十六話
「率直。人生はこの言葉に尽きる。……例を挙げるが、戦後の進駐軍制日本国憲法から見れば、自衛隊(軍隊)は交戦権の無い日本では違憲。しかし主権国が生存するためには集団的自衛権が不可欠。
自虐大新聞などが言うのには、他国のなすがままになれば、誘拐、麻薬、人身売買、偽札造り等の犯罪で食いつなぐ地上の楽園になれるらしい。生き残るために憲法に違反するか、憲法を守るために国が滅びるかやな」
「国が滅びれば、憲法どころじゃないっすね」
「当たり前のことが分からなくなってしまうのは、物事を真っ直ぐに見れなくなってしまったからや。
だから、自分たちだけの利益のため国を売っても甘い汁を吸おうしているような政治家・宗教家とか、厚顔無恥なマスコミゴロのパフォーマンスに騙されてしまう」
牧野は不快そうに話す。
「馬鹿馬鹿しさに尽きるのは、原爆使用に正しい原爆か悪い原爆かの話や。
原爆に正しいも糞もあるかい、最悪最低に決まっとる。核兵器は人類どころか地球の生存に関わる最大の挑戦や。……情けないことにそんなことすら見れなくなっている」
一平は博覧強記の天才翁に、懸念していることを尋ねた。
「あの……経済と言うか、景気は如何なんでしょうか?恵子ママは何かにつけ、先行きの暗さに日本脱出を唱えているんですが」
「腰の軽いのは俊ちゃんの血統やな」
「自粛と聴くと、ゾッとするらしいんです」
「同感や。そもそも変動相場制言うのは良好な経済状態を保ち易くするための制度なんや。
現在のような軽度のインフレーションは最も快適な状態と言える。国が凡その相場設定を置き、増資(増札)と減資(回収)の金融調整でバランスよく保つようにすれば問題がない。
ま、デフレ脱却には増資の勇気が、インフレには減資の忍耐が必要ではあるがね」
牧野は一平を指差した。
「君の学校の若手経済学教授なんやが、バリバリのデフレ派でね、有力政治家の経済顧問などをしとるようやけど、これが口が巧い。
柔和な語り口、人の良さそうな風貌。偶々話す機会があり、私が『デフレ誘導政策と構造改革をセットにしているようやが、それによって起こる不況で増える失業者等はどないするねん?』言うたら、『ワークシェアリングすれば良い』と吼ざいた」
「ワークシェアリングですか?」
「構造改革とデフレ策が鉄の塊のように不可分らしい。こんな増刷金融大国共の尻拭いフェイクが、政策に採用されることになったらゾッとするね」
「でも、そうなったら、マスコミが黙っていないっしょ」
老人は鼻で笑った。
「馬鹿を煽っているのがマスコミや。このまま行くと、好景気をバブルの一言で切捨てて、進んで苦渋の不況に突き進むようになる」
「マスコミが……ですか?」
「ポピュリズムがオピニオン・リーダーになりつつある。売国大新聞社さま等は、胸糞悪い独裁国家を地上の楽園と上げ奉ったりして、戦後意図的に醸成されてきた無見識な日本人の自虐性につけこもうとする。人間は否が応でも他人に依存せねばあかんので、共通の意識基盤としてのイデアが必要なんや」
「イデア……ですか?」
「バベルの塔の崩壊後、共通の言語を失った人類は、それに代わるものとしての共通論理を構築し、競争したり協力したりしながら発展させてきた」
(イデアにバベルの塔!)
一平は頭がショートしているような気分になっている。
「だが、再崩壊の兆しがする」
「再崩壊ですか?」
「共通言語に代わる共通論理が崩壊しつつあること。つまり、矛盾を矛盾と思わない意識の変化等や。
例を挙げれば、戦闘禁止の軍隊とか、教育を否定する教師、加害者擁護の人権主義者、市民不在の市民運動、他国に護ってもらっている主権国、愛国心無き国会議員等。まあ、今日日、溢れるほどそんなんが大手を振って闊歩している。拝金主義は目を覆うばかりで、親が子を食み、子が親を食む(保険金殺人)。論理の崩壊は倫理を破壊する」
一平はホッとしたように息をついた。
「……美田村の説ですが、諸々の社会状況は、やはり先の大戦における日本の敗北から来ているのでしょうか?不愉快なことを突き詰めていくと、概ねが大戦の敗北に行き当たるらしいんです」
「先の大戦における日本の功罪は多々言われとるが、唯一言えるのは、日本が関わることによって、日本を除き、ほぼアジア全域の国々が欧米の植民地から脱して独立できたことだけや」
「日本を除いてですか?」
「日本は逆に、真の意味での独立を失った。それ故、日本が欧米文明のアンチテーゼとして世界に与え続けた影響力が失われた。
辛うじて引き継いでいる物創りの伝統を除けば、日本に残されるのは安物のブリキのような欧米のまがい物だけになる」
「日本の戦前のイメージと言うと、不自由、否定的な社会を連想するのですが」
「戦勝国のプロパガンダで重度の記憶障害に罹ってしまっている」
「記憶障害っすか?」
「幕末から昭和初期まで世界規模に与えたジャポニズムは相当なものやった。歴史、芸術、文化、思想、武道、それに科学や軍事に至るまで深い影響を与えている。
差別が無ければ、ノーベル賞なんかはごまんと取れていた。楢崎皐月、東北大グループの原子物理学とか、高田蒔、北里柴三郎、鈴木梅太郎、高峰譲吉、小林六造、山極勝三郎、長岡半太郎などは業績をパクられて名前すら消えてしまっている。
あれほど世界の医学会を席巻した野口英世など候補にすら挙げられん。それどころか、フェライトの武井武、音声映像の一体増幅器の望月富にいたってはパクられた上に特許料支払いまで要求された」
「極東の小さな島国が、何故世界にそれ程の存在を示せたんでしょうか?」
「某歴史学者が世界を八つの主要文明に分け、唯一日本文明は、日本一国のみと言っておる。それを孤立している、と取るのか、孤高の存在と取るのかで、天と地ほどの差がある。
幕末に、硬直した官僚主義が黒船にぶっ飛ばされ、三百年醸成されていたものが一気に吹きでた。
日本人は己を知り、世界を知る。明治から大正にかけては、稀に見る発展的自由が横溢したわけや」
「今よりも?」
「今は性が下劣になっただけや。
憲法からして現在の小学生の作文にもならんようなものではなく、君臨すれど統治せずの立憲君主制に超法規保険の祈り人(天皇)を据えた日本独特の神秘性を有するものやった」
「超法規保険?」
「日本を特異たらしめている万世一系たる天皇の存在。因みに大戦後、ソヴィエトの戦略的意を受けて天皇制なる造語で歴史を歪めることになる」
牧野は話す。
「超法規保険は、時代の節目の危機的状況に突然発動する。戦国時代の天下統一、明治維新、先の大戦の終結時等に機能した。
発動しなければ、他のアジア・アフリカ同様、とうの昔に支那、コリア共々欧米の植民地になっていたやろうし、あるいは日本全土は原爆攻撃等によるジェノサイドの憂き目にあっとる」
「今の憲法って、そんなに駄目なのかなあ……」
「憲法と法律の違いが分かるかな?」
言葉を拾うようにヒロコが答えた。
「国民を護るものが憲法、国民が守らねばならないものが法律ですわ」
「で、我が日本国は義務は要求するが国民を護らない。役人は護るが、国民を護れない、類例の無い情けない憲法や。
外国から理不尽な要求、誘拐や冤罪が生じたとき、その加害者国家や犯罪人のお情けに縋るしかない。人権は加害者だけや。重度の相続税は貴重な文化すら守れない。国民と文化を守れない主権在民らしい憲法と、益々厳しくなる酒も煙草も自由も賭博も何もかも制限していく唯物マゾ法律」
「結構悲惨っすね」
「その上、矛盾だらけや。例えば参議院って意味があるかね? 衆議院まがい議院と名前を変えた方が良いとは思えんかね?
以前はノーブレス オブリージェを叩き込まれている誇り高い連中が貴族議院で個人の利得に影響されないオンブズマン的役割を担っていた。参議院に移行しても、全国区言うことで地域の利権から離れて、多少はその役割を担っていたんやが……。
歪な抜け穴だらけの税制や選挙制度等。調べれば調べるほど、占領軍場当たり憲法からはボロが出てくる」
牧野は吐き捨てるように話した。
「ノータリンの唯物主義者が不磨の大典化し、『護憲』とか言うて正邪を議論することすら許されない。馬鹿と死者は金輪際その意見を変えないと言うがな」
「如何して、そうなっちゃったんだろう」
「努力しなくとも平和と言えば平和、豊かと言えば豊かになると言う、言霊的思考がある」
「……日本は何故、舵取りを誤ったんでしょうか?」
「それは、官僚指導の行政や」牧野は言い切った。
「官僚行政……?」
「国とか憲法の精神など屁とも思わぬ曲学阿世の徒が、制度的実権が官から政に漸く移らんとする日本の重要時期に好き勝手に国を引きずり回したせいや。
古今東西、国を誤らせるのは、狭視的世界観である役人の暴走が大半や。特に昭和十年あたりから国民の生活は息苦しいまでに制限されていった」
「超法規機構と仰る天皇は?」
「どっこい、十重二十重に小役人どもにシールドされ、畏れ多くも役立たずの生き神様に祭り上げられていた。戦争終結の玉音放送で辛うじて、彼らを出し抜けたのや」
「古今東西と言いましたが?」
「マイナス志向の役人(公務員)が性不浄にして厄介なのは定説や。有史以前から先の大戦に至るまでほとんどが硬直した官僚制度が体制を滅ぼした」
「先の敗戦は、物量の差だと思っていましたが」一平の声は少しく上ずっている。
「それが主やない。例えば、日清、日露の戦争も物量では遥かに日本は劣っていた。ベトナムとアメリカも然り。歴史を検証すると、物量の劣っている方が勝率がいいぐらいや」
「先生から見ると、今の日本の状況は……?」
「経済的には、宿木体質と占領者のお情けが功を奏して偶々うまく運んだが、必ずしも良い方向に向かっているとは言えんな。
選挙の比例代表制、杓子定規な定年制のような個人や経験の排除、中身の空っぽなポピュリズム、卑猥なジェンダーフリー、特に愛国心排除教育等、情報操作がこうも頻繁になってくると何時の間にかそれに捲かれてしまう。マスコミと官僚は不気味なほどの相似性があり、自らの正体を隠し、権威を嵩に一般を洗脳・管理しようとする」
そこで、牧野はトーンを変えた。
「最近、頓に思うのやが、二十世紀を席巻した三つの理論を過去の歴史的遺物として葬り去らねば、人類の輝かしい未来は無いと思える」
「葬り去らねばならない理論?」
「独断と偏見やが……」
老人は声に抑揚をつけず明るくさらりと言った。
「マルクス資本論、ダーウィン進化論、そして、フロイド精神分析学。
これらは、科学、宗教、哲学の統合のために不可欠な主観と客観の融合を拒否してきた。つまり、本質的な敬虔と愛に欠け、観察者の存在とはまったく別個の、客観的な器としての世界が措定され、人間の精神の働きすら脳内の化学作用の産物にすぎないと決め付けられた。
世界は個人の内面とはまったく無関係に存在し続けるものとなっとる」
「仰る通りだわ」
ヒロコがため息を吐いた。
牧野は饒舌に話し続ける。
「私は何時もシンプルに考える。善悪の判断の目安は他所様に迷惑をかけるか否か、心の底から心地良く感じるか否かで決める。
悪い奴は推理小説のセオリー通り一番得する奴、それを手助け或いは援助する奴も悪い奴や。そう言うのは決まって見えすいた人道とか正義とかを振りかざす。
今の世は物と金とセックスに凝り固まった現世利益のカルト宗教や権威その物のようなのが蔓延っているんでな」
一平が話を挟んだ。
「オーム真理教などですか?」
「小物過ぎて話にもならん。ただ教祖の食べ残したメロンや入浴したお風呂水を有難がったり、金をばら撒いて得た不名誉博士号や市民権の数、あるいは独裁将軍様の見え透いた演技に感動したりするのは馬鹿さ加減の良いサンプルになる。
因みに世の中で一番信用できないのは権威を頻繁に引用する奴や。顔無しの無知は他人のみならず自らも騙しこむほどに害悪を流す。
牧野は「そう言えば」と、声を上げた。
「話は逸れるんやが、私が客員やっとる学校の教授が、ピカソの絵を手に入れた言うて、自慢たらたらやったのや。
私がそれを『見るに値せん』と感想を言うたら、私をピカソも理解できん科学アホ呼ばわりしたんや」
ヒロコが口を挟む。
「それ、医学部長の長尾教授じゃありません?」
「その長尾のブランド大先生がつい此間、贋物を掴まされていたのが判明したんやな。ピカソを上海の自由市場で超格安で手に入れた言うんやから、顔無しの欲呆け恐るべし。学のある間抜けは、無知な馬鹿よりも、もっと馬鹿と言う奴や」
「お祖父様、言い過ぎですわ」
孫娘にたしなめられて、「ま、真実を見極めるには権威とか我欲に惑わされては遺憾ということや。そのものを率直に見れば贋ピカソを掴まされることもないと言うこと」と、締めくくった。
牧野博士の思想感はこんな感じです