二十二話・心象
山道に入るに従い、雪が深くなって行く。
騎行すること半時、ブナの林に三段の滝が出現した。
「松蟹沢沼の山津見大蟹神社に着く。そこで、お昼を取ろう」
松蟹沢沼は深く澄んで生暖かく、立ち上がる霧が辺り一面の視界を遮っていた。
岸辺に無数の蠢きが見られる。
「沢蟹だ。蟹まき饂飩を食いてえな」と、ラモンが修也に顎を杓った。
「それって、沢蟹のうどんっすか?」フリンが尋ねる。
「沢蟹を潰した熱々の搾り汁をミソ味に、太葱を刻むと旨い」
道は湿地を避けるように迂回して、小高い丘陵地の無人の古びた神社に続いていた。
境内の中央には、御影石のテラスが巨人の食卓のように置かれており、それを取り囲むように六方石柱が立ち並んでいる。
四人はテラスの側に車座に座り、昼の弁当を取る。
食後、境内探索で石版を読むフリンに、修也は声をかけた。
「何か見つかった?」
「ハタイットがこの地に、はん祭をあげたんだって」
「はん蔡って?」
「生贄の動物を焼き上げ、神に捧げるのよ」
フリンは意味を理解しかねている修也に説明する。
「神にご馳走を捧げるのよ。ヤマツミノハタスメラミコトが、中村の松川浦に上陸してから霊山を経て、この地に至った」
「他には?」
「冷害のため、人身御供をしたって、ある」
「人身御供?」
「人間の生贄ってこと。その恋人が恨みのため大蟹に変身して祟った」
二人は連れ立って探索していた。
「ライオンには朝鮮人の親戚はいないのげ?俺の弟分で、お前にそっくりな朝鮮の小僧が磯原に居んだけど……」
「ミイヤならいるげど……」
突如、森のしじまを破るユズキの叫び声があった!
駆けつける二人に、羅門が沼を指し示した。
目を疑う光景だった。
沼から物凄い蟹の群れが吐き出され、地を埋め尽くし、絨毯を広げるように迫りつつある。
沢蟹を踏み潰し、ほうほうの体で一行が沼の側道を駆け抜けようとする時、突然、象とも見紛う巨大蟹が沼低から水柱を上げて路上に飛び出てきた。
化け物蟹は、フットワークも速やかに行く手を遮るかに凶悪な鋏を鳴らし威嚇する。
羅門は降馬し、山刀を抜いた。
「待って!」
ユズキが羅門を制し、前に進み出て大声で何ごとかを怪物に叫んだ。
化け物蟹は辺り一面に泡を撒き散らし、ユズキに大鋏をバチンバチンと鳴らした。
ユズキの断固たる態度と化け物の恐るべき脅迫は、シーソーのようにユズキと怪物の間を行き来した。
やがて大蟹は後退し、水底に姿を消して行った。
唖然としている三人へユズキは微笑んだ。
「もう、大丈夫」
湿地帯を脱した一行は、一転して清浄無垢な白一色の森に入り込んでいた。
雪の森は深く、つい先ほどの騒乱が嘘のような静寂に包まれている。
小一時間緩やかな坂を上り続けると、雪渓の中に隠れるように葛久保洞窟が在った。
「一休みだ」
洞窟壁には、彩色がほとんど剥がれ落ちている妖怪めいた磨崖像が無数に彫られており、内から清水が懇々と流れ出ている。
雪のない三角州の中央には焚き火の跡があり、まだ温もりがあった。
「猟師だっぺか?」
「否、道院行き。お仲間よ」
焚き火を囲むように落ち着くと、三人は松蟹沢の体験を話題に、ユズキへの感謝を表すのだった。
ユズキは意を決したように話し始めた。
「先程の出来事は私のせいなんです。これからのことを考えると、言っておいたほうが良いと思うので……。
羅門さん同様私も川に流されていた捨て子だったんです。身分を示すものは一緒に包まれていた水晶髑髏だけ。それを、今の両親が子供として育ててくれた……」
ユズキは鞄から布袋を取り出し、青水晶の髑髏を公開した。
曇りなく光を屈折反射させる見事な逸品。
ユズキは淡々と話す。
「あんなことは私の周りにしょっちゅうで、誰にでもあることだと疑いもしなかった。
それが、あることで私にだけ起きる特殊な事と気が付いたんです」
フリンが説明を求めた。
「あの化け物はユズキが呼び寄せたってこと?」
「呼んだというより、違った世界に居てお互いに気が付かなかったのが、私の何かが原因でお互いの世界が感じるようになるの」
羅門は唸った。
「それって、何時ごろから?」
「物心付いた頃からこの世のものではないものたちが見え、彼らと何時も一日中話しをしたり、聞いたりしていたんです。
でも、私以外は誰も彼等を見ることも出来なかったので、皆は私が独り言を言ったり聴いたりしているおかしな児と思っていたみたい」
ユズキは、徐に話し出した。
「身内に女衒を生業にしていた叔父がいて、幼児趣味の変態だったの。
それが、その邪な欲望の対象を私に向けて、東京から神の沢に帰ってくると、たえず私に付き纏い、私の悩みの種になっていた。
その頃、私は学校から帰る途中で毎日のように天神沼の畔に立ち寄り、妖精たちと話したり遊んだりしていたんです」
「台風前で、今にも雨が降りそうな午後だった。……日没寸前まで、馴染みの妖精・エロイカと過ごしていたんです。
すると、叔父が突然現れて、嫌がる私に酒臭い息をかけながら迫ってきたの。抱きすくめようとする変態酔っ払いに激しく抵抗したため、叔父は怒って私に暴力を振るい始めた。
その時、叔父は突然の足の痛みに飛び上がり、その原因が私を助けようとした五寸にも満たない妖精エロイカだと気付いたの」
フリンは話を遮った。
「他人には見えねえんじゃなかった?」
「そう、見えるはずも触れることも出来ないはずだった人間と妖精が直に遭遇した」
「で、どうなったの?」
修也が話を促した。
「叔父はエロイカを覗き込むと、突然野獣のような吼え声を上げて蹴り飛ばし、半失神状態の妖精を捕まえた。
そして、それをしみじみと見てから狂ったように笑い、『これは良い値になる』って」
ユズキは話しているうちに感情が高ぶってきた。
「エロイカは、共に喜び、苦しい時も悲しいときも私を励ましたり慰めてくれる存在だった。
家に帰った叔父は、エロイカを鉄製の鳥篭に閉じ込め、家族や神社の全ての人に自慢げに見せびらかした」
ユズキは首を振った。
「エロイカを解放してって、泣き叫ぶと、叔父はいやらしい笑いを浮かべ、言うことを聞くならば、放してやっても良いって言ったんです。
そして、今夜、俺の寝所に忍んで来いって、命じた」
フリンは立ち上がった。
「それ以上は聞きたくねえ感じだけど…。で、妖精は解放されたの?」
ユズキはフリンの様子が可笑しく、くすりと笑った。
「夜になると台風は一段と激しくなったけど、私はそれどころじゃなかった。
行こうか行くまいか迷った末、身を犠牲にするしかないと決心した。
風雨の中、離れの叔父の部屋を訪ねると、叔父は素っ裸に一枚の寝巻きを羽織っただけのだらしない姿で、入り口に背を向けて椅子にもたれかかるように座っていたんです。テーブル上にある鳥篭は開け放たれており、エロイカの影も形もなかった」
ユズキは一旦話すのを止めて大きく息を吐いた。
「叔父が冷たく息が止まっているのに気付いた。眉間の真ん中に、小さな鉄の矢が羽元深く脳を貫くように突き刺さっていたの」
「死んでたあ?」
「事件の事情聴取は否が応でも、自分が世の中で非常識な存在で特殊なのかを認識させられたの。ただそれ以来、次から次と心に浮かんだことが実体化するようになり、いまだに上手く調節しきれない」