九話
大悲山行きの依頼が師の美田村からもたらされたのは、夏期休暇直前だった。
数日ぶりのアトリエ。
昼間、道場で体力を振り絞ったにも拘らず、精力は尽きることなく、微睡み、触れ合いながら会えなかった数日間を語り合う。
一平は美田村の依頼で、学生選手権の後、南相馬の小高へ行かねばならない事情を伝えた。
恵子は目を見張った。
「牧野博士って、ライオンさんのことでしょう?」
一平が驚く。「如何して?」
「言わなかったかしら?幼少時、小高で過ごしたのよ!ライオンさんは、おませのおしゃまっ子の私が初めて憧れた男性なの」
南相馬の思い出を恵子は話し始めた。
「少女の私にとって小高は不思議の入り混じった奇跡の町だった」
仄かな照明に映し出される恵子は淡く桃色に染まり、甘酸っぱい幻想に誘う。
「パパとママンと小高駅に夜汽車から降り立った時、構内から空一面に飛び交っている生き物の群れに私は呆然とした。そしてそれらが蝙蝠と知った時の驚きったら!
小高の最初の印象は、不安で一杯だった。パリと横浜しか知らなかったので、田舎暮らしに恐れを抱いていたのかも」
恵子は夢見るように話し続けた。
「北国の春は美しいの。雪解けのせせらぎと同時に弾けるように花々が咲き始め、野や山、見るもの全てが花で覆われる。
慣れてくると、最初の印象と裏腹に、全てが輝きを帯びて来た。茅葺の古民家を手直ししたアトリエ兼我が家、明治に建てられた古色蒼然とした小学校、日曜学校の蔦の絡まるバブテスト協会……。取り分け、私を惹きつけたのは毎週のように催されるフェットゥの数々だった」
「フェットゥ?」
「有名な相馬野馬追い祭り、川祭り、海神祭り、秋祭り、盆正月はもとより、協会の関係でクリスマス、イースター、ハローウインまであったわ。
それに、良く分からない意味不明のもの。天神土着祭り、風花祭り、長者祭り、判官祭、牛頭祭、恵比寿講、等々、数えたら限が無いわ。あそこは祭りと歌の郷なの」
「野馬追い祭りなら、母からちっとばかし……」
「もう最高のイベントなの!」
語り部は、その光景を見ているかのように瞳を輝かす。
「ほら貝が鳴り響き、農耕馬から衣替えした騎馬が駆け巡り始める。宵祭りが開けると、相馬領全域から一斉に戦国さながら鎧兜に身を固めた騎馬武者たちが一路原町雲雀ヶ原へと行進を始める。
轡を叩いて、相馬流れ山を合唱しながらの行進はカッコ良かった」
一平は恵子の綴る話へと引き込まれて行く。
「雲雀ヶ原で行われる神旗争奪戦は、炎天下に村や町の名誉を賭け、人馬一体となり、打ち上げられた神旗を武者たちが鞭を使って奪い合う。
鞭を掻い潜って神旗を獲得した若武者が、九十九折の坂道を一気に駆け上り、手を空に挙げて誇らかに一族郷土と自らの名乗りを上げるの。額を鮮血に染め、雄叫びを上げる若武者の姿に、幼い私は震えたわ」
恵子は一息置いて語り続ける。
「騎馬武者がそれぞれの村や町に凱旋すると大変な歓迎なの。背中に背負った御護摩が獲得した神旗の印で、町民はその数に一喜一憂する。
若き日の七郎先生は御護摩の数が背負いきれない位だったわ。
宴は夜通し続けられる。闊歩する馬蹄の響き、馬の嘶き、太鼓、笛、三味線、酔いのざわめきと酒女の嬌声、至る所で燃え盛る篝火、行きかう鎧武者」
恵子は過去にいた。
「野馬追いの仕上げの神事、相馬版ロデオの野馬懸かりが小高妙見神社に行われると、いよいよ祭りの最後を染める火祭りが始まるの。
ボロ布で作った無数の灯油ボールが着火され、見渡す限りが火の海となり、その中に間断なく花火が打ち上げられる。野山には蛍が飛び交い夢のようだった」
「目に見えるよう」
「野馬追いが終わると、盆踊りに精霊流し。ブロンドの髪を纏めたママンの浴衣姿は素敵だった。……夏が過ぎると練り歩くサーカスの音と共に秋祭りが始まる。
旅芸人一座、見世物小屋、大道芸人、香具師、町外れまで続く露天商、等が一杯になって、それはもう楽しくって祭りの間中、ウキウキしていた。猿芝居、蝦蟇の油売り、山がら(小鳥)の御神籤引き、思い出せば限が無いわ」
暫し恵子は感慨に耽っていたが、ふっと思い出したように再び話し始める。
「秋祭りには不思議な人達が参加するの。
私たちは彼等をミシャセさんとかミイヤさんって呼んでいたけど、大体、千人ぐらいの老若男女子供が白い祭服で大悲山の方から沢山の驢馬を引いて降りて来るのよ。決まって男は白衣の上に毛皮のベストを着込み、女は花の冠で飾っていたわ。
そして町からやや外れた場所にある甲子大国神社の広い境内で色取り取りのテントを張り、大バザールを開くの。
売り物は珍しい物ばかりで、一般客だけでなく、それを目当てに他所から所謂バイヤー達が大勢集まり、加えて駐留軍の米兵までが見に来るので、大変な盛況だったわ」
「珍しい物って?」
「例えば、自然にある材料を利用して作った日用雑貨や装飾品、ミイヤの呼び名はそこから来ているの。
毛皮、小鳥や小動物。木の実、果物やきのこ、山菜、あるいは、燻製・漬物等の保存食。自然薬の類、山野草、貴石や宝石、ガラス製品、山刀等の刃物類、金細工、黄金色の絹織物もあったわ。彼等の祭儀用と思われる奇妙な器具、それに虫や飲料用の樹液に至るまで、見慣れない変わった物ばかりだった」
過ぎ去りし日に恵子は思いを馳せていた。
「私はそのバザールが大好きだった。でも学校では子供が其処に行くのを禁じていたの」
「どうして?」
「彼らの異国じみた雰囲気のせいか、朝鮮戦争覚めやらぬ米兵が屯しているせいか、自由で危険な香りが満ちていたの」
「彼等が神社の中央に組まれた舞台の上で踊る神事、天の岩戸踊りはセクシーだった。
全裸に薄い衣を一枚引っ掛けて腰紐で止めただけの舞姫が、リトミックな楽奏に乗り、開ける胸と前をそのままに大胆に腰を前後左右に振るの。黄金色に染まった銀杏の下、半裸で踊り狂う、抜けるように白い肌は子供心にも鮮烈な思い出だわ」
「それって日本人?」
「人種的にはノンね。肌は桜色のような白さ。髪の色は烏の濡れた羽のように艶やかな黒。背も高く、必ずと言って良いほど刺青をしていたわ。それと何人かに一人の割合でパトリースのような青っぽい肌の人がいた。
ライオン先生はミシャセの衣装を着込んで、彼らの仲間のように振舞っていたわ。ミイヤの言葉を話し、寝泊りしている様子だった。
私を見つけると『ジョリ・レーヌ』と、声をかけてハグして甘いショコラ等をくれたの」
「ジョリ・レーヌ?」
「可愛い女王、ライオンさんは私をそう呼んでいたの。
パパと悪ガキ時代の仲間だった先生は、よく七郎先生と一緒に家に遊びに来たのよ。ママンともフランス語で話していたわ」
一息置いて、恵子は話し続ける。
「市場でショコラを頂いたのをパパに報告すると、呆れたように『また、草饅頭餅でも買っているんだろう』って」
「草饅頭餅?」
「それがね、肉体的に恋愛して金銭などの贈り物をすると言う隠語らしいの」
「売春ってこと?」
「ミイヤにとってセックスはオープンで、かなり生活習慣も感覚も違っていたから、親愛を込めた儀式みたいなものだったかも。今思うと、私が彼等に魅かれたのも、あの自由な雰囲気だったんだわ」
「恵子ママが僕に話した、夢と幻の国の人達ってこと?」
「ノン・ノン!もっと具体的な異世界のことなのよ。信じられないと思うけど。……ミシャセの祖先が渡ってきた遥か彼方に通じている、似て非なるホントに本当の世界」
それから恵子は急に声を潜めるように言った。
「その世界は私たちのこの世界と双子のように相似している鏡のような世界らしいの。其処にはソックリな私たちもソックリに存在しているって」
「ユウマが死んだ後、私は取り憑つかれた様に植物の種だけを描き続けたわ」
「果物とかの?」
「萌える前の爆発力を感じたかったのかも」
恵子は首を振った。
「救いがたい自殺すら出来ない鬱。……その時、私は父の語りかける声が聴こえたの」
一平には、生々しくリアリティがある。
「何て?」
「鏡の向こうの世界で、ユウマが私を待っているって」
「真剣?」
「狂人は真剣なのよ。そして、夢の門を通り抜けて向こうに居る相似のユウマに会うのが、藁にも縋ると言うか、今世に命を繋ぎとめる唯一の光となっていたわ。
それに、パトリースが後押ししてくれたの」
「パトさんが……?」
「パトリース・ド・ジェルマンは不思議世界なの。彼は有りとあらゆる世界と時代を、まるで実際に行き来して経験したかのように話すの」
「で、ママは……?」
「小高の七郎先生に相談することにしたわ。だって、そんな御伽噺をまともに相手にしてくれそうなのは誇大妄想っぽいパトリース以外、父の親友だった七郎先生か、恋するライオンさんぐらいしかいないんだもの」
「それで?」
「七郎先生は、私の狂気の思いを聞き終えると、『南相馬の奥山深く実際に在るといわれている伝説に踏み込む時が来たようだ』って言ってくれたの」
「充実した夢のような日々だった。とにかく、先生は人が変わったように、精力的に多方面の方々を持ち前の弁舌で説得し、協力を要請しまくったの。
そして、相馬地方に関係あるリタイアした財界人、歴史家、科学者、詩人や棋士、そして現名士に至るまでの錚錚たる顔ぶれの仲間たちで、閑人クラブを立ち上げた。
名づけて、鏡の国解明プロジェクト或いは鏡の国のアリス物語に基づいたアリス・オペレーション」
話す恵子の瞳は輝いている。
「私の藁にも縋る狂気と、先生の伝説の確信がピッタリ合致したのよ」
「皆もその不思議話を信じたの?」
「みんな年甲斐も無く、新しいオモチャを見つけた子供のように夢中になっていた」
「お祭りみたいに?」
「そうね、あれは生き甲斐の炎。私にとっても命を求めるお祭りだった」
恵子は淀みなく話し続ける。
「それにまたメチャ、七郎先生が素敵でカッコよかったのよ。私はオペレーションを仕切っている先生の迫力と魅力に痺れっぱなしだった。
もう、果てることの無いデスカッション、山のような古史や南相馬の古文書等を何日も首っ引きで調べてくれたり、ヨーロッパに居るライオン先生にも幾度も連絡を取ったりしたわ。先生は多彩な人脈をフルに活用し、全てのお弟子さんにも協力を呼びかけた。
そして、試行錯誤のすえ、私たちは遂に伝説の世界の入り口、阿武隈の奥の洞窟に辿り着いたの」
「待って!待って!それって、……本当に本当の話?」
恵子は信じられないような顔の一平に、くすりと笑った。
「もう、あれから七年になるわ」
「ユウマ君には……?」
「所詮はメルヘン。メルヘンの世界は入り口を見つけるまで。
中に入った七郎先生達と私は、異世界に導くはずの洞窟の中の小径が、どうしようもないほど完全に塞がれているのを見たわ」
「それで?」
恵子は、込み上げる感情に七郎の胸に縋って泣きじゃくったのを思い出した。
「……でも、私的には無駄じゃなかったわ。その扉の向こうにユウマが生きているって実感だけで十分だった。希望は生きる最大の糧。そう考えれば、途が閉ざされていて良かったのかも」
「七郎先生たちは?」
「削岩機を入れて岩を取り除き、何とか夢を遂行しようと主張した方もいたけれど、七郎先生が夢の終了を宣言したの。そして私には、最高に素敵な慰めのメルヘンを語ってくれた……。
恵子が考えることは、向こうの世界のユウマも考えるはず。だから、待っていればユウマは必ず迎えに来るって」
「ママはそのメルヘンを信じた……」
「そう!そして、三年後に愛しの一平君が目の前に現れたの」
「でも、本物じゃ無い」一平は溜息を漏らした。
「ううん。寧ろ本物よりリアリティがあるわ。……それに、そんなことはもういいの。この世で本当に大切なのは結果なのだから。人生には解決なんて無いのよう。ただ、進んでいくエネルギーがあるだけ。そういうエネルギーを作り出さねばならない。解決はその後よね」
恵子は物憂げに欠伸をした。
やがて二人は一時を惜しむように抱きあい、眠りに落ちて行った。
* * *
全日本学生選手権を終え、夜の宴会用に着替えるためアトリエに着くと、テーブルの上にメモが走り書きしてあった。
【素晴らしい活躍、テレビで見ました。デジャヴに出るので遅くなります】
シャワーを浴び、着替えて歯ブラシをしながらアトリエをぶらぶら歩き回り、今挑んでいる恵子の大作を見た。
フレスコ画を思わせるアクリルの擬似古典的手法が駆使されている。
夕暮れの中、葡萄棚の下で一房の葡萄果に片手を添え、パンフルートを持っている古代ペルシャ風の青年が描かれていた。
青年は一平だった。