三十二話・大わに
道院では、羅門が先導するVIPの来訪で、大変な騒ぎになっていた。
何かと世間を騒がしていた大本教の出口王仁三郎(大ワニ)が、合気道の植芝守平等の供を従えての御忍びだった。
当時、大本教は甚だ困難な立場に置かれていた。
不敬罪と破防法による弾圧以来、飛ぶ鳥落とす勢いに陰りが見えている。
遡ること三年、王仁三郎は「三千世界の立替立て直し」を宣言した。
全世界の宗教を融和・統一して、愛に満ちた至福の世の橋頭堡として、満蒙に大高麗国なる一大霊的フリーゾーンの理想郷を確立するとのこと。
そして、その暁には支那を皮切りに各世界宗教の聖地を巡行し、終点のエルサレムに宗派を超えた統一世界霊的自由戒壇を設立すると宣言したのだ。
僅かな供を従えて大陸に渡ったワニの大真面目なドンキ・ホーテぶりを、マスコミ(特に新聞各社)は暗雲が漂う国際状況のガス抜きとして、連日のように大仰に報道していた。
しかしながら、事態は思わぬ展開となる。
蒙古の英雄である馬賊の頭目盧占魁が先導を買って出たり、万教同根を主とする紅卍教や世界イルミナティ、メーソン・リー、政商で元海軍大佐の矢野祐太郎や、探検家にして革命家支援者として名を馳せていた元陸軍大佐の日野強等、東アジアにおける名だたる有力な各界の雄が支援を申し出たのだ。
そして、朝鮮、満州、支那と、お祭り騒ぎを繰り返しながら行脚する内に、付き従う民衆の数が数百人から数千人と膨れ上がっていった。
しかもその構成が、日本人はもとより、支那人、満人、朝鮮人、ロシア人、白露人、ウイグル人、チベット人、蒙古人等々多種多彩であり、蒙古入りする時には加速度的に万を超える大移動となっていた。
新聞等の報道インタヴューでは他人ごとのように、
「満蒙の理想郷・大高麗国自由地域設立時には十万どころか百万に、エルサレム合流の暁には千万になってしまうんやないかな。人類至福の世は意外に間近かも知れんのう」等と、応じてている。
その頃になると、日本をはじめ東洋中が、ことの成り行きに固唾を呑んで見守っていたが、ワニは能天気そのもので、世界統一宗教の自由戒壇の設計図などを各国の記者等に見せたりしていた。
そして、実にあっけない幕切れ。
何と!ワニの最大の後援者であり、忠実な僕と言われていた満蒙の独裁者・張作霖が、天地万物の愛によって守られていると豪語していた王仁三郎一行を裏切り、捕縛したのだ。
捕縛理由は、人数の急速な膨張ぶりに各宗教が恐れをなしたとか、単に張作霖の金目当ての行為とか真偽のほどは定かでない。
銃殺が免れがたいと思われたのが、奇跡的に虎口を脱して帰還したのは、当時の報道新聞などで知るところだ。
日本に帰った王仁三郎たちを待ち受けていたのは、厳しい大本教への弾圧だった。
不敬罪と日本転覆計画に対する破防法の適用。
官憲による総力を挙げた捜査にも拘らず、何らの証拠も見出すことが出来ない冤罪捜査となる。
しかし、その後も続く新聞等のネガティブ・キャンペーンに、王仁三郎も大本教抹殺の更なる弾圧が避けがたく感じていた。
修学道院に到着した王仁三郎は、出迎えの中にユズキの姿を認めると慌てて下馬し、転がるように走り寄って跪いた。
「尊様とお会いできて感激の極みじゃ!」
ワニの目に涙が浮かんでいる。
「尊様。此処に来たのはお願いが……」
はっとしたように「キサ殿」と、ユズキは応えた。
「貴方の期待には応えられませんが、心は分かち合えます」
「そこを枉げて助けて下され。このままでは三千世界の立替立て直しは徒労に終わってしまう」
余人には分かり難い二人の会話。
阿武乱院長が割って入り、
「我ら院一同、大本と聖師を心から歓迎申し上げます。緩々と温泉など浴びて御寛ぎ下さい」
と、宿舎に案内するのだった。
一行滞在の一週間、院内・村全体に様々な憶測と噂が飛び交っていた。
特に驚かされたのは、修学道院へ申し出た莫大な高額寄進と、初対面にも拘らず、知己の親友か、年齢から言えば親子のように、密接なワニとユズキとの関係である。
王仁三郎がこの時期に修学道院を訪れたのは、物見遊山の類ではない。
それは、来るべき本格的な第二次大本教弾圧後、救世主としてのユズキと、その審神としての羅門の二人を大本に懇請・懇願することであった。
ワニはユズキを説得する。
「宇宙の雛形が地球世界、世界の雛形が日本、日本の雛形が大本、さすれば、貴方が大本に手を貸して下されば、日本のみならず世界、宇宙を救うことになる」
懇願の内容が大鰐らしく稀有壮大だ。
対するユズキは何も語らず、王仁三郎に法力をもって、来たるべき幻影を示したと言う。
現出した異世界でのユズキと羅門、フリン、円気等の壮大なドラマと宿命とも言える人生、そしてまた日本と大本教の行く末。
ワニは過酷な宿命と、自らの前途に慄然とした。
「根本からボタンの掛け違いだったのやろか?」
「天命なのです。避けられない定めを悟った時、如何に対処するかが本当の価値……」
ワニは唸った。
「そうと分かれば、さっそくに神示の著作(霊界物語)完成と引継ぎのための日月の裏神業を行う準備をせねば。
それにしても、異世界における苦難の立て直しに、今生で参加出来ないのが残念至極や」
結局、大本一行は羅門を残して村を去って行くのだが、帰る際の大ワニの顔は、一点の曇りもない晴れ晴れとした悠揚迫らざる聖者の趣だった。
「万物雛形論の理から断ずれば、霊界(相似の異世界)で起きることは今世でも起きるし、今の世で起きることは霊界でも起きる。
宿命が避けられないなら、愛と誇りこそが唯一無比のもの。来るべき弥勒のため、敢然とわが身を呈そう」
* * *
季節は巡り、そこはかとない秋の気配を感じる頃、修学道院の夢のような少年少女の時が終わりを告げようとしていた。
卒業まで半年、我らが竹内沸林が一身上の理由で退学を申し出る。
磯原天津教竹之内事件。
南朝天皇系に伝わる古史古伝『竹内文書』の一般公開による不敬罪。
フリンは若年の身ながら、一身を賭して竹内家存亡の危機、あるいは語り継がれ守り続けた歴史の抹殺を阻止すべく、急遽磯原へ帰還することを決意したのだ。
風神の谷村の外、水境高原の縁まで、修也、ユズキ、麻耶は旅立つフリンを見送る。
フリンの騎乗する驢馬を引くのは修也だ。
修也は涙を溜めて感謝する。
「フリン君!今まで本当に有難う」
「馬鹿野郎!涙が止まんなぐなっぺ」
別れに際し、フリンはユズキに告白した。
「心に抱いていた想いが……。最後に、お前のキッスが欲しい」
ユズキは驚いたように目を見張ったが、「敬意と愛を込めて」と、抱擁して頬に接吻した。
フリンは騎乗して高らかに叫んだ。
「イヤッホー!色気のないキッスだったが、これで思い残すことはねえ!」
高太石山は、目に染むような紅葉に染め抜かれ、やがて、木枯らし吹き荒ぶ鹿鳴の晩秋へ移り行く。
修也は不安な胸騒ぎに、居ても立ってもいられないような落ち着かない気分が続いていた。