十三話・旅立ちと会合
出発の時間が迫り、空席は残り少なくなっていた。
「新たな世界への門出」
恵子が繰り返し言った意味をぼんやりと考えている。
「佐々木君かな?」
張りのある声に一平は我に返った。
白い麻のスーツにパナマ帽の老紳士が、スレンダーな長身の女性を伴って立っている。
一平は立ち上がった。
「佐々木一平です」
「牧野や。世話になる」老人は微笑んで帽子をとった。
「孫のヒロコです。御一緒させて下さい」
栗色の短髪。些か硬質の感はあるが、美形だ。
その深い緑色の瞳を覗いた瞬間、一平は既視感に襲われる。
「アンナ……」
「アンナですって?」
「すみません。勘違いです」
一平は自らの口から発した覚えの無い名前に戸惑った。
ヒロコはくすっと笑った。「ミドルネームがアンナです」
細長い鞄を荷物ネットに置くのを一平に任せ、席に座ると老紳士は開口一番に謝した。
「この度は老人の気紛れに付き合わせて申し訳ない」
矍鑠として七十歳を越えているには見えない。銀髪なのを差し引いても六十歳前半と言ったところだ。
生きる伝説を前に、一平は緊張している。
老紳士は一平を見ていたが、唐突に
「額の小さな窪みは生まれつきのものかな?」と、尋ねた。
「はい。子供の時は結構目立っていたんで、ミッツメと呼ばれていました」
「私も三つ目小僧言うニックネームを付けられとった」と、自ずからの額の微かな窪みを指して笑った。
「第三の眼。我々は特別に選ばれた仲間言うことや」
「畏れ多いです」一平は手を振った。
「ところで、……推理が当を得ていれば、今回は平穏な旅とは言いかねるのや」
「護身用と言われ、特殊電撃警棒を用意してきました」
老人は目を丸くした。
「学生剣道チャンプに特殊警棒とくれば、頼もしい」
「残念ながら、僕はチャンピオンじゃありませんが」
「テレビで学生選手権を見せてもらったが、あれは君の勝ちや。ヒロコもそう思うやろ?」
「はい、ボクも佐々木さんが勝っていたと思います」
(ボク……?)
「スポーツ化と言えば、そうなんやろが、武道全体が分かり難くなってきているわな」
「と、仰られるのは……?」
「柔道を例に取ると、効果、有効、技あり、それから至る所に指導なるものが付いて回る。
嘗ては無制限一本だけで優勢勝ちなる物がなく、一目瞭然やった。今は道衣を着たレスリング紛いや」
「剣道もそうなんでしょうか?」一平は緊張が解れてきた。
「勿論や。場外反則なんて訳の分からん代物はなかったし、優勢勝ちもなかった。
左小手、左胴は一本にはなり難いとか、袈裟斬りや手の甲は駄目とか、引き技で、間が切れてなければ一本にならない等々。様式に走り過ぎやな」
「美田村の弟子として、常々ギャップを感じています」
「ハンサムガイ言うのは耳にタコやったが、人物も中々や」
老人は感心したようにヒロコを見る。
ヒロコは紅を散らすように上気した。
「先生は武道に精通しておられるようですが?」
「まあ、友人に大悲山の七郎大先生みたいなのがおるんで関わりがなくはない」
「じゃあ、剣道を?」
「戦前は柔剣道両方やるのが普通でね。もっとも、七ちゃんと剣道の稽古をした日にゃ自信喪失も良いとこやったがな……」
老人は感慨深げだ。
「七ちゃんは日本や学生のチャンピオンになったわけやないし、君や、彼が育成した優秀な弟子達ほどの戦績があると言うわけでもない。が、何といっても、彼の凄いのは武道を通して世の中に与えた影響や」
「…………」
「彼は高貴なる野蛮人、日本男子は斯くあるべしの典型や。
蛮勇があり、信じた事は、不可能と思える事でも躊躇せずに実行する。世間を恐れず、迎合する事もない。しかも彼の情熱は伝染する。催眠術と言うか、特殊能力やな」
「お祖父さまは、今でも七郎先生に何かにつけて相談するんですよ」言葉の端々に、祖父への仄々としたものが感じられる。
「七ちゃんは、自らを吉田松陰に準え、大悲山道場を世界に雄飛する現代の松下村塾にしたかった……」
「その夢は叶ったんでしょうか?」
牧野は首を傾げる。
「そうやなあ、……彼の弟子は孫弟子の弟子までを加えると文字通り世界中に国籍人種年齢性別を問わずごまんと居るようになった。ま、夢ばかり語る法螺吹き言うのは、私と同じやが……」
特急常陸は上野を発し、一路福島の平駅(現いわき駅)を目指していた。
そこで各駅停車に乗換え、小高へ向かう。
一平は美田村から預かった手紙と分厚い古本を取り出し、牧野に手渡した。
「有り難い、何時も気にかけてくれる」と、押し頂き、それから徐に毛筆で書かれた手紙を開く。
牧野は手紙を読みながら頷き、一平に話しかける。
「一平君、君のことを言うとる。若干にして当代指折りの剣士であり、現在進行形で急成長中、とある」
「過分な言葉です」
「義之君にとっては息子のような者なので、息子の息子、つまり私・牧野の孫息子として……と、言うとる」
手紙から目をはなし、牧野はにっこりと微笑んだ。
「言うわけで、私は思いがけなくも念願の孫息子を得たようや」
「僕が、先生の孫と言うには……」一平は恐縮する。
すると突然、老人は真顔になり、
「私じゃ君の祖父としては役不足かい?」と、声色を変えた。
「いえ、それは……その」
牧野の変容に一平はしどろもどろになった。
「契約成立。一平君、その線で行こうや」
破顔一笑、芝居気たっぷりの老人は掌を差し出した。