二十話・ライオン
「御伽噺の類と軽く聞き流して欲しい」
話す牧野は懐かしそうだ。
「牧野家は房州流山以来の相馬家の家老を務める藩の重鎮であり、サンカ族との特殊な関係もあって、藩内では一二の最も豊かな家やった。
私は貧乏分家の二人兄弟の長男に生まれたんやが、本家の養子として迎えられることになった。当主の周次郎が中風で臥せっており、義母は私より四歳上の加奈子を産んだときの状況が悪く子供を産めない体になっておったんや」
「お祖父さまが何歳の時ですの?」
「親父がシベリア出兵で亡くなってから四年後で、尋常小学に入る一年前やったから六歳の時や」
「その家って、小高の牧野家の?」
ヒロコも初めて聞く話らしい。
「あれは分家の方や。本家は浮き舟城跡から二キロほど下った所に、千坪ぐらいの広さやった」
「幼くして養子に入った寂しさは言葉に尽くせない。唯一の救いは、姉になった加奈子が弟や言うて、彼方此方ひっぱり回したこと。夜は寂しくないようにと、私の離れ部屋に毎晩のように出向いて、添い寝してくれた」
牧野は淡々と話す。
「初めのうちこそ、お袋は弟の麻八を連れてちょくちょく来てくれていたのやが、やがてそれも無くなった。
思うに、お袋は見るからに典型的なミシャセやったので、大牧野と呼ばれているお大尽な本家に、将来の当主のお袋面をして頻繁に出入りされて欲しくなかった」
「六歳って、母親の温もりが欲しい時期ですわ」
「そのせいか毎日のように道草を食っており、学校から真っ直ぐに帰った記憶がほとんど無い」
「道草って、何をしてたんですか?」
「ミイヤのところで遊んでおった。特にミシャセが頭領の息子やった羅門が可愛がってくれて、自然生活等を遊びながら教えてくれた」
「自然生活?」
「サンカの行き方や。自然に身を委ね楽しく生きること。鳥や獣、虫などの言葉を理解したり、風の流れや匂い、雲の動きや形などで天候を見たり……」
老人の瞳は幼少に戻っている。
「私がミシャセたちに家族のように、いや、それ以上になったのは、牧野の御曹司いうだけでなく、ある事件を契機にしてからなんや」
それは、当時の陸軍航空局が小高町にあった原野と田畑を潰して飛行場にする計画を発表したのに端を発する。
問題は、その一部にミイヤの聖地とも言える甲子大国神社が含まれていたのだ。
ことは、ミイヤにとってアイデンティティに関わる重要事である。サンカは接収される田畑の地主と共に猛烈な反対運動を繰り広げた。
登記上、大国神社は牧野家の所有地であり、当初は接収に応ずることにしていたのだが、牧野少年は八歳にしてミイヤへの仲間意識から進んで運動に加わった。
神社を所有する相馬で重鎮の子息が、それも僅か八歳の子供がサンカのために立ち上がったのは、社会的に結構なインパクトとなり、連日のように新聞やラジオが取り上げ始める。
結局、小高町の飛行場は取り止めになり、事故で話題の福島第一原発の楢葉町に作られることになった。
以来、修也少年をサンカ族は聖地を守ったオダイとして、ラ・オダイ(真のオダイ)と呼び始める。
牧野は話を変えた。
「ところで、私がライオン言われているのを知っているかね?」
「そう呼ばれているのは伺っていますが……」
相馬地方は祭りと民謡の郷だ。お盆祭りが終わると秋祭りがやって来る。
小高町の秋祭りは相馬の旧領の中でも取り分け盛大で、ミイヤたちの大祭である甲子大国祭も併催され、大変な賑わいだった。
その祭りに合わせて毎年サーカスがやって来る。
牧野修也はキの印がつくぐらいのサーカス大好き少年だった。
笛と太鼓を鳴らしながら街を練り歩き始めると、もう居ても立ってもおられずにパレードの間中、終始彼らに付いて回っていた。
サーカスの出し物は、空中ブランコ、綱渡り、動物芸、後は自転車や一輪車等を使ったもの、皿回しやら奇術、滑稽なピエロの演技等々。中でも特に人気なのが動物芸、取り分け白ライオンによる猛獣ショウだった。
獰猛な人食い白(白化)ライオン・シンバが散々猛獣使いを手こずらせてから火の輪くぐり、最後には猛獣使いがその凶暴なライオンが開く口の中へ、強引に自らの頭を突っ込んで見せるというショーだ。
修也少年は毎日欠かさず見に行くほどの入れ込みぶりだった。
しかし、初めのうちこそ興奮していたが、毎日のように同じものを見ていると、見えなかったものまで見えてくる。
やがて、動物とのコミュニケーションに長けた少年は、凶悪な人食いと称する白ライオンが、実は単なる気の良い大きなドラ猫であるのに気付く。
忘れもしないその夜、七郎少年が大牧野の屋敷に忍んできて、離れにある修也の部屋の窓を叩いた。
「冒険に行くぜ!」
七郎少年の提案は〔夜のサーカス小屋探検〕だった。
その夜は雲ひとつない星空で、月が煌々とサーカスのテントを映し出し、夜の広場にくっきりと浮かび上がっていた。
大テントの後方に取り囲むように点在する団員の居住テントには仄かな灯りがちらついていた。
もぐり込んだ大テントの中は微かな明かりはあるものの、人気はない。
二人は中央にある玉乗り用の大玉を転がしあったり、綱渡りや空中ブランコ用の安全ネットに飛び込んでふざけ回った。
一頻りの忍者ごっこを終えると、舞台裏の探索を始める。
突然、テントの外側から人の気配があり、照明が灯されて作業服の中年男性が入ってきた。
侵入者達は固まった。
男は酔っている。
彼は広場の隅に立てかけてある大箒とバケツを取り上げて、引き上げようとした。しかし、広場の真ん中に転がっている玉乗り用の大玉に気づき、立ち止まった。
男は首を傾げ、辺りを見渡してから再び歩き出す。
七郎は修也と顔を合わせ、ほっとしたように大きく息を吐いた。
すると、再び男は酔い足を止めて楽屋裏を窺うように「誰か居る?」と、声をかけた。
彼は肩を竦め、照明を消して立ち去ったが、二人はそそくさと帰ることにする。
ところが、動物達のテントを通り抜けかけた時、修也は白ライオンを思い出した。
「待って!挨拶しておきたいのがいる」
修也は七郎少年を尻目に動物テントに潜り込み、ライオンの檻を見つけ出した。
修也がライオンに親しげに話しかけると、シンバは鉄格子に擦りより、低いくぐもった唸り声を上げた。
修也はシンバが退屈で飽き飽きしているのに同情し、閂を外し檻から開放してやることを告げる。
「冗談だべ?人食いが放されたら大変だぜ」
「ううん、こいつは聞き分けの良いデカ猫だよ。それにお利口だから話が解る」
修也はシンバに、夜の散歩を終えたら檻に帰るよう真剣に言い聞かせている。
当然、七郎は修也の行為を止めようとした。しかし、修也が格子越しにシンバの頭を撫で、親しそうに意思を疎通し合っているのを見て、七郎は納得せざるを得なかった。
帰り道は、冒険を終えた楽しさにゆっくり歩きながら話し合っていた。
しかし何時の間にか何かに追われるように歩みが次第に速くなり始め、別れるときにはもう既に走っており、話と言うより怒鳴り合っているような状態だった。
屋敷に帰った時には完全に息が上がっていた。
「ライオンは如何なったんですか?」
話しに一平は入り込んでいる。
「それがやはり気になった。所詮は獣、意思の疎通が十分とは言い難かった」
遠くを見るように牧野は話し続ける。
「町中にサイレンと半鐘が一斉に鳴り響いた。やがて、月夜を切り裂くように二発の銃声が聴こえた。
加奈子が離れの部屋に枕を持って来て、不安そうな様子で私を抱きしめ、『サーカスの人食いライオンが逃げ出したらしいの』と、姉さんぶりながら添い寝してくれた」
「ライオンが撃たれた?」
「それが意外な展開でな、障子戸を通して外から大きな息吹きと微かな唸り声が聴こえたんや。怯える加奈子をそのままに出てみると、心臓がひっくり返るほど驚いた。
植え込み中、肩口に血を滲ませた白ライオンが窺うように潜んでいた。その碧い瞳には激しい怒りが見て取れたので、気を静めようと私は必死であやすように語りかけた。
そして、穏やかになったシンバの傷口を点検したんや。傷は差ほどではなく、僅かに皮膚が剥げ血が乾いて固まっていた」
「如何して先生の所に?」
「ともかく、奴が助けを求めていたのだけは分かった。途方に暮れた結論は、決断の七ちゃんや」
「結局、七郎先生なのね」ヒロコは茶々を入れる。
「私はシンバに止まっているように命じて、七ちゃんを迎えに行った。
鈴木歯科医院は町のほぼ中央に在り、その裏庭の離れに弟の昭男君・康夫君と寝起きしていたんや。部屋の雨戸を叩くと、七ちゃんは直に戸を開けた。彼もほとんど眠れなかったらしい。
昭男君を加えた三人がシンバのところに戻った時には、郊外の大悲山部落の羅門兄の家までシンバを移送する計画を立てていた。
私は加奈子に夜が明けたら状況を義母に説明するように言い残し、引き綱して羅門兄のところまで連れて行ったんや。
町内は警察やら猟銃会やらがサーカス団と共に血眼になっていて、実にスリリングな道中やった」
「それから、どうなったんですか?」
「部落中の大騒ぎになった。何しろ、ラ・オダイ少年が白い百獣の王を従えて身を寄せて来たんや。長老会議が直ちに開かれ、ライオンと私たちの処遇について町やサーカスと折衝してくれた。
その日は何処から湧いたのかと思えるほど多人数のミイヤが我々を見に集まった。
シンバも束の間の自由と、しし肉をたらふく食べさせてもらい幸せそうやった。大きな白い猛獣が私の言うとおりに動くと、その度にどよめきに包まれたんよ。
それからまあ、次の日の夕方にはサーカスと警察が引き取りに来て、その件はドンと払い。
以後、三つ目改めライオン少年の名を不動にしたわけや」
一息ついて、語り部は喉を潤すかにウイスキーを飲み干した。
「問題はそれ以後の学校生活やった。特にクラス担任の教師が最悪でな。私を矯正教育する言う名目で、陰湿なイジメが始まった。
それがあんまりなので、見かねた七ちゃんが職員室に抗議をしに行った。それがまた、教室ぐるみのイジメに拍車がかかったみたいで、あれには流石に参った。まあ、今も昔もイジメの原因は担任の先生や」
「どのように打開したんですの?」
牧野は笑った。
「学校に行くのを止めた。逆立ちしてもモラル・ハラスメントの教師には対抗出来ん」
思い出を探るように老人は話す。
「牧野家は相馬郡でも指折りの有力者で、町も学校も私の不登校はかなり困ったらしい。
色々なところから働きかけがあった。しかし、もう学校自体に行きたいとは思わなくなっていたのや。その間は日課のように羅門兄の井理家に通い、当てもなく山野、海岸を彷徨うのが日常になっていた」
一平が牧野の話を遮った。
「羅門さんの苗字は井里って言うんですか?」
「井里やが……?」
「母の旧姓が井里なんです!」
「と言うことは、君のお祖母ちゃんは……」
「ユメです」
牧野は頷いた。
「道理で、初対面のような気がせんかった。君は御祖父さんの羅門にそっくりなんや」
「すみません、話を逸らしてしまって。不登校してから、先生は?……」
と、一平は話を戻した。
「出会いの日々やった。……通常では知り合う機会のなかったと思われる樵、猟師、乞食、修験僧、博徒、漁村の漁師たち諸々と出会い、親しくなって、貴重な経験と知識を得ることになった。
そして、年明け早々に、忘れもしない私の運命を決めた時。
年賀にしては大仰な十数人のミイヤが正装して牧野家に来訪した。
例年の年賀の口上後、彼等は、阿武隈の山奥にあるミシャセの特別英才養成所(修学道院)で私を教育したいと申し出たんや。で、話し合いの末、それは了承する事となった」
次回から牧野博士の少年時代の話となります