三話・転機
竹原恵子と最初に出会ったのは三年前になる。
◆ ◆ ◆
大学に入学して半年、東京の生活に慣れてきた矢先、衝撃の通報がもたらされた。
母の突然死!
母一人子一人の一平にとって、その衝撃は深く、今だにその前後の記憶が跳んだままになっている。
父の亡き後、母の亜紀は横浜の国際貿易会社をそのまま引き継ぎ、IT会社も立ち上げ、辣腕の美人実業家として名を馳せていた。
その母が、東名高速道を深夜一時に走行中、大型タンクローリーに衝突され、同乗していた専務の須佐野童児と共に即死したらしい、と言うことだった。
らしい、と言うのは事故の瞬間に車ごと爆発炎上して跡形も無く燃え尽き、遺体の確認が全く不可能で状況確認しかできなかったからだ。
須佐野童児(三十二歳)は華奢で小柄な男装の麗人を思わせる女形だった。
出所は謎めいており、母の親戚筋と言うことで、子供の時から養子のように引き取られ、別棟の離れに暮らしていた。
もっぱらの噂では、父の無我が何処やらから見つけてきた彼の寵童とも言われている。
一人っ子の一平にとっては、歳の離れた頭の切れる兄貴と言うか姉といったら良いのか、一言では言い難い存在だった。
とあれ、何かと噂に高い美貌の未亡人と、女形にも拘らず所謂独身男性との深夜の事故であった為に諸々の憶測が飛び交っており、一平はショックと混乱の渦の中で途方に暮れていた。
葬式や遺産処理、仕事の引継ぎ問題等煩雑な事柄がまるで他人事のように通り過ぎて行く。
一平は佐々木家別宅にあたる伊豆大仁の通称・立花屋敷と呼ばれる瀟洒な洋館に引き籠もって、ひたすらに思いつめていた。
死の誘惑と、絶望、索漠たる人生の予感。
最早、一平は精神的に正常とは言い難かった。繰り返す波のように出現する幻想、夢と現の境が消え失せている。
パジャマのまま、ダイニングの椅子にもたれてぼんやりしていると、弾むような明るい声が響いた。
「朝寝、遅起き身上潰すって言うけれど、全くその類ね」
声の方向を見て、一平はギョッとした。
エプロン姿の母親・亜紀が立っている。
「何よ、お化けでも見るみたいに!」
食卓の上には一平の好きなズッキーニのパスタが湯気を上げていた。
「ガールフレンドぐらい作りなさい。最近、サムライ化石の美田村大先生っぽくなってきたわよ」
一平は訝しがりながら、辺りを見回した。
「専務が迎えに来るわ。VIPなクライアントに重要なプレゼンテーションがあるの」
「童児さんが?」
母は忙しそうだ。
「明日、大丈夫?誰かさんと約束なんかしてないわよね」
「明日って?」
「やだ、箱根に美田村さんと、御家族を御招待したでしょう?」
箱根の山荘で、美田村夫妻、高校生の娘二人と過ごした日を思い出した。
「しっかりしてよう。私にとってタイトなスケジュールでの休暇は貴重なんだから」母は楽しそうだ。
「一平、また伸びたんじゃない?お前は隔世遺伝で、お祖父ちゃん似ね」
「お祖父ちゃん似?」
「一族の伝説よ。大きくて、百九十以上あったって」
「でも、お祖父ちゃんは……?」
亜紀は手を振った。
「佐々木じゃなくて、福島の井里よう。ユメ祖母ちゃんが何時も、一平はお祖父ちゃんそっくりだって。それと、パパは胎児被爆の精子衰弱症で、お医者さんから子供ができない体質って言われていたの」
「えっ!それって……?」
「だからあ、君は奇跡の存在なの」母は声を上げて笑った。
母は飲茶を終えると、
「必要なものはスーツケースに入れといて。今日は麻奈子さんたち(管理人夫婦)の来る日だから洗濯物は出しといてよ」と、伸びをしながら部屋に引き上げて行った。
遠く教会のチャイムの音が聴こえる。
天井と床がグルグル回りだした。
天窓からの仄かな明り。
枕元にはギフトリボンで無造作に結ばれた包みが置かれている。
開くと、夜目にも素晴らしい鹿角の握りのついた黒曜石の石ナイフが現れた。
出張から帰った父の土産だ。窓から注ぐ月の光に透かして見回すと、そこは懐かしい屋根裏部屋だった。
何もかもが幼児の頃そのままであり、お気に入りだったテレビキャラクターの宇宙戦士柄のパジャマを着てベッドの上にいる。
枕元には使い物にならなくなったはずのゴジラの目覚まし時計が新品そのままに時を刻んでいた。
階下から音楽が聴こえて来る。
部屋を抜け出し、両親の寝室のドアを開くと、咽返る薔薇の香りとシンセサイザーの曲が溢れ出た。
一平は壮絶な光景を目にする。
出窓から煌々と差し込む蒼白い月の光、髪を振り乱して白い肉体を上気させた全裸の亜紀が、ベッドの上にひざ立ちに喜悦の表情を浮かべ、乳房を揺らし、喘ぎ悶えていた。
そして、亜紀の膝下に従えられて笑みを浮かべて下から奔馬のように突き上げる小柄な青白い裸身は、女化粧を施した童児少年だった。
立ち尽くす一平を後ろからがっしりした手で部屋から引き出す者がいる。
叫びだしそうな一平の口を塞ぎ、自らの口に人差し指を当てて目配せするのは父だった。
快楽の呻き声に寝室を振り返ると、そこには絡み付いてのたうち回る小角と手足のある大小二匹の白龍が居た。
快楽の咆哮を後に、一平を抱えたまま父は階段を降りてリビングルームを横切り、庭に続くベランダに抜けた。
眼前に見上げるような絶壁が悠然と聳えており、巨大な洞窟が開いている。
雷鳴が轟き、家中の照明が一斉に燈されるのを見た。
トンネルを奥に向かって、父と子は走る。
雄大な輝きが前方に現れた。
螺旋状に回転する壁一面、無数の煌めきが金粉を振り撒きながら光に向かって吸い込まれていくのが見える。
白銀の世界、一点の曇りない晴天に輝く陽光はサングラスを透してもなお眩しく、粉雪を巻き上げ雪原を吹く風は身を切るほどに冷たく感じられた。
擦り切れた外套を纏い凍傷に犯された手足を引き摺りつつ、何度も倒れては立ち上がり、立ち上がっては橇を曳きながら目的地に向かって歩み続ける。
橇には麻布に包まれた血塗れの死体が雑に括りつけられており、露出している頭部と髪は寒さに凍り付いていた。
断崖の頂に橇を引きずり上げた時、途方も無く大きな円形の寺院様物体が麓から頂に競り上がって来る。
七色に表面が輝く巨大な鈴。
それは見る見る空を覆い、若者は遮られた陽光の中、宵のような薄明かりに佇んでいた。
仄かな闇の中、……鈍く青光りした剥き身の山刀を抱いて彫像の如く、白髪の老人は燃える暖炉の炎に微睡む。
薪のはぜる音、燃える木の香り、ゆり椅子に座った老人は一平その者であり、炎の揺らぎの中、果てしない時間に過ぎ去りし人生を夢見ていた。
窓の外は一面の銀世界であり、……遠く、狼群の遠吠えが夜を貫く。
一平は恐るべき想念にゾッとする。
(針の止まった時計の下に微睡む老人こそが現実であり、焚き火の炎に映ろう十八歳の自分は老人の夢見る幻影にすぎず、その微睡みから醒める時、空想に蠢く自分は消滅してしまう!)
……晩夏の風の香りと蜩の音に目覚める時、ダイニングの窓に富士の霊峰が夕日に映えて幻想のごとく浮かんでいた。
テーブルの上、飲みかけの生ぬるいスープに紛れ込んだ小さな羽虫がその中で微かなもがきを見せている。
庭に続くベランダに彷徨い出ると、絶壁は跡形もなく、離れ家に続く立ち葵の小径が夕日に赤く染められていた。
童児が暮らす蔦の這う白いサイデングの離れは、小さなチャペル。
扉を開けて中に入ると、床まで白い室内が、さらに白いカーテンで仕切られる区切りの見えない空間。
等身大の鏡が四方八方に設えられ、白い靄が漂っている。
歩むに従い次々と純白の幕が開き、少年は無限の世界に嵌まり込んでいた。
一平は病院のベッドに居た。
天使(?)が一平を覗き込み、
「お目覚め?」と、微笑んだ。
「此処は天国?」
天使と見紛ったナースは楽しそうにクスクス笑い「先生を呼んで来ます」と、歩み去った。
中年の医師が事務的に検査を済ませ、「美田村先生が先程から待っている」と、退室する。
入室してきた師は一平と目を合わせると、にっこり微笑んだ。
師は一平に、こと此処に至った成り行き(今朝方、管理人夫婦がダイニングの椅子で意識を失っていた一平を見つけて三島市の救急医療病院に搬送したことや、通報により急遽美田村が駆けつけた状況)を説明した。
「偶々、此処の先生が道場の門弟での」
一平は堰を切ったかに、ここ一連の歯止めなく起きる幻想を話した。
美田村は愛弟子の止めどない話を聞いていたが、一平が口を閉じると、大きく溜息を吐いた。
「ヤバイとは思っとったが・・」
そして、労わるように告げた。
「一平、雪香(美田村夫人)とも話したんじゃが、復学するまで、我が家で暫くゴロゴロしておれよ。スポーツ崩れしてきたお前の剣を、もう一度洗いなおす良い機会かもしれん」
「先生のお宅に……?」
「お前は親友から預かった息子のようなもんじゃから。ま、麻子もしのぶも憧れの一平お兄ちゃんが来ると言ったら大歓迎じゃろ。
無論、居候らしく掃除洗濯、道場の管理、それに道場に来る少年剣士たちの師範代も兼ねるんじゃがな」
「僕が師範代?」
「子供たちにとっても現役大学選手・昨年の県高校チャンピオンのお兄ちゃん先生に教えてもらうのは良い刺激になる」
「僕に出来るでしょうか?」
「出来るも、何も、このままだと、本当にお前はイカレてしまう」