こった感覚に絶句する。
肩を抑えたまま、エンキは被さるようにシャラの瞳を見つめていた。
シャラは洪水のように溢れる記憶の嵐に漂い、目くるめく時の流れに圧倒された。
「ナム・アゲラー、私は如何なったの?」
我に返ったシャラが呟くと、エンキはにっこり微笑んだ。
「心の靄が祓われて、本当のシャラさんが蘇えったのです」
「貴方と私は……一つの体、一つの魂だった」シャラの瞳から涙が溢れ出た。
エンキは慈しむように語りかける。
「一杯になっている器には、それ以上入れられない。過去を捨てうる者だけが未来を手に入れることが出来るんです」
シャラは首を横に振った。
「問題は、……ミッションを如何するかだわ」
「魂の穢れは洗い落とされています。もはや貴女を支配しているものは、幼い時から植え込まれた恐怖と、卑怯な企みだけ」
エンキは小瓶を棚から取り出し、シャラの目の前に蓋を開く。
シャラは強い誘引に顔を引き攣らせ、喘いだ。
「これは!」
「禁忌の常習性催淫薬のハンツンバです」
「何故・・・貴方が?」
「私は医者で、ホメオパシスト、ハアニスト(アカシックセラピスト)の他、アロマセラピストでもあるんです。
ターミナルでお会いした時、魅惑のフェロモンに混じって匂いました。ハンツンバは恐るべき催淫効果で、セックスと合わせて使われると、その強烈さゆえに相手の肉体まで刷り込みとなり、その虜となってしまう」
エンキは秘密めく、声を潜める。
「シャラさんは私に抱かれたいと思いませんか?」
シャラは耳を疑った。
「今、……何て仰ったの?」
「私は貴女と一体になりたい。私たちは同魂であるのを感じ、お互いに強く惹かれ求め合っています。隔てるものは何もない。シャデックが嵌めた薬物依存から完全に抜け出るまで、貴女をここから帰したくありません」
* * *
老人の話が佳境に入ろうとする時、
「二十分ほどで小高駅に到着します。誠に申し訳ありませんが、切符を拝見いたします」と、車掌の声が入った。
「二人はそれから如何なったのかしら?」
車掌が去ると、ヒロコは異世界物語の続きを促した。