一話・魂の叫び
上野発、早朝六時四十分、特急常陸の指定席。
大きく深呼吸をして、徐にショルダーバッグから黄色い油紙に包装されている古びた分厚い本を取り出した。
包装紙を開く。
【陸奥日高見三郡誌における大悲山伝説と奥州相馬史】
ページを捲ってみたが、漢文まじりで読み難く興味を引きそうにない。
一平は再び包み直し、窓の外を眺めた。
出発時刻まで時間があり、待ち人は現れる様子もない。
一平は大きく息を吐いた。
(目まぐるしい数日だった)
◆ ◆ ◆
日本武道館・全日本学生剣道選手権。
すり鉢状に競り上がっている観客席の蒸し暑さに比べて、試合場は別世界のように涼しく、決勝戦の行われる第一試合場は十重二十重の観客に囲まれていた。
試合を待つ一平は落ち着かない様子だ。
クラブマネージャーの時田義明が、一平の只ならぬ様子に声をかけた。
「イッペイ、例の症状なの?」
「カマッキ、参った。今日は念仏みたいな声まで聴こえる……」
(ダールラハアマ・ムング!ダールラハアマ・ムング!)
義明は気のおけない友人でもあり、女っぽい言葉使いと仕草から、一平はカマッキと呼んでいる。
一平が着面し立ち上がると、義明は白襷を胴紐に結び、背を叩いて活を入れた。
「全てを受け入れるの!お前は無敵よ!」
大太鼓が鳴った。
「ただ今より全日本学生剣道選手権男子個人の部、決勝戦を行います!」
「赤、戸田隼人君、東葉大!」 「白、佐々木一平君、帝応大!」
一平は両足で力一杯に床を踏み鳴らすと、大音声の雄叫びを上げた。
今日の一平は、団体戦も個人戦も圧倒的強さでオール二本勝ち。全て一分以内に勝負を決めている。
その上、幸先よく目の前で一平の出身道場、三島武錬館の後輩、駒池大の本山百合が女子個人戦の優勝を決めていた。
意気は揚がっている。
対する戸田選手は一昨年、昨年度の優勝者で、今年度も優勝候補筆頭と目されていた。
しかも此処のところ、全日本トップの宮原雄一さえも撃破した、当に向かうところ敵無しの学生王者だ。
勝ち上がった剣士は互いに中央に進み、蹲踞して剣を合せた。
二人が戦うのはこれが二度目だった。
二年前の大学対抗戦で対戦し、一平は敗れている。
それから二年、一平にとってリヴェンジの舞台だ。
対する戸田は、剣技のみならず些細な癖に至るまで一平を熟知していた。
佐々木一平。長身にして容姿端麗、一際目立つ試合ぶりは、大学剣道デビュー早々から女子部員にファンクラブ結成の動きがあるほどだった.
当初、実力派の戸田としては、ビジュアル系美剣士云々等にはさほどの関心もなかった。
それが、三年前の予選で偶々一平の試合を見た時、少なからず衝撃を受ける。
貫くような気合、力強さ、鮮やかな身のこなしと切れ味鋭い剣さばき。
一足一刀に至るまで、体形の美しさと相まって、剣舞でも観劇しているように思えたのだ。
剣道はちょっとした不思議世界である。
この世界に入り込む者は、誰もが単なるスポーツとは思えなくなる。
面小手を身に纏った瞬間、鎧甲冑を身につけたように時を超えた剣士に変異してしまう。
そして、まさしく一平の剣は次元を超えた仮想世界を体現しており、武士の戦いは斯くありきと想像をかき立たせる。
武道フリークの戸田にとって、一平の剣道を鑑賞するのは密かな楽しみとなっていたのだ。
やがて、強者同士の必然として、戸田と一平は対戦することとなるのだが、ファン云々はさて置き、戸田は一平の殺るか殺られるかのオールドファッションに対し、ポイントの取り合いであるスポーツ剣道で後れを取るとは万が一にも思えなかった。
事実、二年前の対戦では容易に一蹴する。
試合が始まるや、一平の起こりにチョコンとコテを決め、後はへばり付く守りの時間切れに持ち込んだのだ。
今回の決勝戦の相手が一平と決まった時、戸田は選手権連覇を確信する。
試合開始!
一平にツーンと鼻から抜ける痛みが走った。
(戸田は出頭のメンを狙っている!)と、内なる声が宣託のように耳を貫いた。
戸田は正眼の構えに比べ、低く水平に構える変則姿勢。
足の裏で距離を刻むように、戸田は進み始める。
気合一閃!
踏み出す一平に、戸田は出頭のメンを撃つ!
得たりと、一平は攻撃を手元に差し捌き、跳び引きメンを叩いた。
一旦審判の手が挙がりかけたが、無効に振られる。
「浅い!」
二人は壮烈な体当たりから、弾ける引き際に脇腹と腰骨を互いに激しく叩き合って駆け抜けた。
戸田は冷や汗が吹き出た。
(侍野郎が俺を引っ掛けた!)
中央の開始線に戻ると主審は両者に「場外反則一回!」と、告げる。
二人とも場外に飛び出ていたのだ。
前回の戸田戦では、体を低く剣を斜めにしてメン、右コテ、右ドウをカバーする戸田の守りに、一平は為す術も無く技を封じられた。
スポーツ剣道は基本的に正面の面と右小手右胴を打突するのを常とし、そのように慣らされているので、そう守られると攻め手に窮してしまう。
戸田はそれを亀隠しと言って、それによって動揺する相手の隙を衝いたり、無理な攻撃を誘うのを常としていた。
一平は得意の遠間からの跳び込みメンを決意するが、再び内なる声が入った。
(戸田は跳び込みメンを待っている!)
面金を透して見える戸田の薄笑いは全てを読んでいる顔だ。
怒りが込み上がった。
かつて、一平は戸田のように体を低くして竹刀を斜に構えて間合いに入り込み、混乱に乗じるのを得意とした時期があった。
しかしながら過日、師の美田村との稽古においてこの亀戦法を行ったとき、「醜し!」の怒声と共に上段から空いている左胴をあばら骨がへし折れるのではないかと思うほど強く叩かれ、構える度に「醜し!」と、左のわき腹や太腿まで幾度となく痛打された。
「真剣なら斬られとる」と、師は剣の道は単なるスポーツにあらず生死を賭ける武士の訓練の場であると一平を戒める。
以来今まで、一平は単に勝つためではなく武士たらんとする修練として励んできた。
戸田は罠にかかる獲物を待っている。
突然、一平は激しく床をスタンプし、構えを中段から左上段に切り替えた。
弾かれるかに戸田は後退し、上からの攻撃に備える。
追い込んだ一平が踏み込む!
戸田は体を沈め、蹲るような亀隠し!
が、一平の剣は正面突破と見せて右に反転し、亀守りのため隙が開いている左の逆胴を斜め上から「醜し!」の気合と共に渾身の力を込めて切り落とした。
胴を打ち抜く打撃音は会場一杯に響き渡った。
一平は会心の手ごたえに、一本を確信して場外まで走り抜けていた。
「ドオー!胴なり!」鬱憤を晴らす雄叫び!
してやったり、見得を切るかに颯爽と振り返った時、一平は目を疑った。
一旦、一平に上げた主審と一人の副審の一本を表す白旗が一転して、何故か取り消しを示す動作と共に取り下げられている。
場内は一瞬水を打った静けさから、蜂の巣を突いた騒音に包まれた。
主審は二人を開始線に戻すと、会場の騒音止まない中、副審の二人を呼び三者で何やら協議を始める。
長い話し合いの後、主審が一平に向かって、
「胴は一本と認められないので、場外反則を取る!」
そして、一息置いてから、
「白は場外反則二回につき赤一本!」と逆に戸田にアドバンテージの一本が宣告されたのだ。
一平は再び上段に構える。
最早、戸田は一平の攻撃を待つ気は無い。頭上の小手を撃つと見せ、メンを急襲!
一平は剣ごと断ち切るが如くカウンターの一刀を打ち降ろす!
上段真っ向の強烈な一撃は、戸田の竹刀を叩き落し、更に首を捻ってメン打ちを辛うじて避けたその面布団を袈裟切りに打ち据えた。
戸田は激痛に耐えて一平の懐に飛び込む!必死のタックルに、一平はカウンターにぶちかます。
戸田は床の上を一回転して弾き飛ばされた。
見下すように一平は、コートに転がっている竹刀を拾い上げ、倒れているチャンピオンに汚物でも捨てるように叩きつけた。
怒号と叫び声が飛び交い、会場は騒然となった。
開始線に戻った一平に、主審は怒りも露に
「品性に欠く行為を再び取ったなら、直ちに反則負けとする!」と、言い渡した。
王者は屈辱に身を震わし、眦が跳ね上がっている。
(クソッタレ、やられっ放しで居られっかい!)
タイムアップまで、両者の死力を尽くした打ち合い、それは、まさに気迫と気迫の攻めぎ合いだった。
結局、試合は戸田の場外反則二回における勝ちとなった。
改稿。何か気になったことがあればお願いします




